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気がつくと、石造りの階段を降りていた。
明かりは見当たらないが、完全な闇ではない。光源のわからない薄明かりがぼんやりと足元を照らしている。
気づいた時点で足を止めて辺りを見回したが、ここがどこなのかはよくわからない。ただぼんやりと降りていかなければならない気がして男は……七重家綱は歩を進める。
それからどれ程降りただろうか。階段を降りきると、狭い通路と二部屋分の鉄格子があった。家綱から見て手前の鉄格子は開いており、中を覗くと五人分の見知った顔がこちらを見ていた。
「……よう」
声をかけたが、五人はすぐには答えなかった。悲しそうな目でこちらを見る者や、睨みつける者、呆れてため息をついて目をそむける者もいる。
「どうした? 初めての会合だってのに厭にノリが悪いじゃねえか。葛葉は腹でも減ってンのか?」
問われ、五人の内の一人……葛葉は家綱から顔をそむけた。
そう、初めての会合なのだ。ここにいる五人は全員、家綱の中にある別人格である。葛葉、アントン、晴義、ロザリー、纏……そして家綱。今初めて、六人が一堂に会しているのだ。
「薄ら寒い軽口はやめて頂戴。今のあなたって晴義以下よ」
腕を組み、辛辣にそう言ったのは纏だ。壁にもたれかかった状態で、鋭く家綱を睨みつけている。
それに対して先に反応したのは、家綱ではなく晴義だ。
「酷いな纏ちゃん、それじゃ僕が普段そこの馬鹿より酷いみたいじゃないか」
「ええ、精々糞虫の背比べよ」
「じゃあこういうのはどう? 絶世の大和撫子、糞虫と恋に落ちるっていうのは」
「悪いけど由乃ちゃん以外には興味がないの。土の下で寝ててもらえるかしら」
「オーケイ、下で待ってるよ」
にべもなく突き放されながらも、晴義はそんな軽口を叩いてヘラヘラと笑う。それに呆れたのか、纏はわざとらしいため息をついてみせた。
「オー……土ノ下、暗ソウデス……」
地面を見つめつつ、アントンはそんなことを言い始める。それに対して晴義はうんうんと頷きながら再び口を開く。
「そうなんだよねぇ。でも、ロザリーちゃんが一緒に来てくれたらどんな場所だって明るくなるかも」
そんなことをのたまいながら晴義が歩み寄ると、ロザリーは不愉快そうにそっぽを向く。
「ごめんあそばせ。わたくし、あなたのようなチャラチャラした方は好みではありませんの」
「そりゃ良いや。君がこれから僕を好きになる……その過程が見られるかも知れない」
そんな彼らのやり取りを、家綱は呆然と見つめている。何故か蚊帳の外にされていることもそうだったし、視線も妙に痛い。訝しんでいると、葛葉が早歩きで家綱の目の前まで来た。
「葛葉……?」
葛葉の背丈は家綱とそう変わらない。近い高さでまっすぐに家綱を見つめた後、葛葉はじんわりと目に涙をためていく。
「お、おい……」
どうした、と言いかけた口が平手打ちで強引に閉じられる。一瞬わけが分からず、家綱の顔はぶたれた角度のまま制止した。
「どう……してっ……!」
ああ、自分はその言葉の続きをもうわかっている。そう感じて、家綱は何も挟まずに葛葉の言葉を待った。
「どうして由乃ちゃんと……離れちゃうのっ……!」
重く、刺すような沈黙が訪れる。もう刺し傷だらけの心に、これ以上何を刺したいといのうのだろうか。
「仕方ねえだろ……。こうするのが一番安全だった……お前らだってわかって――――」
「違うでしょっ……! 離れちゃうのは、違うでしょっ!」
家綱の言葉を遮るように、葛葉がすがりつく。うまく言葉を返すことが出来ないまま、家綱は顔を背けた。
「やめなさい葛葉。そんな男にあまり近づいてはダメよ。馬鹿が伝染るわ」
「でもっ……!」
纏は変わらず、刺すような言葉と視線を投げ続けている。
「全くだよ。それよりこっちにおいでよ。涙を拭くなら僕の方が得意だからね」
晴義の口調は軽いが、家綱に対しては鋭い視線を送り続けている。それはロザリーも同じで、アントンは何かを言いたそうに家綱をただ見つめているだけだ。
まるで四面楚歌のようなこの状況に、家綱は強く拳を握りしめる。
