仕事帰りは比較的空いた電車のなかで、レシピサイトをチェックする。それは、広坂の母が更新するものだ。料理上手で、毎日従業員のために、美味しい美味しいレシピを作る彼女は、ある日従業員から頼まれたそうだ。出来れば、レシピを公開して欲しい、と。
あの日いただいたまかないは絶品だった。かれいの煮つけ、ほうれん草とパプリカの塩こうじ和え、胡瓜と茄子のお漬物、それから味噌汁……。従業員はほとんどが女性。子育てに奔走中で、自己を顧みる余裕すらない女性もおり、彼女たちのために、たっぷりの野菜を彼女は用意する。手際よく料理を作っていくあの姿に、言い知れぬ感銘を、覚えたのであった。
いつものように、今日はなにを作ろうか。サイトをチェックしていると、メッセが来た。広坂の兄である守からだ。
『突然すみません。
話したいことがあるのですが、明日は空いていますか』
今後のためにと、広坂の家族全員と連絡先は交換していた。彼女は返信した。
『仕事が終わったら空いています。
横浜でしたら、六時半には着けると思います』
すぐに返事が来た。横浜駅に六時半に待ち合わせることを約束し、彼女は広坂にも連絡をした。
『お仕事中、ごめんなさい。
明日は用事が出来たので、すみません。
お夕飯は自分で用意いただけますか?』
「あ。はや」すぐに返事が来た。
『いいよ。ゆっくりしておいで』
結論からいうと、結ばれたとて、広坂は愛情を台無しにするような、短絡的な男ではなかった。むしろ、広坂は彼女を尊重した。激しく、求めあうときもあれば、おだやかな風の流れるようなセックスに身を委ねる……広坂の織り成す愛の調べに、常に彼女は酔わされた。酔いしれた。彼の虜になっていた。
彼と結ばれてから、彼女はいろいろと変化をした。街で見かける光景が、急速に愛おしいものに思えるようになった。子ども連れの親子に向ける眼差しのやさしさ。お年寄りを見かければあああのひとたちは、ずっとずっと社会に貢献してきたんだなと。ファミリータウンに過ごすゆえ、子どももお年寄りも見かけることが多い。犬を散歩する飼い主も多く、見かければ「可愛いですね」と声をかけた。
広坂の愛を注ぎ込まれたことで、内面が変化したのだ。それは、山崎との行為では得られない財産だった。いつしか、山崎に対する罪悪に苛まれることはなくなり、彼女の中心に愛が居座った。広坂との行為で醸成された愛が。
行動基準は、広坂が指針となり、彼ならなにを食べるだろう。なにが欲しいのか……彼を中心に、考えるようになった。料理を作るといつも、あの幸せそうな顔が思いだされる。彼はいつも夏妃の食べっぷりが気持ちいいと絶賛したが、夏妃からすれば彼の食べっぷりこそが気持ちよかった。料理の腕前がどんどんあがり、手料理を求めた山崎、そして膨大な美味しいレシピを提供する広坂の母に感謝していた。
横浜駅へと向かう、水曜日。相変わらず彼女の頭のなかは広坂だらけだった。スマホでつい、レシピを検索してしまう。彼が喜んでくれるもの……野菜たっぷりの。お肉も美味しいものを。塩こうじもいつか手作りしたい。喜んでくれるだろうか? 喜んでくれるだろう、彼のことだもの……。
好きすぎて顔がにやけてしまうなんてのも、初めての経験だった。広坂と出会ってから、日常がめまぐるしく変化をした。与えてばかりだった側が、毎日水を取り替えられる花のように潤った。こころのなかは常に広坂びたしだ。広坂という、うるおいを与えてくれる存在で、満たされている。
約束の時間よりも五分ほど早く着いた。改札前で、守が手を振っていた。彼女が近づくと彼は頭を下げた。「急に、お呼びだてしてすみません。夏妃ちゃん。なにか食べたいものはあるかい?」
「いえ特に……」こんな返事は困らせてしまうだろうか。それに、話とはなんだろう? 直感的に、このひとは弟の恋人を口説くような輩ではない、そのことは分かっていた。ならば……。
「ちょっと、行きつけの店でもいいかな。個室があるから、静かに話せる」
いかにも高級な中華料理屋の、静かな部屋に通され、料理が並ぶが、守の深刻な表情を見る限り、これを楽しむために来たわけではなさそうだ。
「あの……、お話って」
「気になっていたんだ」冷や水を口に含むと守は、「あのときの、夏妃ちゃんの反応が。おそらく、『知らない』んだろう、と。……弟が話さないのならば話すべきじゃないと思ったんだけれど、でも、結婚するんだよね? なら、……知っておいたほうがいいと、おれは思ったんだ。それ含めて判断材料にすべきだと思うんだけど、……んとにあいつは。ひとりで抱え込みやがって……母さんも親父もそうだろうことは見抜いていて、心配している。しかも、契約結婚だろう?
