太陽が南天を過ぎ、羊の群れのような雲が西へと流れていく。機織の音が少しばかり静まる頃、ベルニージュたちが街まで戻ってくると、何やら物々しい雰囲気が通りを包んでいた。人々は口々に亡霊のように不明瞭な噂を囁き合っている。そしてある通りでは特にたくさんの人々が集まっていた。
ベルニージュたちもその集まりに紛れ込み、彼らの眺め見ているものを確かめる。
それは軍団だった。立派な鎧を纏った兵隊が何人も隊列を組んで地面を踏み鳴らし、街の中心へ向かって行進している。冷たい風に翻る旗には赤い魚と黄色の盾の紋章が施されている。実質的なアルダニ同盟の支配者、二つの大河の間に栄える大国、テネロード王国の軍団ということだ。身なりから察するにハウシグ王国で見かけた寄せ集めのような兵隊とは違うらしい。王領ミデミアの擁する精鋭たちだろう。人々の口の端に上っている言葉からどうやらナボーンの市庁舎へ向かっているらしいことが分かる。
「なぜこんなところにテネロード王国軍が? まさか戦争じゃないですよね?」とユカリがベルニージュに囁く。
「キーチェカが噂に聞いたと言っていたね。たぶんテネロード王国の王子様が怪物討伐のために編成したっていう軍団だよ。思ってたよりも早く来たね」
「そもそも怪物自身との戦いすら起きないはずです」とユカリはそう信じたいという思いを隠さず言った。
サクリフに宿っている魔導書は争いを引き起こさない、はずだ。ベルニージュもユカリに同意する。
「うん。魔女の牢獄で焚書官が斬りかかろうとした時は剣を取り落としたり、躓いて転んだりしていた。あの魔導書の周りでは根本的に争いというものが存在しなくなるはずだね。どうしても怪物を倒すとしたら偶然の事故が起きることを待つしかない。ユカリが持つ魔導書とは逆にね」
セビシャス王に憑依していた魔導書は逆に、誰の意思によるものでもない偶然の事故を回避することができる。本当に偶然を回避しているのかどうかは、無数の偶然の只中にいる人間には分かるはずもなく、運命に翻弄される人間たちを俯瞰する慈悲深き神のみぞ知るところだが。
「でもあの怪物はただ歩いたり飛ぶ時の羽ばたきだけで周りの人を傷つけます。あの山の子供も巻き込まれてしまうかもしれない」
ベルニージュは美しい鎧を装った兵隊たちの一糸乱れぬ行進を見つめながら考える。
ユカリはサクリフを忘れても怪物のことは覚えている。たとえサクリフが怪物になったのだとしても、それらを別の物と認識していたからだろう。だからサクリフの由来すると思しき人助けを、怪物が行うことに疑問を抱いている。
「とにかく。子供について誰か何か知っていないか聞いてみよう」と言ってベルニージュは辺りを見渡し、子供を連れて囁き合っている女たちのところへ行く。「すみません。少しお尋ねしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「なあに?」と中でも年若い女が答えた。「見かけない子ね。旅の人?」
「はい。旅の者です」ユカリが引き継ぐ。「山の中で子供が一人でいるのを見かけたのです。しかし見失ってしまって。人手を集めたいのですが……」
「あんた子供の姿をその目で見たのかい!?」とユカリの言葉を断ち切るようにして、二人の男児の手を強く握りしめた女が尋ねる。「どんな子供だった?」
「ああ、いえ、すみません。正確には声を聞いただけなんです」とユカリは正直に話す。
「やっぱり、そうよねえ」と言った別の女は幼子を胸に抱えている。「ずいぶん前から山の中にいるらしいって猟師が話してたわ。痕跡? が見つかって、声を聞いたって人もいて、男たちが山狩りをしたけど結局見つからずじまいなのよ。そこへ来て怪物騒ぎでしょう?」
年若い女がおどろおどろし気に語る。「それだけじゃないの。その子を探していて、すぐ近くにいる気配がある時に限って落石が起きたり、滑落したり。そうそう、怪物を見つけた時も同じだって。猟師の誰だったかがすぐ近くに子供がいるのを感じた時だったそうなの」
「あの爺さん、その時に腰をやっちゃって」と幼子を胸に抱えた女が言う。
「東丘の猟師頭の息子さんも足を折っちまったんだよ。奥さんずいぶん怒ってたね」と男児を決して離さない女が言う。
それてきた話をユカリが元に戻そうとする。「それで、その子供は、その……」
怪物が現れた以上、子供を見捨てるのかとなじるわけにもいかず、ユカリは言葉を迷っているらしい。
