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「ああ、ちくしょう……」読んでいた本から顔をあげた。本の内容なんかちっとも頭に入らない。愛する女が出て行ったのに、それを止めなかった。自分の無力さに苛まれる。
土下座とか。哀願とか。すればいいのに、そこまで自分を捨てることは出来なかった。つまり、自分の夏妃に対する愛は、その程度のものだったのか。……分からない。
そもそも、何故、契約結婚を提案したのか。持ち掛けた広坂でさえ分からなくなっていた。一緒に過ごす。愛を深める。これのなにが悪い、と……。
頭をぐしゃぐしゃにかき回し、彼女不在の部屋を眺め見る。どこかに彼女が隠れていやしないかとつい期待をしてしまう。あの甘ったるい声で、譲さん、ごめんね、冗談だったの、びっくりした? 愛している……などと、あのくるくると変わる愛くるしい表情を見せてはくれないものか。
無駄に広い部屋が広坂のこころを締め付ける。ここで彼は初めて理解する――夏妃のことを、本当に、愛しているのだと。何故ならばこころが血の涙を流している。内部から破壊される痛烈なる痛み。元婚約者のときは、こうはならなかった。あれは確かに辛かったが、何故か玻璃を通して世界を見ているようであり、平坦で、自分のことなのに、どこか他人のことのように感じられた。そう、おれは、もともと冷たい人間なのだ……と彼は分析に着手する。
広坂は、新卒でSIベンダーにPGとして入社し、いくつもの客先で勤務し、腕を磨いた。元婚約者と出会ったのは、三つ目のプロジェクトであった。その女性は、広坂を雇う会社に、別の会社から契約社員として入っており――IT業界の構造は建設業界のそれとまったく同じだ。孫請け、ひ孫請け、もっと下など……大企業の冠を被された無名の会社があまた存在する。
人懐っこい印象の女性だった。夏妃とは違い、ガードが固いという印象はなかった。明るくてよくしゃべる女性だった。
どちらから誘ったというわけではない。男と女の始まりとは、そういうものだ。最初は会社の飲み会で、やがてふたりきりで会う関係に発展し、からだの関係を持つまでにさほど時間はかからなかった。
いま思えば、自分の見る目は浅かったと広坂は思う。簡単に発展するということは、簡単に解消しうるということ。また、簡単に他の男とも関係しうるということを意味する。社会の荒波に出て六年。社会人としてはまだまだ若造といえる彼が、奔放な女性の構造を理解するには至らなかった。
二十八歳という年齢も手伝い、広坂はプロポーズをした。彼の周りには既に結婚を決め、子どもの生まれた友人知人もおり、その年齢で結婚するのは当たり前だった。二人とも帰宅は二十二時を過ぎる生活を送っており、休日出勤も多々。入籍は焦らず、すこし状況が落ち着いてから――女性の両親は海外に赴任しており、帰国したタイミングで正式に挨拶を済ませてからにしようと決めた。テレビ電話で挨拶をしたが、明るい両親であった。まさかこの時点でこのひとたちをあんなに悲しませるなど――広坂は想像だにしなかった。
広坂は次男であるが、彼の両親は息子たちが結婚式を挙げることを熱望した。それも派手なものを。その頃から、ひずみが生まれていたように思う。結婚式場を指定され、司会者までも。自分たちに決定権を委ねるのではなく、都度口出しする両親に、実子である広坂でさえも、辟易した。不満は感じるものの、それでも彼らはなるだけ両親の意志を尊重した。ドレスだけは自分で決めたい、と元婚約者は訴えたのだが――試着の日に広坂の母が現れ、これが似合うわよ、と提案した。広坂の母にとってはいいものを勧めただけのつもりであったらしいが、それが、決定打となった。
着々と彼らは準備を進めた。業務も遂行した。合間を縫って、新居探しもした。すべてが一挙に変わり、広坂は目まぐるしいほどの忙しさを感じたが、彼女のためならと思えば、頑張れた。絞り切った雑巾から水を垂らすほどの努力を伴った。辛抱強く両親を説得し、なんとか自分たちの意志を伝え、その一方で情緒不安定な彼女を尊重する――板挟みだった。
苦しんでいたのは、広坂だけではなかった。しかし、元婚約者は、婚約者である広坂にその思いを伝えるのではなく、他の男と関係することで――憤懣を解消した。
元婚約者も実家暮らしであり、ゆえにセックスはラブホテルが定番だったのが、ある夜、彼女に拒まれた。ショックを受けた広坂に追い打ちをかける告白が待っていた。――婚約を解消したい、と。
激怒したのが、広坂の両親だ。既に式場も決めている。日取りも決まっている。取引先にも連絡をしており、突然の婚約破棄は、広坂の顔に泥を塗ることを意味する。ジュエリーショップは、顔が命だ。
広坂としては、裏切られた衝撃で、それどころではなかったのだが、両親が頑として譲らなかった。……訴えるべきよ。いくら口だしをされたのが嫌だからといって、……お金が発生しているのよ。わたしたちの顔に泥を塗った、あの子を許さない……いままでに見たことのない母を見て広坂は愕然とした。親でさえも信用出来なくなった。
サラリーマンである広坂にはなかなか実感出来ないが、客商売は、水物だ。人気があるときは勢いを誇り、売り上げがどんどん伸びるが、凋落するときはあっというまだ。それでも、既存の顧客は確保出来たが、元婚約者の一件で、大打撃を受けたのには変わりない。広坂の両親が戦ったのも、無理からぬ話だった。
