深い闇の底で見たそれは夢でも幻想でもない。ユカリにはそれが分かった。
幼い少女が泣いていても怒っていても、心の中の友達はいつも微笑んでいた。力強い手で少女の手を握って引っ張り、しっかりと立たせると再び歩き始めるのだった。
半地下室はあいかわらず、花がもたらす香りに溢れ、石材と石材の隙間にまで初春に似た喜びが潜んでいる。しかし採光窓から忍び込む夕暮れは仲秋の気配を携えて花と石壁を橙に染め、牢獄の時代には珍しくもない寂しさと冷たさとすすり泣くような陰を連れてきていた。
ユカリははっと目を覚まし、首を巡らせ、薄明りの中にアクティアの姿を探す。アクティアは隣の寝台で小さな寝息を立てていた。顔色も悪くない。ほっと溜息をつき、自分の体を自分が纏っていることを念のために確認する。
すぐそばでベルニージュが椅子に座って、ユカリを見下ろしている。赤い瞳と目が合い、ベルニージュの口元が綻ぶ。
「おはよう。ユカリ。気分はどう?」
「悪くないです。アクティア姫は?」
アクティアのそばにはパーシャが座っている。振り返ってベルニージュの肩越しにユカリを覗き込み、つっかえつっかえ言葉を紡ぐ。
「ユカリさん、お目覚めになられましたか。アクティア姫はほとんど毒を飲まずに済んだみたいです、つまりユカリさんのお陰で、です。ありがとうございます」
ユカリは伸びをしつつ身を起こす。自分の体には異常がなくて当然だと気づく。そもそもユカリ自身の体が毒を飲んだわけではない。ではなぜ気を失ってしまったのか、とユカリは考え、心が衝撃を受けたのだろう、と適当に納得する。
「一体、アクティア姫は何を飲まれたんですか?」
「薬草園から何か持ち出したみたいだね」とベルニージュはパーシャに確認するように言う。
そしてパーシャが言葉を繋ぐ。「こんなことを言うのもなんですが、アクティア姫は本当にすごいです。複数の薬草を適切な量で混合しなければ効果を発揮しない毒を、いくつかの書物を読んだだけで作ってしまったようです。解毒薬の調薬もそのぶん複雑になってしまうので。間に合ってよかったです」そして自嘲気味に笑う。「やっぱりアクティア姫には敵わないですね。パーシャの数か月の研鑽も、この子にかかれば……」
「解毒したんですから殿下の勝ちですよ」とベルニージュは得意そうに言う。
ユカリは忍び笑いするが、パーシャの心には響いていないようだった。
「ユカリさん」眠っていたと思っていたアクティアが話し、ユカリもベルニージュもパーシャもびくりとする。
「アクティア姫!」パーシャはアクティアの手を掴み嗚咽する。「良かった。無事で」
「ユカリさんは、大丈夫なのですか?」とアクティアはユカリの方を心配そうに見つめる。
「はい。私は何も問題ありません」ユカリは軽く身を捻る。「私はたぶん精神的な衝撃で気絶しただけなので」
「アクティア姫の方こそ大丈夫なんですか?」とパーシャが覆いかぶさらん勢いで問う。
「ええ。何も」アクティアの微笑みは清々しいものだった。「殿下がわたくしをお救いくださったのですわね。ありがとうございます」
「何で、その、自殺なんて」とパーシャが絞り出すように言う。
「その前にパーシャ姫」とベルニージュが遮る。「そもそもなぜアクティア姫はパーシャ姫と心中しようとしたのか、が先です」
パーシャは目を丸くしてベルニージュとアクティアを交互に見る。「ユカリさんじゃなくて?」
ベルニージュはアクティアと向かい合うようにユカリの寝台に座る。
「ええ。元々はパーシャ姫とアクティア姫の杯に毒が入っていたんでしょう。今、思い返すとアクティア姫がパーシャ姫に渡そうとした杯をユカリが預かり、パーシャ姫がユカリから杯を受け取って飲み干した。あの時に入れ替わっていたんでしょうね。しかしユカリは強力な魔力を有する魔導書を所持しています。というのは、ユカリを殺そうという殺意や悪意のない死を退ける力です。簡単に言えば事故死を回避する魔法ですね。アクティア姫の殺意はパーシャ姫に向けられていたから、ユカリにとっては事故だったわけです。それを魔導書が不自然極まりない偶然を呼び起こし、防いだ。そして、その後、アクティア姫は自らの毒杯を飲み干した」
「なぜ、そんな」パーシャは言うべき言葉が見つからずに黙る。
アクティアの瞳は変わらず凛々しく、強く唇を結んでいる。
「それが国を想う者のあるべき務めのはずですわ。ハウシグ王国だけでなく、テネロード王国、ひいては両大河沿岸地域全体の、アルダニ同盟の安定に繋がることです。誰もが望む結末に違いありません。わたくしは、一国の王女として、領民の幸いを願い、その為に力を尽くして参りました。誰とて、わたくしを蔑むものはおらず、ハウシグのみならず、テネロードにおいてもなお、誰もが求める王女に相応しき振る舞いを身につけました。わたくしはわたくしの為すべきことを為そうとしたのです」
