テラーノベル
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高原の太陽は、東京のそれとは違って肌を焼き刺すような不快感がない。代わりに、どこか澄み切った光が木々の隙間からこぼれ落ち、アスファルトの上に白い斑点模様をつくっていた。
「元貴、足元気をつけろよ。そこ、苔で滑りやすいから。」
前を歩く若井が、振り返りもせずに声をかけてくる。
涼ちゃんは僕の代わりに「はーい」と小さく返事をしながら、ぴょんぴょんと危なげない足取りで若井の後をついていく。
「…大丈夫だよ、これくらい。」
僕は低く呟き、二人の少し後ろを歩いた。
一昨日の朝、涼ちゃんの部屋で見てしまったあのノートの光景が、頭から離れない。僕の書いた拙い絵日記の後にびっしりと書き込まれた、誰かの七年間。
あれはやっぱり、若井が書いたものだろうか。涼ちゃんとのどんな楽しい思い出をあそこに書いているのか。
あの二人がぴったりと離れず歩いていくのを見るだけで、胸の奥がぎゅっと擦り切れるように痛む。
今日は三人で、少し離れた川辺まで遊びに行くことになっていた。
僕が、昔よく川で遊んだと口にした時、涼ちゃんが「行きたい!」と目を輝かせたからだ。少しだけ、僕の提案が乗ってくれたことが嬉しかった。僕の知っているあの夏の涼ちゃんが取り戻せるんじゃないかという、愚かな期待が胸を膨らませていた。
「着いたー! すごい、すっごくきれい!」
木々を抜けると、視界が一気に開けた。
山からの雪解け水が混ざったような透明な川が、日光を反射してキラキラと輝いている。ゴツゴツとした岩場と、ひんやりとした川霧の匂い。
「すごいでしょ、涼ちゃん。昔、僕とここでーー」
「うわ、冷たい! 若井、見て、ここすごい冷たい!」
僕の言葉を遮るように、涼ちゃんは靴と靴下を脱ぎ捨てて川に足を浸していた。水しぶきが上がり、楽しそうな歓声が響く。
若井は慣れた様子で涼ちゃんの脱ぎ散らかした靴を濡れない岩の上に置いていた。
「急に入るなって。転んだら痛いよ。」
「大丈夫だよ。ほら、若井も入ってよ。」
涼ちゃんがパシャリと若井に向けて水をかける。光を反射した美しい水滴が舞っていた。
「あ、やったな」と笑いながら、若井もズボンの裾を捲り上げて川に入っていく。二人が無邪気に水を掛け合い、鈴が転がるような笑い声が響き渡る。
僕は、川べりの乾いた岩の上に立ち尽くしていた。
二人の間には、何年もかけて作られてきた「空気」がある。
若井が手を差し出すタイミングも、涼ちゃんが転びそうになった瞬間に支える動作も、すべてが完璧に噛み合っていた。僕がそこに入り込む余地なんて、どこにもないように思えた。
違う…僕だって、昔ここで涼ちゃんと遊んだんだ…。
爪が掌に食い込む。顔にかかる木の影が、冷たく寂しい風を運んでいるようだった。
「ねえ、元貴もおいでよ!」
涼ちゃんの声にふっと意識が浮上する。その変わらない笑顔を見て、自然に笑みが浮かんだ。
靴を脱いで冷たい水の中に踏み出した。足首を刺すような冷たさが走る。
「つめた…。」
足をならすようにゆっくりと二人に近づいていくと、突然目の前に水の壁ができ、頭に思い切り容赦のない衝撃が降ってくる。一瞬、息が止まった。
頭から胸くらいまでひんやりとした心地がする。濡れた前髪を払いのけると、にやにやと笑う二人の顔が見えた。
「…やったな…?」
「あはは、もうずぶぬれじゃん!」
すばやく両手を合わせて水ごと包み込み、ギュッと力を込める。手の隙間からぴゅっと勢いよく水が走り、のんきに笑っている涼ちゃんの顔を狙い通り直撃した。
「は?なにそれ上手くね!?」
「次はお前だ…。」
じりじりと後ろに下がっていく若井に、水を持ちながら近づいていく。避けてやろうとしたみたいだが、見事にこちらも直撃した。
しかし今度は後ろから水がかかってくる。涼ちゃんも真似してかけ始めている。
あれほど冷たかった川の水が気持ちいい。
いつしか激しい水の掛け合いと化し、川から上がってくる頃には三人ともぐっしょりと全身濡れていた。
「あー、疲れた…。」
冷えた体に昼間の強い日差しが温かい。少しの脱力感とともに、川辺を眺めながら下の石をいじる。かしゃかしゃとぶつかり合う音が何とも心地いい。
ふと、手ごろな石を見つけ、水面に向かって放った。
水面をすべるように5回ほど進んだ後、静かに沈んでいった。
「それ、僕もできるよ。」
得意そうに涼ちゃんが立ち上がる。
かちゃ、と石を取り上げて、手首をきゅっと曲げながら、川面に向かって投げた。石は水面を滑るようにして、ト、ト、ト、と数回跳ねる。
「あー、惜しい…。」
少し不満そうに次の石を探している。
僕は呆然と、波紋が広がる水面を見つめていた。昔の涼ちゃんは、水切りなんて全くできなかったはずだった。僕のを見て真似をしようと、下手くそに石を叩きつけては、水しぶきを上げて悔しそうにしていたはずなのに。