男児同士の争いには目もくれず女は言う。「そうだね。誰も姿を見れず、追えば酷い目に遭う。まず間違いなく妖精の類だそうだよ。みんなは山彦だなんて名で呼んでるね」
「それに例の怪物と一緒にいるらしいの」と年若い女が付け加える。「怪物の方は姿を見た人も多いの。私は見てないけど、蛾のような姿らしいのよ。おぞましいよね」
「山彦が怪物を呼んだんじゃないかって骨占の婆様が言ってたわ」とぐずる幼子をあやしながら女は言った。
二人は礼を言って女たちの元を離れた。軍団が長々とした行列を作っているせいでまだ通りを抜けることはできないが。
「山彦君も魔導書でしょうか?」とユカリはベルニージュに聞く。
「そうかもしれない。まあ、姿を隠す魔法は沢山あるけど、人の遠ざけ方が他の魔導書のやり口に似てるよね。姿を見せない奇跡? そっちは呪いかな。分からないけど」ベルニージュはため息をつく。「混迷を極めてきたね」
魔導書を宿したサクリフという女。サクリフの変じた怪物。
その怪物を作った魔女シーベラ、という疑いのあるベルニージュの母。
サクリフとベルニージュのことを忘れたユカリ。
魔導書を宿しているかもしれない姿を見せぬ名も知れぬ少年、山彦。
とにかくこの街に母がいない以上、記憶喪失の件を後回しにして魔導書に当たったほうがいいかもしれない、とベルニージュは考える。可能性は低いが、放っておけばテネロード王国に魔導書を奪われるかもしれない。
と思った矢先、母と名乗る人物の姿を見つけてしまった。軍団の中でも地位の高い人物たちと並んでいる。美しい鞍を乗せた黒馬に優雅に跨って、同じく歩調を合わせた黒馬に跨る若い男と談笑していた。男の方は、短く切り揃えているがパーシャ姫と同じ錫色の髪だ。自信に満ちた表情は初めて会った頃のパーシャ姫とはまるで違うが、別れ際の彼女の面影がある。この旅の間にも何度か話に聞いた、令名を馳せる兄王子だろう。
「あ! お母さん!」とユカリは声を上げるが、慌てて言い直す。「じゃなくて、私のじゃなくて……えっと」
「ワタシの、ベルニージュの」とベルニージュは助け船を出す。
「そうです。ベルニージュさんのお母さんです」ユカリはあたふたと言葉を紡ぐ。「ええと、記憶を渡したのを返してもらわないと。渡した記憶を」
ベルニージュの母がこちらに気づき、黒馬が隊列から離れてやってくる。ベルニージュの母がさも当然のように馬を人波の方へ進めると、人々は慌ててベルニージュまでの道を開けた。
「ごきげんよう。ベルニージュさん」とベルニージュの母は言った。
「何も良かないよ、母上」ベルニージュはため息をつく。「ユカリの、ワタシについての記憶と、サクリフについての記憶、返して欲しいんだけど。どこにあるの?」
見る限り、少なくとも手に持ってはいないようだ。
「サクリフについての記憶はサクリフの中に埋め込みましたよ。それが呼び水になってサクリフが自我を取り戻すかもしれない、それがユカリさんの願いでしたから」
もちろん、それだけではないはずだ。しかし母の狙いは明白だ。
馬上の母を睨みつけて言う。「それで上手くいけば、ユカリのワタシについての記憶をワタシの中に埋め込むつもりなんだね」
そのためにサクリフを実験台にしているということだ。
「そういうことです。まずは経過観察しなくてはなりませんが」
だとすればユカリのベルニージュについての記憶は母が所持しているのだろう。
ベルニージュは皮肉っぽく言う。「軍隊まで連れてきて? 大げさだね」
「貴女の記憶を取り戻すためです」と当たり前のことのようにベルニージュの母は答える。
「ワタシは友達に忘れられてまで、記憶を取り戻したくなんかないよ。ユカリの記憶を返して」
ベルニージュの言葉を受けて、ベルニージュの母は微笑みを浮かべ、何でもないことのように言う。
「忘れられたことが辛いなら、貴女もユカリのことを忘れてしまえばいいのです」
かっとなったベルニージュは強く言い返す。
「じゃあ貴女もワタシのことなんて忘れてしまえばいいよ!」
母も娘も瞳を険しく吊り上げて、眉根をきつく引き寄せる。今にも飛び掛かりそうな、誇りを踏みにじられた獣のような形相だ。
「落ち着いてください。ベルニージュさん」ユカリは暴れ馬を御すようにベルニージュの袖を掴み、耳元で囁く。「怪物は怪物のままでした。記憶を埋め込んでも上手くいかないってことじゃないですか?」
