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ユカリとベルニージュは大図書館と桜草の国、ハウシグ王国を発ち、聖なる大河モーニアをさらに下る。
バイナ海の濃い塩、四隣に名高き真紅の綺羅、美しくまた逞しい人々。二人は珍奇な品々を運ぶ商船に頼り、モーニア川南岸の国々を順に巡り、二つの大河の交わる汽水域に到達する前に対岸へと渡った。そうして二つの大河に挟まれた偉大なる土地を長きに渡って支配するテネロード王国の領邦が一つ、後の世に聞こえるバイナ海貿易の交易地、海の子領へと至る。そののち、平和の使者の噂を追って、大河モーニアの擁する支流の中でも特に名の知れ渡らぬ小さき川苔の流れに沿って旅をしていた。
秋も深まる幾度目かの寒々しいある夜、月は雲に隠れても、その黄色い威光の透けて降る河岸にて、二人の少女は涼風に身を震わせ、焚火に救いを求めていた。今にも涙が溢れそうな表情を浮かべてユカリは赤々と燃える炎を覗き込み、甘えたがりの幼い子供のように小さく唸るのだった。
「お腹が空きません」
ベルニージュにはユカリのその声が聞こえていたが、聞こえていないことにしようとした。
「お腹が空きません。ベルニージュさん」とユカリは繰り返し、満腹を託つ。
流れる川の囁きと跳ねる魚の喜びが聞こえる。エルメン川に遣わされた川風の響きと爆ぜる火の歓呼が聞こえる。微睡む星の瞬きとユカリの腹の唸りが聞こえる。
「全く空かないってことはないよね?」ベルニージュは脇に置いた自分の背嚢をぽんと叩く。「パーシャの、飢餓を退ける奇跡の魔導書はワタシが持ってるんだからさ。それも魔導書に触れでもしなければパーシャと同程度の奇跡は働かないはず」
「そうですけど。食事の数が減ったじゃないですか。腹は満たされても心が満たされないんです。食事は、腹を満たすだけではないんですよ!」
「分からないでもないけど、どちらかといえばユカリの方が旅費が浮くって喜んでたよね」ベルニージュは背嚢に肘をつき、頬杖をつく。「料理を作るのも面倒でしょ? ああ、料理を作るの好きなんだっけ?」
「面倒ですよ、料理を作るのは。だから好きなんです」
「ははあ、なるほど。分かんないなあ」と言ってベルニージュはからからと笑う。
ユカリも負けじと言い返す。「ベルニージュさん、料理苦手なんですね。上手く出来ないんですね」
ユカリの言葉にベルニージュはむきになる。
「苦手ではないってば。もちろんやれば上手くやれるさ。ワタシの料理に蹂躙された胃は二度と他の料理を受け付けなくなるんだから。あくまで、料理することが好きじゃないってだけだからね。そもそも、なんなら食べることそのものも面倒だよ」
「ええ!?」ユカリは炎の橙に照らされて揺らめくベルニージュの横顔に驚きの表情を向ける。「食べることが!? 大丈夫なんですか? それ。病気じゃないですか? 体調が悪いんですか?」
「大丈夫だって。そういう心配するようなことじゃない。かといって嫌いなわけでもない。ただ食べることの決まりきった感じが苦手なんだよね」
「それならなおさら料理を作るべきですよ。料理を作ることと料理を食べることと料理を作って食べることは全部別物なんですからね」
ベルニージュは思案気に、答えがそこにあるかのように焚火を見つめる。「そういうもの?」
「そういうものです」そう言ってユカリは何度目かの溜息をつく。「もちろん餓えるよりはましですよ。でもまさか満腹に不幸を感じる日が来るとは思いませんでした。あまりにも贅沢な悩みです。飢えに餓えるだなんて」
「とはいえ、満腹だけでは幸福になれないよ」と言ってベルニージュは自身の翡翠の衣のにおいを嗅ぐ「食の他に衣と住の魔導書もあるといいんだけど」
翌朝にでも水浴びすることに決めて二人は眠りに就いた。
テネロード王国と齢を共にする、山の如き巨大な岩の塊がある。その岩塊が中心に鎮座する深い森の縁に、黒松の木々の奥から流れてくる一筋の川の畔に、休息の市があった。血に怯えぬ荒くれ者と諍いを好まぬ隠者、信仰無き輩の集う街であり、それを相手に商いをする欲深い者たちの街だった。マナタ領知事の目も届かない、どころか、目を背けるべき忌まわしい街とされている。
太陽が正午の頂に座し、蜜蜂が花の香りに誘われて羽音を鳴らす頃、ユカリたちはこの街にやってきた。もちろん平和の使者の一団が訪れたという噂に誘われてきたのだが、当然、街自体の噂も聞いていた。このドミルア市はテネロード王国の中でも最も平和という言葉に相応しくない街だ。