好きでこうしたわけじゃない。
こうなりたかったわけじゃない。
「お前らだってわかってンだろ!」
気がつけば、家綱は鉄格子を殴りつけていた。
「じゃあどうすりゃよかったンだ!? 由乃を自分で守るか? あんな不安定な状態でか!? もうまともに自分の姿も保てねえんだぞ!」
もう、家綱は自分の身体をほとんどコントロール出来ない。戦うどころか、普通の調査だってまともには出来ないだろう。身体はあまりにもアンバランスで、うまく走ることさえ出来ないかも知れない。そんな状態で由乃を守れるだなんて、家綱には少しも思えなかった。
従わなければ由乃がどうなるかわからない。そう脅してきたのは他でもない由乃の祖父だ。あの日、あの夕方、まるで一人になるのを見計らっていたかのように、あの老人は家綱に接触した。
「本当に情けない。こんな男に今まで良いように使われていただなんて、思い出しただけで寒気がしますわ」
「ああそうだよ! 情けねえよ! 怖くて仕方ねえよ……ッ!」
自分がどうなるのかわからないのが怖い。いつ自分が自分でなくなるのかわからない。いくつもの人格に侵食されていっているようで恐ろしかった。その上由乃を失うかも知れない恐怖が混ざり合って、もう動けない程に縛られてしまっていた。
「もう……兄貴みたいなことになるのは御免なんだよ」
離れることが正解なら、それでも構わないとさえ思えた。
「そうだ……失わねえためなら、なんだって――――」
言いかけた瞬間、今まで黙っていたアントンが肩を怒らせて家綱に歩み寄る。そしてそっと葛葉を押しやると、家綱の胸元を掴み上げた。
「ナンダッテシマスカ!?」
優しげな垂れ目を精一杯釣り上げて、アントンはギロリと家綱を睨めつける。そんなアントンを、家綱は思い切り睨み返した。
「ああそうだよ! なんだってやってやる! 離れるくらいなんだ!? どうってことねえよ!」
そう言った瞬間、アントンの拳が家綱の顔面を殴りつけた。
その場からふっ飛ばされ、家綱は鉄格子に背中から叩きつけられる。
「違イマス! アナタ、逃ゲテルダケデス! 何モ……シテイマセン……!」
その瞬間、家綱は自分の頭に血が上るのを理解した。鉄格子に寄りかかりながら立ち上がり、アントンを含む全員を睨みつけた。
「いい加減にしろよテメエら……ッ! さっきから具体的な解決策も出さねえで責めやがってよ……ッ! どうすりゃ良かったってンだよ!」
出来ることなら、離れたくなどなかった。
そばにいて、例え何に脅かされようと守ってやりたかった。
「出来ねえだろ! 守るどころか、俺は……由乃を傷つけちまうかも知れねえンだぞ……!」
家光を……兄貴を殴った感触が今でも忘れられない。殴ったのが家綱自身ではなくても、まるで咎のように感触だけが家綱の中に残っている。
「だから逃げるのかい? 彼から」
彼から……セドリックから。
そうだ、あの男は手に負えない。どうにも出来ない。今まで何とか抑え込んできたが結局駄目だったのだ。きっとこれからもうまくいかない。もう現れないように、見なくてすむように抑え込んだのに駄目だった。きっとこれから先も呪いのように付き纏う。
「言っとくけどさ、今の僕達の状況を憎んでるのは彼だけじゃないんだよ。まあわかっているとは思うけど」
そう言って一息ついてから、晴義は言葉を続ける。
「僕だってそうだし、他の四人だってそうだよ。どうして僕達はこんな風に君に縛られなくっちゃいけないんだ?」
「そ、れは……」
一つの身体に七つの人格。それぞれが違って、それぞれにやりたいことがある。けれど身体はたった一つだけで、誰もが思うようにいかない。何故こんな風に生まれてしまったのか。セドリックだけではない、全員が多かれ少なかれそう思っている。
「でもそれは君だってそうだ。僕らに振り回されている」
晴義の言う通り、家綱だってそうだ。望んだわけでもないのにこんな身体になり、爆弾まで抱えさせられて。いつまで自分のままでいられるのかも判然としない。どれだけ慣れても不自由なことに変わりはない。
「……でもそれは仕方ねえだろ……。俺だけが独り占めってわけにはいかねえ」