記憶を欠落して状況が分からないなりに、ユカリはベルニージュを落ち着かせようとしているらしい。
ベルニージュも母に聞こえないように囁く。「まだ分からないよ。でもそのことはまだ黙っていてね」
「何をこそこそと話しているのです? ベルニージュさん。貴女の母上にも聞かせてくださらない?」
ベルニージュは少しばかり表情を和らげる。「そもそも本当に貴女はワタシの母なの?」
しばらく待ってもただ馬上から見下ろすだけの母に更に問いかける。
「貴女は古代の魔女シーベラじゃない? ジェドのお母さん」
ベルニージュの母と名乗る人物は冷たい表情で言う。「もしそうだったらどうするのです? 多くの人々に災いを振り撒いた魔女を誅しますか?」
魔女シーベラは魔女シーベラで、愛する息子のために色々と画策していたのだと知ったいま、あまり気乗りはしない。
「また災いを振り撒くつもりならワタシが止める」
魔女シーベラの疑いある女はため息をつく。「私も初めはそう考えていました」
不意な言葉と意味深な微笑みを残して、ベルニージュの母らしき人物はテネロード王国の隊列へと戻っていった。
二人は再び宿に戻り、明日に備えて休むことにした。
母の方も軍隊が必要だというのなら、今日の所は休息をとることだろう。二人は久しぶりに魔導書に抗って、吐きそうになりながらも沢山の食事を摂り、小さな一室でそれぞれの寝台に座り、暮れなずむナボーンの街の一層赤くなった家々の屋根を眺める。
「ベルニージュさんも記憶喪失だったんですね」
しばらく時間が空いたのに名前を呼ばれてベルニージュは驚く。ずっと頭の中で考えていてくれたということだ。
「そう。まあ、慣れたものだけど」
「慣れていいことでは、いえ、悪いことでもないですけど。でもこれで記憶が戻るかもしれないんですね」
「何を言ってるの?」ベルニージュは目を細め、ユカリを見つめる。「さっきも言ったけど、たとえ記憶が戻ってもユカリに忘れられたままなんて、ワタシは嫌」
「え?」とユカリはきょとんとする。「でも記憶が戻ったあと、私の記憶を返してくれればいいのでは?」
ベルニージュはぽかんとする。何もずっと頭の中にユカリのベルニージュについての記憶を入れておく必要なんてない。自分自身の記憶を取り戻そうが取り戻すまいが、実験の成否に関係なく元に戻せばいいだけだ。
と、ユカリは考えたらしいが、そんなことはないはずだ。
母は黙って持ち出したのだ。返すと約束しなかったのだ。それは、実験が成功すれば返せないからだろう。盗まれたのは記憶ではなく記憶の器だ。中身を取り戻したからといって器だけ持って行くことは出来ない。
しかしベルニージュはユカリに話を合わせることにした。それでユカリの不安が取り除けるなら構わないだろうと考えた。どちらにしても今は魔導書を優先するべきだろう。
ベルニージュは嬉しそうに言う。「本当にそうだよ。何で気づかなかったんだろう」
「記憶を何に使うのか、私たちはさっき知ったばかりですから仕方ないですよ。でもそれならとにかく私たちがすべきことは魔導書を追うことですね」
「そうだね」ベルニージュは肩の力が抜けた風に、寝台に倒れるように寝転んだ。「問題はどうやって魔導書の憑依を解くか、つまり彼らの呪いを解くか、だけど。サクリフに関してはおそらく他人を助ける心、犠牲心なんじゃないかと思う。怪物になって自我を失っても残っている執念のようなものなわけだからさ」
「サクリフ?」とユカリが呟く。
「ああ、うん。怪物の名前」とベルニージュは補う。
「ベルニージュさんが名付けたんですか?」
「ううん」ベルニージュは再び起き上がる。ユカリは不安そうな表情を浮かべている。「怪物になった人間の名前だよ」
「人間!?」ユカリは立ち上がりそうな勢いを押しとどめる。「元に戻す方法はあるんですか?」
「分からない。だから、たぶん、ユカリは、せめてサクリフの自我だけでも取り戻してあげようと思ってサクリフについての記憶を母に渡したんだと思う。そしてその時にワタシについての記憶も奪われた」
「そうですか。自我を取り戻してくれるといいんですけど」
「そうだね。それにその方が呪いも解きやすいだろうし」
薄暗い部屋の中でベルニージュの言葉は大して響くことなく消えた。
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