また、よりによって孫請けの契約社員が顧客と関係したという事態は、当然ながら会社間の軋轢を生んだ。広坂の勤務する会社には社長が謝罪に訪れ、以後一切、元婚約者の会社からはひとを入れないことが決まり……会社を巻き込む大惨事を引き起こした張本人である広坂はやがて、会社で居場所を失った。裏切られた哀れな男という見方をする人間もいれば、会社に大損害を与えた加害者……そんな見方も優勢となり、冷たい目線が注がれた。彼の理解者は、この時点ではひとりもいなかった。
こつこつと結婚資金を貯めていた広坂は、腹いせとばかりにいい家具を買い揃えた。家具屋に通いつめ、間取り図を手渡し、担当営業と相談し、カーテンからソファ、ダイニング一式、ベッドに至るまでをオーダーする。年収の半分の額を一気に遣った。せいせいした。ここはおれの城だと彼は思った。自分の構築した城でひとり生きていくのだと。敢えてあの裏切り女と決めたこの場所で。世界で。戦うことが、彼のプライドだった。
何故、夏妃に、それを言えなかったのか。――嫌われるのが怖かったからだ。こんなにどろどろした自分の醜い、誰にも見せたくない部分など、知られたくなかった。ひとりむせび泣く彼は、電話の振動に気づく。反射的に素早く出た。「――夏妃?」
「……おれだよ」
「おれには息子なんかいませんよー」
「……ったく。冗談言えるくらいなら元気か」兄の守だった。「聞いたか? すまないな、余計なこと言っちまって……んで夏妃ちゃんはどうしている?」
「やーもう部屋で寝てるよ」咄嗟に広坂は嘘をついた。「まあ、それなりにショックだったみたいだけど、……うーん。事実は事実だからなあ。あくまで事実として受け止めてるよ。まー所詮過去の話だからさ。大事なのはいまでしょ。いま」
「そっか。よかった」軽口をたたく弟に安堵する守の声音。「ほっとしたぜ。なんか、夏妃ちゃん、顔色真っ青になっちゃったからさぁ。すごい、……心配したんだぜ。
じゃあ、遅くに悪かったな。夏妃ちゃんによろしく」
「ああ。ありがとな。兄貴。……じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
電話が切れた。自分と世界を繋ぐ糸が切れたとさえ思えた。これから自分はどうやって生きて行けばいい? 夏妃に捨てられたら……またも、捨てられた男という称号を頂戴するのか。一度ならず二度までも。哀れな。
山崎とのことで夏妃が傷つくのを恐れたのは、彼自身、捨てられた側の痛みを充分過ぎるほどに知っているからであった。両親も、兄一家も傷つけた。友達も失った。腫れ物に触られる扱いがいやで、彼のほうから縁を断ち切った相手もいる。幸せな家庭は広坂の目に毒であった。かつての仲間たちが家族ぐるみで集う……年賀状やメールでその様子を知らされ、彼は、孤独を深めて行った。
転職先で、夏妃に会ったときに、恋に落ちた。馬鹿な過ちを繰り返すものだと思った。馬鹿だと思った。彼女に彼氏がいることを知り、安心したくらいだ。
それでも、会社で表情がかたいのが気になった。一応は笑顔を見せるのだが、なんというか、よそゆきのような……こころを開いていない感じを受けた。テレホンアポインターと喋っているときのような距離感。だから、そんな夏妃が……素直になり、自分にこころを開いてくれたことが、嬉しかった。
でももう終わったのだ。夏妃は――出て行った。おれに、愛想を尽かして。
元婚約者の一件でも一切泣かなかったのに、このとき初めて広坂は号泣した。恋しくて恋しくてたまらない。会って話をしたい――すぐ抱きたいと思ったのに、傷つけた。もう彼女は自分のことなど許してくれないだろう。あんなに傷つけてしまったのだから。
残された夏妃の衣類を取り出し、その匂いを嗅いだ。彼女の魅惑はこんなところにも残っているのに、その存在は、ない……。
彼女が自分で決めたことなら、従うべき。
そういう契約を結んだのは自分だ。なら従うべき……けれどけれど、いまの自分は、夏妃が恋しくてどうしようもない……。一晩中、夏妃の名を呼び続け、広坂は泣いた。防音の完璧なるマンションが、このときばかりは嘆かわしかった。誰も自分の悲しみなど受け止めやしないと、痛感してしまうから。
翌日、夏妃は会社を休んだ。原因は瞭然だ。しかし、夏妃に電話をかける気力も起きなかった。彼女は、自分を『切った』のだ。契約は彼女が望めば破棄出来る、そう提案したのは自分だ。今更ながら契約の重みを感じ取った。あまりに重かった。
その更に翌日。別部署所属で席が離れており、人目もあるゆえ、課長である広坂が夏妃のところへ行くことは憚られたが、用事のついでに彼女の表情を盗み見た。パソコンに向かい、煌々と照らされる色白の顔はまた――あの頃に戻っていた。そう、広坂の愛を知らなかったあの頃に。
それが、きみの選んだ道なんだな、と彼は思った。言ったではないか。きみが決めたことにおれは従う――と。
身を引き裂かれる悲しみを覚えながら、広坂は、彼女の決断に従った。せめて、一度話をしたかったが……無理であろう。あんなに傷つけてしまったのだから。
トイレで密かに泣いた。デスクに戻る前に目薬を差した。こんなに自分が涙もろい男だなんて知らなかった。課長という仮面を被り、今日も広坂は戦う。愛する女のいる、愛する女のいない日常で。
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