「そうね……仕方ないわ。だからこうして諦めて、受け入れるしかないのよ」
晴義の代わりに答えたのは纏だ。心底うんざりした様子ではあったが、現状を嘆くようなことは言わなかった。
「少なくとも私や……ここにいるあなたとセドリック以外の四人は受け入れている。あなたはどうなの?」
「……俺? そんなモン、とっくの昔に諦めてるに決まって……」
違う。
受け入れてなどいない。
「…………俺は……」
抑えつけていた。
受け入れられないから。
否定してしまいたいから。
自分が大切な人を傷つけてしまったことを。
違う、アレは自分じゃない。別の存在だ。身体の中に巣食う悪魔か何かだ。そう思って逃げ続けていた。
だから怖かった。
抑えつけていたアレが目覚めてしまったことが。
「……そろそろ、どうすれば良いのかわかったのではなくって?」
ロザリーの言葉に家綱は答えない。ただ黙ったまま、その場に立ち尽くしていた。
それからどのくらいの時間が経っただろうか。家綱はおもむろに鉄格子の向こうへ出ると、隣の部屋へと向かっていく。
「……ああ、そうか」
その部屋の鉄格子の向こうでは、一人の男が鎖に繋がれていた。男は両手を釣り上げられたまま、ゆっくりと顔を上げて家綱を睨みつけた。
「俺は、お前を否定した」
消えてしまえば良い。いなくなってしまえば良い。こいつさえいなければ、兄貴は……。何度もそう思って、この男を否定した。
こいつは、俺じゃない、と。
緩慢な動作で鉄格子を開けて、家綱は一歩踏み入れる。
「……ここから出せ」
「ああ、今出してやる」
家綱がそう答えた瞬間、男を――セドリックを繋いでいた鎖がかき消える。そしてすぐさま、セドリックの拳が家綱をとらえた。
その場で思い切り殴りつけられ、家綱は仰向けに倒れる。そんな家綱を、セドリックは馬乗りになって更に殴りつける。
「お前は俺をッ……ここに縛り付けたッ!」
「そうだよ……俺は……お前を、縛り付けた……」
家綱がそう答えると、セドリックは家綱の胸ぐらを掴んで引き寄せる。
「俺はお前が憎い」
「……俺もだよクソがッ!」
不意に声を荒げ、家綱はセドリックに思い切り頭突きを喰らわせる。不意打ちだったのか、セドリックはその場で勢いよくのけぞった。
「だがな! クソムカつくことに俺もお前も“俺”なんだよッ! どうしようもなくな!」
ずっと違うと思い続けていた。本当はそうではないとわかっていながら、必死で思い込もうとしてきた。セドリックは自分ではないと。
ずっと否定してきた。
「そうだ、俺もお前と同じだよ! 俺だってここから出てえよ! 自由になりてェッ!」
ここから出たいのも、縛り付けられていたのも、家綱自身だった。
しかし葛葉達への負い目からかずっとそんな思いは沈めていた。考えないようにしていた。その分だけ、セドリックが代わりに苦しんだ。
「俺とお前は……いや、葛葉もアントンも、晴義もロザリーも纏も、全員表裏一体だ! そうだよ、俺は“俺達”なんだよ!」
「だったらどうした! それがなんなんだ!?」
要領を得ない家綱の言葉に苛立ったのか、セドリックは再び拳を振り下ろす。しかし家綱は、その拳を右手で受け止めた。
「どうもしやしねえよ……!」
そう言ってセドリックの拳を振り払うと、家綱はセドリックを突き飛ばす形で起き上がる。
「ただもう、飲み込むしかねえだろうが」
そう答えた家綱を見上げて、セドリックは一瞬ポカンとした表情を見せた。しかし次第にわなわなと震え始め、やがて立ち上がると再び家綱を殴りつけた。
「ふざけるなッ!」
「ああそうだよな! 飲み込めねえよな! 俺だってそうだよ、お前なんざ冗談じゃねえ!」
たたらを踏みながらも何とか持ちこたえ、家綱は負けじとセドリックを殴り返す。
「好きなだけ殴って来いよセドリック! ただしその分俺も殴り返してやる! せめてお前が兄貴を殴った分だけはここで返してやるよ!」
「上等だ……思う存分やらせてもらう!」
そこからはただの殴り合いだった。
もう喧嘩でも何でもない。ただ殴り、殴り返す。お互いに一切避けようともしない、ただのテレフォンパンチの応酬だ。