そりゃあそうだよね、七年もたっちゃったんだから。
「涼ちゃん上手くなったじゃん。先週練習したもんね。」
隣で若井が言った。
あぁ、そうか。と変に腑に落ちていった。
僕が覚えている「水切りが下手くそな涼ちゃん」は、もうどこにもいないのだ。
僕がいない七年間のうちに、若井が涼ちゃんに教え、二人で練習し、できるようになってしまった「現在の涼ちゃん」がいるだけだった。
僕の思い出なんて、ただの古ぼけた化石に過ぎない。
今の涼ちゃんをつくっているのは、すべて、若井滉斗なのだ。
それが分かっていながらも、呟く口は止まらなかった。
「…僕らがちっちゃい時もさあ、この川で、こうやって水切りしてたんだよ。あの時はまだ涼ちゃん全然できなくって…。…覚えてる?」
「…ううん、ごめんね。」
「じゃあ…ひまわり畑は?雨が降ってて、二人で雨宿りして…。」
僕の問いかけに、少しだけ困ったように小首をかしげた。助けを求めるように一瞬だけ若井の方へ視線を送ってから、申し訳なさそうに僕を見た。
「それも…覚えてない。…ごめんね、元貴。でも、そこのことなら知ってるよ。若井ともこの前行ったよね。晴れてたけど。…元貴とも行ってたんだね。なんか懐かしかったのは、だからかな。」
そう、そっか…そうだよね。覚えてるわけ、ないよね。
分かっていたはずなのに、冷たい氷水を背中に流し込まれたようなショックが体を固直させた。
僕が二人だけの特別な隠れ家のように思っていた場所も、思い出も、すべて若井との新しい記憶に塗り替えられている。
僕が東京で「あのひまわり畑の雨」を思い出して胸を痛めていた間も、涼ちゃんは若井と満開のひまわりの下で笑っていたのだ。
「元貴。」
静かな声がした。顔を上げると、若井の瞳が僕を見つめていた。そのままゆっくりと首を振る。まるで、もうやめろと無言で告げているかのように。
その目は、なぜか泣いてしまいそうに見えて、行き場を失ったどうしようもない感情が、濁った水のようにたまっていた気がした。
「…そろそろ帰ろ。おばさんもう帰ってるかも。」
その顔を見せないようにするかのように立ち上がり、帰り道の田んぼ道へ向かって呟いた。
濡れたTシャツが冷たく肌に張り付き、夕風が吹くたびに体温を奪っていく。さっきまで気持ちよかったはずの水の冷たさが、今はただ重く、痛い。
山々の向こうへ沈みかけていく太陽が、空を毒々しいほどの茜色に染めていた。
僕らの影が、田んぼ道の上に長く長く伸びている。
二歩先を歩く涼ちゃんと若井。二人の影は時折寄り添うように重なり合い、楽しそうに揺れていた。
僕の影だけが、そこに入り込めず、離れた場所から二人を追いかけている。どんなに足を早めても、伸びた影の先が二人の足元にすがりつくだけで、本体の僕はいつまでも「二人の後ろ」から抜け出せない。
さっきの言葉が、脳裏で毒のようにじわじわと広がっていく。
『なんか懐かしかったのは、だからかな。』
違う。僕が欲しいのは、そんな曖昧で都合のいい感覚じゃない。僕の欲しい記憶は、僕の名前は、全部若井滉斗という男の日常の中に押し流されて消えてしまったんだ。
胸の奥から、ドロリとした醜い感情が込み上げてくる。
羨望と小さい独占欲。そんなことしか考えられない自分自身への惨めさと絶望。
泣き出してしまいそうなほどの悲しみが、黒い嫉妬と混ざり合って喉の奥を締め付ける。息がうまく吸えなかった。
「元貴ー? 遅いよー!」
涼ちゃんが振り返り、手を振っている。夕日を背にしたその笑顔はどこまでも無邪気で、透き通っていて、だからこそ残酷だった。
「…今、行く。」
声が震えないよう、僕は乾いた唇を必死に噛みしめた。
追いついたところで、僕はただの訪問者でしかない。それでも、二人から遅れるのが怖くて、冷え切った体を奮い起こし、二人の影へと一歩を踏み出した。
#fjsw
かめちょん
1,888
#藤澤涼架#大森元貴#若井滉斗
コメント
7件
更新ありがとうございます。 💛ちゃんとの大切な思い出が、 どんどん上書きされている事に、なんとも言えない寂しさと、孤独感を感じている❤️君… でも、途中で彼に声をかけた💙さんも、またちょっと寂しげだったのが、印象的でした。 3人の今年の夏がこれからどうなっていくのか、めちゃくちゃ楽しみです✨ また次のお話も楽しみにしています!!
第11話、拝読しました。川辺の水遊びのシーンがとても鮮やかで、透き通った水しぶきや日差しが目に浮かぶようでした。でもその明るさがあればこそ、元貴の「取り残される感」が一層切なく響きますね。特に「水切りが上手くなった涼ちゃん」に、七年間の空白を突きつけられる瞬間が胸に刺さりました。かめちょんさんの描く「影の描写」も秀逸で、三人の影の長さで心情が表現されているのが本当に巧みです。このもどかしい三角関係、どう転んでいくのか…続きが気になります!