ユカリはアクティアの横顔を見つめ、呟く。「同じ美しいお姫様でも花と蝶々では違いますね」
「蝶?」と言ってアクティアはパーシャの顔を見、ユカリを見る。
ユカリはアクティアの視線を受け止めて言った。「殿下が憧れたパーシャ様ってそういうことじゃないですか?」
アクティアは呆けたように花を飾られた天井に視線を戻す。
「そうかもしれません。そういうことかもしれません」そう言ってアクティアは震える両手で顔を覆う。
「え? どういうことですか? パーシャ、よく分からないんですけど」
「ワタシもよく分からないですよ、殿下」とベルニージュは真面目な顔で言い切った。「むしろ殿下は蛹というか」
ユカリがベルニージュの脇腹を小突く。
「とにかく。アクティア姫を虐めないでください」パーシャはアクティアとの間に立ちはだかる。「蝶だか花だか知らないですけど、アクティア姫は立派です。ただ六年間ここに閉じこもっていたパーシャとは違います」
「わたくしは、わたくしが何に憧れていたのか、ようやく分かりました。わたくしは、わたくしの羽が欲しかったのですわ。パーシャ様のように、先生のように、誰かの指図や期待ではなく、自分自身が欲して、自分自身で考えて……」
嗚咽するアクティアをパーシャ姫は優しく肩を抱きとめた。
「許してください。パーシャ様」アクティアが涙声で許しを乞う。「この愚かなアクティアを、自分の頭で考えることの出来ない愚か者を。わたくしは、パーシャ様のようになりたかった、パーシャ様のようにありたかった」
パーシャもまた大粒の涙を流す。
「パーシャの方こそ、許してください。アクティア姫。わがままが過ぎました」
涙に濡れる二人をしり目に、パーシャのそばに羊皮紙が現れた。パーシャは魔導書が必要と言っていたが、憑依が解かれたということこそが、もう必要としていないことを意味していた。
ユカリは魔導書を拾い上げる。
『籠り姫の花の歌』
ある色彩豊かな王国に野に咲く花々に心を奪われた王女がいた。第二の英雄と歌われた比類なき慈愛に満ちた王女だ。
王女は、春も盛りに野原を装う花々よりも美しく、また蜜を舐める蝶々よりも華やかな、誉れ高い娘だった。
王女の美は王女を愛する人々の口端に上り、その幸に満ちた祈りに誘われて、力強き神が地上に一瞥を寄越した。神の愛を賜った色彩豊かな王国は王女を天からよく見える四阿に座らせ、ますます豊かになったという。
しかし王女は天に御座す神よりも野原の花を愛し、神の目を盗んで花を摘みに行った。怒った神は王女を連れ戻し、塔に幽閉する。
嘆き悲しむ王女を見かねた人々は、慰めに国中の花を全て集めて塔を飾り付けた。
ある色彩に乏しい王国の塔には今も王女が幽閉されている。
その時、獣の唸るような音がどこからともなく聞こえてくる。
「わああ」パーシャが飛び上がる。
「いったい何の音ですか?」アクティアが部屋を見渡す。
「とんでもなくお腹が空きました!」とパーシャが腹を抱えてアクティアの寝台に突っ伏す。
「魔導書の憑依が解けたからですね」とユカリが説明する。
「ユカリさん。その羊皮紙が魔導書なのですか?」とアクティアが尋ねる。
「はい。そのようです。そして、もうパーシャ様の飢餓を退ける奇跡は失われてしまったということです。そう簡単にはいかないかもしれませんが、両王国が戦う理由もなくなったということです」
「でも、何で、突然」とパーシャは呻く。
「簡単に言えば」ユカリは魔導書を合切袋に片づける。「パーシャ姫が魔導書の呪いに打ち勝ったということです」
ベルニージュが何か言いたげだったが、視線で制止する。
「では、もう行かれるのですか?」とアクティアは不安の伴った眼差しをユカリに向けて言った。「今度こそ皆さんときちんと食事が出来ますのに」
「まずはご自愛ください、殿下」とユカリは安心させるように微笑んで言う。
ベルニージュはにやりと笑う。「ワタシたちのぶんは、たぶんパーシャ姫が平らげてくださいますよ」
パーシャの腹の音はいよいよ猛獣じみた唸り声をあげている。
「また、いつか会いましょう」パーシャは唸り声にも負けない声で言った。「その時にはパーシャは、もっと沢山の花でお二人をお迎えします」
ユカリとベルニージュが図書館を出ると街は混乱していた。門衛の姿もなく、人々が口々に言い合い、あちらこちらへ行き交っている。
「魔導書の憑依が解けたからでしょうか?」
行き交う人々を眺めてユカリは言った。
「たぶんね」とベルニージュは街の様子をを観察しながら答える。「憑依が解けると影響する範囲が狭まるんじゃないかな。それこそ街中の食べ物に被害が出たのかも。魔導書に触れている時とそうでない時の力も違うようだし。セビシャス王の魔導書と違って実験しやすそうだし、後で調べさせてね」