それが続けば続く程、景色は変わっていった。
一発殴る度に壁が、鉄格子が勝手に崩れ、部屋が壊れていく。床がひび割れ、むき出しになった地面には草が生い茂っていた。
そして家綱とセドリックがクロスカウンターで同時に拳を叩きつけあった時、完全に天井が瓦解した。
「ハァッ……ハァ……ッ」
気がつけば石造りの壁も、床も、鉄格子も、階段もどこにもない。無限に続く草原と青空と、過剰なまでに照りつける太陽だけが残った。
もう、窮屈なものは何もない。だだっ広い草原に、家綱とセドリックが大の字に寝転がっているだけだ。
「おい」
仰向けのまま家綱が声をかけると、セドリックは答えないまま家綱へ顔を向ける。
「満足したか……?」
「……しねえよ!」
ぶっきらぼうにセドリックがそう答えると、家綱は思わず吹き出してしまう。当然だ、あんな吹っ切れたような顔で満足してないだなんて言われたら、誰だって吹き出すだろう。
「ハハッ、そうかよ。じゃあ続きはまた今度な!」
そう答えて、家綱は何とか立ち上がろうとする。すると、不意に上から手が差し伸べられた。
「……アントン」
「大丈夫デスカ? 起キ上ガレマスカ?」
「いや、きついな。ちょっと手ェ貸してくれ」
「オフコース!」
どこか嬉しそうにそう答えて、アントンは差し出された家綱の手を掴んで引っ張り上げた。
アントンに寄りかかるようにして立ち上がり、家綱は自分を見つめる四人に目を向ける。
「悪い、続きはまた今度っつー話になった」
「……そう? もう必要なさそうに見えるけれど。馬鹿ね男って、結局殴り合うだけなんて」
心底呆れた様子でそう言う纏だったが、もう刺すような視線はない。むしろどこか楽しそうとさえ感じられた。
「……で、これからどうするつもりですの?」
「決まってンだろ、由乃のとこに行く」
家綱がそう答えた瞬間、全員の表情が明るくなる。それを見て、家綱はやっと安堵のため息をついた。
「良いのかい? 君がいると由乃ちゃんを傷つけちゃうんじゃなかったの?」
「もう心配いらねえよ。そんなことにはならねえ、俺がさせねえ、しねえ」
セドリックが目覚めてから今日まで、家綱は自分をコントロールすることがほとんど出来なかった。それは必死に抑え込もうとしているセドリックが暴れているからだと思っていたが、それは理由の半分に過ぎない。
受け入れていないものをコントロールすることなど出来ない。セドリックを否定し、受け入れようとしない家綱に、自分の能力をコントロールすることなど出来るわけがなかったのだ。
「まだ完全にとはいかねえけどな。それでも俺は、これからアイツを、今を受け入れる。もうセドリックに押し付けたりしねよ」
食べたい、愛でたい、モテたい、高貴でありたい、愛し愛されたい、自由でありたい、それら全部が自分の感情であり、各々の感情でもある。それらを全部、少しずつでも飲み込んで、歩いて行く。そうすればきっともう、暴走することもない。
そしてその道は、一人で歩くわけではない。
「由乃とお前らと……俺は生きていく。だから、力を貸してくれ」
「頼マレルマデモアリマセーン! 私ノ方カラオ願イシタイデース!」
アントンは力強くそう答え、
「ま、しょうがないね、由乃ちゃんのためなら」
晴義はいつもの軽口をのたまい、
「ただし、もう二度と離れないと約束してくださいまし。由乃にはわたくしがついていませんと」
ロザリーは恥ずかしそうにそんなことを言って、
「……家綱くん」
葛葉は、今にも泣き出しそうな顔で微笑んだ。
「いくらでも協力するから……お願い、行ってあげて……!」
「……おう」
短くそう答え、家綱はアントンから離れて自身の両足で立つ。もう迷いはない。この足で歩いて行ける。
「……一つ条件があるわ」
しかし不意に、そんなことを言いながら纏が真剣な眼差しで家綱を見つめる。すぐに家綱が見つめ返すと、纏は真剣な顔のままとんでもないことを口走った。
「最終的には由乃ちゃんと結婚しなさい」
「……ハァ?」
わけがわからず家綱が顔をしかめると、纏は家綱に駆け寄って家綱の両肩を掴んで揺さぶり始める。
「良い? 不本意だけど私とあなたは同一人物なのよ? それが何を意味するかわかる?」