野花の萎れた枯れ野の果てに街が見えた辺りで、ユカリとベルニージュはありったけの身の守りのまじないをかけた。刃物除け、毒除け、汚物除けに呪い除け。ついでにユカリも悪戯除けのまじないを使うが、「あんな街に悪戯好きの妖精は近寄んないよ」とベルニージュに言われた。
さもあらん。ユカリたちを迎えたのは、およそ美とはかけ離れたがらくたの寄せ集めのような街だった。規模は大きい。数も多い。多種多様な建築が所狭しと並んでいる。アルダニでよく見られる建築の意匠を汲んではいるが、砂煉瓦や木造りの安普請ばかりで何の統制もなく建てられている。一つ一つの建物が、自分は他とは違うのだ、と自己主張しているかのようだ。とはいえ運動に勤しむ溌剌とした青春の若者のように街は活気に満ちている。
人相の悪い男が大手を振っている。対照的にまるでお忍びの王様のように貴き血筋を隠し切れていない者もいる。とはいえ、戦場でもないのにいずれも屈強な男達である。そのような男たちを好む女が、そのような男たちの好む女が黄色い声を上げている。薄暗がりの向こうから怒鳴り声が聞こえる一方、狡猾な商人か悪辣な詐欺師の獲物を呼ばわる猫撫で声も聞こえてくる。
喧しくけばけばしい街だ。神秘が寄りつくことはなく、例え好奇心旺盛な魂なき妖しの者とて住処とするには心地の良い土地ではない。
それでも二人は、何でもないという風に堂々と薄汚れた街を行く。そうすると怪しげで訝しげで不躾な一瞥を送られることはあっても、近寄って来る者はいなかった。一見、不用心な娘が二人。しかし社会の裏を知る者ほど、むしろそれは罠にしか見えないのだった。
「平和の使者は預言者だという話ですが」ユカリは街並みをさりげなく眺める。「このような街に何の用があったんでしょうか? とても神の御意思を求めているとは思えませんね。神殿や寺院の類とは縁遠そうな街です」
これほどの人口があって、見かけは立派な建物があって、しかし舗装のない土の上を歩く街というのはユカリの旅で初めてかもしれない。この街には公という律するものがない、かのようだ。
「だからこそかもしれないよ」ベルニージュは目的があるかのように真っすぐ前を見つめている。「弟子を引き連れて大河の狭間を方々巡っていたらしいけど。すでに信仰を持っている者よりは、説法を聞いてくれるのかも。伝道師だったことはないからよく分からないけどさ」
「では、例によって例の如く、食堂か酒場で……、ああ」ユカリは通りの向こうにいて欲しくない者たちを見つけてしまった。目を細め、彼らに聞こえるはずもないが赤い髪に隠れる耳に囁く。「救済機構です、ベルニージュさん。しかも焚書官ですね、あれ」
道のずっと先の方で鉄仮面を身につけた黒衣の集団が塊になっている。
ベルニージュは日除けに手をかざして目を凝らす。
「焚書官? よく見えるね。ああ、鉄仮面をつけてる。黒塗りの鞘、だね。確かに焚書官だ。どうする? いわゆる最たる教敵に認定されている魔法少女については変身した姿しか知られてないんでしょ? ことさら警戒することもないと思うけど」
ユカリは悩むように唸り、答える。「関わらない方が賢明だとは思うんですけど、焚書官がいるということはそういうことかもしれないですもんね」
「うん。魔導書らしき存在を嗅ぎつけてきたということかもね。それに首席焚書官は魔導書を持ってるんでしょ? もちろん一般には魔導書を利用しているなんて知られていないけど」
ユカリは首を傾げ、自分の頭の中の過去を覗き込む。
「私の知ってるチェスタという首席焚書官に関してはそうでした。彼から魔導書を奪いましたから。頑なに聖典と言って譲らなかったですけど」
ベルニージュはほうと感心したように小さなため息をつく。
「じゃあ、とりあえず様子見だね。もしかしたら彼らも平和の使者の噂に勘づいたのかもしれないけど」
「そもそも焚書官ってことは最たる教敵の件とは関係ないですよね。最たる教敵対策専門の組織が造られるって、言ってましたよね?」
「どうだろうね。焚書官が最たる教敵を捕えても、それはそれで手柄なわけだし。わざわざ新たに特務機関を設置するのだから、焚書機関の指揮下ではないと思うけど」
その時、女性の甲高い悲鳴が聞こえ、すぐさまユカリは走り出していた。一拍置いてベルニージュもあとを追う。