「ぼくは、守ることしかできません。他に何も知らないから。」
そいつは、ひどく透明な笑い方をする男だった。
平凡な容姿で、名も、年も、どこから来たのかも何一つ知らないという。その男をお嬢様の付き人としたのは主人の気まぐれだった。
「レディ、あの花の名は何ですか?」
「レディ、これはどんな食べ物ですか?」
「貴方、本当に何も知らないのね!私のほうがたくさん知っているわ!仕方ないから私が教えてあげる!」
「はい、お願いします。レディ」
高慢で勉強が嫌いだったお嬢様はその男が付き人になってから学びを厭うことが無くなった。
「何も知らないあの人に私が教えてあげるのよ!」
そう言うお嬢様の頬はわずかに朱に染まっていて。
「おや?お嬢様はあの男のことを好ましく思っていらっしゃる?」
私が冗談混じりにそう問うと、
「ばっ…好き、とかそういうのじゃないわ!
ただ、付き人としての彼がそばにいると落ち着く、それだけよ!」
と、ますますその頬を朱く火照らすのであった。
男が家に来て数年経ったある日、突然お嬢様の行方がわからなくなった。誘拐か、家出か、何もわからずありとあらゆる手段で捜索の手を伸ばしても手がかり一つ掴めることはなかった。
事件から数日後、次は男が姿を消した。
美しく成長した娘と、信頼していた従者を失った主人は日を追うごとに窶れ、老いていった。
そして、一ヶ月。
突然いなくなったその男は、姿を消したときと同じように突然帰ってきた。その腕の中に眠るお嬢様を抱いて。お嬢様をベッドに横たわらせると彼は糸が切れたように崩れ落ちた。その体は傷だらけで、自分のものか他人のものか分からないほど血にまみれていた。
「お嬢様は毒を飲まされ…」
一命はとりとめたが、いつ目を覚ますかはわからない、と。
男とお嬢様が帰ってきて3年の月日が流れた。お嬢様は未だに目覚めないまま。主人はお嬢様が目覚めることを信じ続けていたが、日に日に瞳には絶望の色が濃くなり、床に臥せることが増えていった。
男は、あれから何も変わっていないように見えた。何も知らない、透明な笑みを浮かべる物知らずな男。
その年の冬、彼は数年前と同じように姿を消した。どこを探しても見つからない。一月が経ち、二月が経ち、冬が去り春になっても彼は帰ってこなかった。
季節がめぐり、また空気の凍る冬がやってきた。寒い吹雪の日、お嬢様が目を覚ました。歓喜に湧く屋敷の中、お嬢様は少しやつれた顔で微笑み、
「私はずっと眠っていたのね。ねえ、彼はどこ?」
男が一年前に姿を消したことを伝えるとお嬢様は目を見開き青褪めた。
「夢の中で、ずっと知らない場所を彷徨い続けていたの。何度も道を間違えて冥界に誘われそうになって…。
でもある日、彼が来てくれた。彼の導きに従って歩き続けたわ。何度も諦めそうになって、けれど季節がめぐる頃には帰れるって彼が言うから、信じて歩き続けたの。夢の中でも季節は巡っていて、彼の言うとおり季節が一巡りしたとき、気がついたらここで目を覚ましたわ。
ずっと彼が助けて守ってくれたの。彼がいないってどういうこと?彼は、帰れたとき必ず貴女の元にいますと、そう言ったのよ。」
人が夢と現の狭間を超えるなどあり得ない。それを人の身で行うには代償が必要だ。それを成した男はお嬢様を救うために魔に堕ちたのだと、夢の世界に囚われたのだと家の誰もが考えた。
お嬢様を除いては。お嬢様だけは、男の帰還を信じていた。
「だって、約束したもの。必ず共に帰ると。」
お嬢様が、そう笑ったとき部屋に一陣の風が吹いた。
「遅くなり、申し訳ありません。」
その声は間違いなく彼のものだった。しかし誰もそれをあの男だとはわからなかった。濡れた若葉色の髪と瞳。この世のものとは思えない美しさ。それは伝承にあるエルフの姿によく似ていた。笑い方と声だけが、どこか彼を思わせた。
「言ったでしょう。僕は守ることしか知らない。だからこそ、愛した人はどんなことをしても守ってみせます。それしか僕は知らないから。」
そう笑う姿に男の透明な笑顔が重なる。
「おかえりなさい、必ず帰ってくるとわかっていたわ。」
彼だけを見つめ、心から嬉しそうに微笑むお嬢様と、
「ただいま、帰りました。マイ・レディ」
お嬢様に、恭しく頭を垂れ跪くエルフの男。
二人のキセキが、今重なった。