「いやわかんねえよ! 少なくとも今お前が考えてることはな!」
「馬鹿ね、あなたが由乃ちゃんと結婚すればそれは結果的に私が由乃ちゃんと結婚するということになるわ」
「はぁ……まあ」
「私からの求婚は既にやんわりと遠回しに断られている、でもあなたなら結果は違うかも知れない」
そこまでほぼ一気に喋ってから、纏は一息ついて一度言葉を止める。そしれしばらく逡巡するような表情を見せた後、意を決したかのように口を開いた。
「癪だけど、私もあなたを受け入れる。希望として」
そこまで聞いて、とうとう耐え切れなくなって家綱は笑い始める。纏が滑稽だからではない、単純に面白くて笑ってしまったのだ。
「何よ。何がおかしいの」
「いや、わりーわりー、こいつほんとに俺かよって思うとな」
家綱、葛葉、アントン、晴義、ロザリー、纏、そしてセドリック。それぞれ人種も性別も違う七人が全て実質同一人物。その状況があまりにも面白く感じられてくる。
ものは考えようなのかも知れない。窮屈なこの状態も、見方を変えれば面白い。こんな個性は他にない。
「ああ、前向きに検討しといてやるよ」
「……頼んだわよ」
纏にああ、とだけ答えて、家綱は背を向ける。
もう、あまりにも長く立ち止まり過ぎた。
「……待ってろよ、由乃」
己を鼓舞するようにそう呟き、家綱は早足で歩き始めた。
***
どうして、同じことばかり思い出すのだろう。
生まれてから今日まで沢山のことがあって、沢山の人に出会ったハズなのに。もう、一人だけしか思い出せない。
だらけた顔も、情けない顔も、気取った顔も、辛そうな顔も、カラッとした笑顔も、もう何度思い出したのかわからない。
体感時間が厭に長くて、もうとっくの昔に地面に落ちていても良い気がするのに、まだボクは落ち続けている。
終われない。
このまま落ちて、終わってなんてやれない。
ボクは絶対生き延びて、アイツの罪を暴いてやる。きっと家綱のことも見つけ出して、それで……それで……
「家……綱……」
マラカイトを握る手に力が入る。呼んだって来ないとわかっていても、それでもボクは祈るようにその名を呼んだ。
助けてほしい。でもそれ以上に、ボクはアイツに会いたい。もしこのまま落ちて死んじゃうなら、せめて最後にもう一度あの顔が見たかった。
強く思えば思う程涙が溢れて止まらない。落ちる恐怖よりも、アイツが今いないことが辛くてしょうがなかった。
「家綱……家綱家綱家綱……家綱ぁっ!」
喉が張り裂けそうなくらい叫んで。血が出そうなくらいペンダントを握りしめて。
「……えっ……?」
そしてそっと、抱き止められたんだ。
顔を上げると、バツが悪そうな表情のアイツがいた。
「……よう」
短くそう言われて、ボクはもうわけがわからなくなった。
「なん、で……」
いや、そんなことはどうでも良い。もう、どうでも良いんだ。
「なんでって……そりゃあ……」
そこで一度言葉を区切ってから、家綱は深く息をつく。そしてボクを真っ直ぐに見つめてゆっくりと抱き直した。
「お前が、呼んだからだろ」
さっきまでまるで、深海にいるみたいだったのに。
おじいちゃんに裏切られて、もう何を信じたら良いのかもわからないような気持ちになって、独りぼっちになったみたいだったのに。
今はこんなに、温かい。
大好きな匂いが鼻腔をついて、ずっと見たかった顔が、聞きたかった声が、ボクを満たしていく。
何で、こんなになっちゃうんだよ。
「……ってお前、それつけてンのかよ」
恥ずかしそうにそう言って家綱が目を向けていたのは、ボクが握りしめているマラカイトのペンダントだった。
「ったく……恥ずかしいだろ」
「つけ……るよ」
当然だ。ボクは、このペンダントを必死で信じていたから。
「だって……マラカイトの石言葉は……」
恋の成就や繁栄、そして――――
「『再会』だからっ……」
家綱は適当に選んだんだと思う。
だけどそれがマラカイトだったことには意味があったんだ。ボクはそう思いたい。
ありがとう、家綱。ボクをもう一度、見つけてくれて。
「おかえり……家綱」
「……ただいま、由乃」
ああ。
やっと、会えた。