黄昏が空の縁に最後の輝きを残し、混乱に陥る都を変わらず染めた赤が消えていく頃、ようやくユカリたちは入って来た時と同じ西の門にたどり着いた。結局、一人としてユカリたちを咎める者はいなかった。
歩き通しでやってきて、堅く守られた門を破らねばならないと思っていたが、その必要はなさそうだと気づく。すでに門の上には白旗が翻っている。門自体は開いていないが、ハウシグ側から交渉を持ちかけるのだろう。
その時、突然、門から炎が噴き出した。
木製の門扉だけではない。石でできた門楼も脇の城壁も塔も燃えている。人々は取るものも取り合えず逃げていくが、ユカリはベルニージュの力強い魔術に守られて、温もりを感じることさえなく事なきを得た。
石が黒ずみ、ついにはぼろぼろと崩れていく。とても尋常の炎が行える所業ではない。まるで灰の楼閣であったかのように門は音もなく崩れ、風に流されていく。
そして天鵞絨の長衣を優雅に着こなすベルニージュの母が一人、灰を踏んで乗り込んできた。ベルニージュが駆け寄る。
「ちょっと、母上。白旗を見てないの? テネロードだってもう攻め込む理由がないのに、何てことするの!」
「戦争状態でもないのに私を拒んだのは彼らです」そう言ってベルニージュの母は遠巻きにしている兵士たちを睨みつける。
「とにかくもう戦争は終わり。無茶苦茶しなくても図書館には入れるから」
「そうですか。それならば私としても嬉しい限りです。それで? ベルニージュさん。あなたはどこへ行くのですか?」
ベルニージュは真正面から答える。「どこって、旅の続きだよ」
「母上と一緒に書物を読まないのですか?」
「いいよ。ワタシは興味ないから」
「興味ないですって?」そう言ったベルニージュの母の瞳は混乱の色に染まっている。
ユカリもベルニージュの背中に駆け寄って、何となくその腕を掴む。
「うん。この際だから、言わせてもらうよ。二人のお姫様も覚悟を決めたことだし」ベルニージュはまっすぐに母を睨み返す。「ワタシはさして自分の過去に興味がない。そんなことよりワタシは魔導書を超える魔法を作り上げたい。それ以外は後回し」
まさか焼き尽くされはしないだろうけど、とユカリは強くベルニージュの腕を握る。
「そうですか。まあ、いいでしょう」ユカリの予想に反して、ベルニージュの母は怒りもしなかった。「それで行く当てはあるのですか?」
「別に、今のところないけど」
「貴方の母上は一つ、魔導書が関わっていると思しき情報を知っていますよ。魔導書になど興味がない母上でも知っているのに、ベルニージュさんはご存じないのですか? 教えてあげましょうか?」
「いらない! 私はいらない」そう言って、ベルニージュはユカリの手を解いて歩き去った。
「あの」ユカリはおずおずとベルニージュの母に話しかける。「私が聞きます」
ベルニージュの母は小さくため息をつく。「迷惑をかけますね、ユカリさん。あの子の負けず嫌いは誰に似たのか。さて、魔導書についてですが、神の如き奇跡の力を持つという平和の使者を称する人物がいるそうです。神の如きということは、つまりそれは魔導書の如きということですね」
それだけ言って図書館の方へと歩き去るベルニージュの母の背中にユカリは声をかける。
「私、迷惑だなんて思ってません。一緒に旅をするのは、まだ少ししか経ってないですけど、とても楽しいです」
ベルニージュの母は立ち止まり、振り返る。
「そう。それなら良かったです。そうだ。忘れてました。これをベルニージュさんに渡してくださる?」
ベルニージュの母が差し出す手から受け取ったのは木片だ。ベルニージュが好きらしい香りの香木だった。燻さなくともすでに甘やかな香りを漂わせている。
「はい。渡しておきます」
「ところで魔導書をどうやってパーシャ姫から解放したの?」
ユカリは驚き、一歩退く。「何でそのことを知っているんですか?」
ベルニージュの母はつまらなそうに返事する。
「知りませんよ。ただ状況から予測しただけです。パーシャ姫に力が宿っていたのでしょう?」
果たしてそんなことが可能なのか、ユカリには分からなかった。ただのはったりだったのかもしれない。だとすればまんまと嵌められてしまったことになる。ユカリは唾を飲み、これ以上間違ったことを言わないように気を付ける。
「ただ、パーシャ姫自身が魔導書の呪いに打ち勝ったんです」
ベルニージュの母は小さなため息をついて言った。「そう。じゃあ、あの子は無駄足だったのですね」
「何のことですか?」
「もっと手っ取り早い方法があったということです」
歩き去るベルニージュの母の背中を見送り、その言葉をユカリは反芻する。その言葉の意味を理解したくはなかった。
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