おれが思うに、あいつは、……きみのためという大義名分を用いて、自分を晒すことへの不安から逃げている。
入籍は七月七日だと聞いている。でも、あいつが知らせるのか、それとも知らせないのか、おれには分からないから……そもそも、おれが口出しすべき問題じゃないのは分かっているけれど、結婚するならばおれはきみの兄になる。妹が『知らず』に苦しむのを、阻止する義務があるんじゃないか。それに、譲は、大切な弟だ。あいつにも、きみに打ち明けることで楽になって貰いたい……余計なおせっかいかもしれないけれど、でも、放っておけないと思った。
勿論、おれから聞いたとあいつに言ってくれて構わない。誰か友達の口を介してばらされたと知るほうが、あいつはショックを受けるだろうから……」
当然ながら料理に手をつける気配はない。彼女も、勿論そのつもりはない。
ここで、思い当たった。……確か、先週広坂のショップを訪れた際、守がこぼしていた。
『だーからおまえは四十になってもまぁだ独身なんだ。だいたい、あんなことさえなけりゃ……』
――『あんなこと』。疑問には思っていたが、しかし、この温厚そうなお兄さんを悩ませるほどに、深刻な問題だとは思わなかった。
「『あんなこと』って、……なんですか」直球ストレートを彼女は投げた。弟の婚約者である彼女に対し、守は、「……疑問に思わなかったかい? あいつの住むマンション……きみは、あそこに、住んでいるんだろう? どう考えても単身者向けじゃない。あの街自体、おれは一回しか行ったことがないけれど、駅近くのマンションの前に、車の入れない、街路樹に挟まれた幅広い通りがあるよね? あそこなんか、休日は自転車やらキックボードを乗り回す子どもたちだらけだ……。
あいつが何故、あそこを選んだと思う? 独身者のくせに、あんな住宅地に……あの辺り一帯、ファミリーマンションや戸建てが殆どだろう?」
「それは……老後のために、ローンを返済し終えていたほうが楽だからと。資産運用にもなるから……」閉所恐怖症もあるから、と彼女は言い足したのだが、
「であるなら1DK、せめて2DKのマンションで充分だ。おれはあそこらへんをあまり知らないけど、ムサコ辺りまで足を伸ばせば、タワマンの低層階であれば、そういう部屋は、充分に用意されているはずだ……。
結論を言うね」
笑みを消した真顔で守は言い放った。
「あのマンションは、十一年前、譲が婚約したときに、購入を決めたマンションなんだ」
八時前には帰宅した。広坂は、居間で本を読んでいた。確か、田口ランディの『コンセント』。なかなかエロティックな小説だと記憶している。広坂とは読書の趣味が合い、初めて彼のマンションに向かう電車の中で盛り上がった。湊かなえや宮部みゆき辺りも好きだという。
「おかえりなさい。……どうした?」
こころから心配する声音と表情。何故か広坂にはすぐ分かってしまう。「あなたには隠し事が出来ないわね」と彼女は手を洗うと彼の横のソファに座り、
「――全部、聞いてきた」
広坂の目が見開く。「全部って……つまり」
思い当たる節があるのか。涙腺が一気に決壊するのを感じた。あれはやはり――事実。
「どうして、話してくれなかったの……」こんなヒステリックな女など演じたくないのに。勝手に言葉があふれてくる。「わたし、譲さんのこと、信頼してるから、全部全部、話したんだよ? なのに、あなたは、違ったんだね……ねえどうして?
傷はまだ、癒えていないの? いつかわたしが裏切るかもしれないって――不安だった?
ぼくという人間そのものを見て判断して欲しい、とあなたは言った。だから、すべてをさらけ出してくれてるものとわたし――信じてたんだよ?」
「……どこまで知ってる」
表情を変えぬ広坂がなんだか怖かった。「あなたが、婚約破棄されたこと。婚約者が浮気した相手が常駐先の顧客だった。会社間のトラブルとなり、いたたまれずあなたが会社を辞めたこと。ご両親がその女性を、訴えたということ。このマンションは、もともとふたりで気に入ったマンションで、あなたは……慰謝料を貰ったということ。それからあなたは、実家に寄り付かなくなり、ひとりで、ここに過ごすようになったこと。
全部。全部よ……」
言ってはならないと思うのに、口が止まらない。「ねえ。わたし、ショックだったよ……あなたの口から聞かされなかったことが。どうして……黙ってたの?」
「――余計な情報を、入れたくなかったから」淡々と広坂は他人事のように告げる。「別に、過去の話だ。無理に話して聞かせる必要なんか、ないだろう? それに、確かに、彼女とマンションを見て回り、ここに決めたけど……家具や内装の一切を決めたのはぼくだ。彼女ではない。もし話すと……いたずらにきみを刺激するだけだと思った。他の女と一緒に決めたマンションだなんて最初に知らされていたらどう思う? ここへの印象が、まるで違っただろう……?」
広坂の言うのは確かに正論なのだが。なにかが違う。
「お兄さん言ってた。譲は――見ていられなかったって。おれは止めたんだけど、両親が、訴えに出る、と。普段は温厚なのに力を尽くして慰謝料を要求するあの光景に、嫌気が差したって……。
あなたのなかで、整理はついているの? それともまだ、苦しんでいる……?
ねえ、いつわたしのことを好きになったの? 失恋したから? ……てか、失恋したからうちの会社に来たんだよねあなた。それで、どう思った。女なんかもう懲り懲りだとか……思わなかった?」
「――なんできみにそこまで話さなきゃならないんだ」広坂の声に怒気が混ざる。「それは、おれがひとりで勝手に乗り越えるべき問題だろ? きみには――関係ない」
平行線だ。
『関係ない』の言葉が鋭く彼女の胸を刺す。その痛みに耐えながら、彼女は、「あなた……自分のすべてを見てって言ったじゃない。これもそのうちのひとつじゃないの? 過去にあんな深手を負っておいて……なのに話さないって。それこそ、契約違反じゃない……」
「きみが望むのならいますぐ契約を破棄してくれたって構わない」
「どうして――そうなの!」たまらず彼女は立ち上がった。「あなたどうしてこんなときにも冷静なの! あなた、わたしのことが好きだって言ったじゃない! あれは、嘘なの!? 本当に愛しているのなら、こういうとき、行かないでくれって止めるでしょう!」
「……女の人って結局そうなんだね」エキサイトする彼女に比べ、どこまでも広坂は冷淡だ。「自分の思うようにならないとすぐかっかする。あなたの過去は嫉妬しちゃうから知りたくない……自分から男の女性遍歴を知ることを拒んでおいて、いざバラせばすぐそれだ。どうして言ってくれなかったの……それでジ・エンド」
「あなたは、わたしに、絶望しているの……呆れているの?」涙を拭い、彼女は、「本当に、好きだったらねえ、そんな言い方、しないよね……。一般論でわたしを傷つけて。ねえ、それで満足?」
「だったら土下座でもすればいいのか?」と広坂。「山崎のように、きみを重んじる、かたちだけのセックスをすればきみはそれで満足か?」
「信っじらんない……」彼女は絶句した。「言うにことかいて、過去の男を引き合いに出すなんてひどすぎる。もういい。出て行きます」
「過去にこだわっているのはきみだ」
広坂の捨て台詞を聞き捨て、寝室に入り、手あたり次第自分の衣類を引っ掴んでスーツケースに突っ込み、玄関まで行く。なのに、広坂は、……彼女に見向きせず、本を読んでいた。読むのが本かよと。
なんだったのだろう。あの生活は……あの愛に満ちたうるおいのある生活は。塵芥と消えたのか。悲しみとともに彼女は広坂の横を通り過ぎた。
鍵は、玄関に置いた。分譲マンション購入時に、広坂は鍵を四つ貰ったと言った。うち二つが、エントランスにかざすだけで自動ドアが開くタイプ。やたら重厚で、よく分からないへこみのたくさんある鍵は、鍵屋では複製不可能。これをなくすと、広坂が苦労するだろうと、そう思ったから。
ドアを開いた。前述の事情ゆえ、鍵はかけなかった。もう、ここを訪れることはないのかも……。
広坂は見送りにすらこなかった。たったそれだけの関係。なんなんだろう、と彼女は思う。廊下をずんずん進み、エレベーターに乗る。勝手にどんどん涙があふれてきて、拭うことすら出来なかった。いつもなら、こういうとき、やさしく、広坂が拭ってくれるのに……それから、あの魅惑的な唇で吸い取ったこともあった。あれはもう、『過去』なのだ……終わったことなのだ。
エントランスを出ると彼女は振り返り、
「さよなら」
と告げた。十二日間彼女をあたためてくれた存在に、本当はお礼を言いたかったのに、でも気持ちの整理がつかず、胸のなかを正体不明の嵐が吹き荒れており、それは――出来なかった。
アパートを解約しなかったのは正解だった。自宅アパートに戻ると彼女は、ひとり、涙に泣き濡れる夜を過ごした。なんだか広坂の肌が無性に恋しかった。
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