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「……まあ、正直に言うとさ。
俺、ちかちゃんのこと“売った”よ」
電話の向こうで、ため息混じりに淡々と言うはるくん。
「ほら、俺もさ、今の仕事もっと手に職つけたいし――
大森さんが、他のバンドの仕事も付けてくれるって言ってくれたからさ。
悪いけど、ちかちゃんのこと全部“大森さん”に話した。
“どうせ俺らみたいな立場のやつ”は、上の人間に逆らえないしさ、仕方ねぇの」
「……うそ、でしょ……」
「別に、ちかちゃんに恨みとかないよ?
でもまあ人生ってそういうもんっしょ?
誰だって何かと引き換えにしてんの、うまく生きてくために」
沈黙、何も言葉が出てこない。
「……さ、もう聞きたいことないでしょ?
“都合よく扱われてる”くらい、わかってるよね?
俺だって、誰か売るくらい、普通にやるし」
「……ひどいよ」
「ひどいとか、そういうの今さら言われてもさ。
どうせ“特別”扱いしてもらって、嬉しかったんだろ?
大森さんも飽きたら別の女に行くだけだし、
俺も別に、これ以上ちかちゃんと関わる気ないし」
冷たい沈黙。
「――じゃ、もう切るわ。
大森さんに、このこと言うなよ。」
電話の切れる音が、やけに大きく響いた。
耳に当てていたスマホをゆっくり下ろすと、
急に部屋の空気が冷え込んだみたいに、身体の芯が震えた。
(……わたし……)
胸の奥のなにかが、ずるっと落ちていく。
(わたしは……
“都合のいい存在”で……
どうせ飽きたら捨てられる……)
指先が震え、息が詰まる。
思い返してしまう。
昨夜の、あの腕。
大きなTシャツ。
甘い声。
恋人みたいな一日。
(……特別、なんて……全部……嘘だったんだ……)
逃げないように撮られた動画。
私の彼に話してない個人情報。
家にあげられて、
「守るよ」
「一緒にいよう」
そう言われながら、優しく抱きしめられて。
あれは――
“逃げられないようにするためだけに、
あの優しさが使われただけなんだ。”
胸のあたりがじわっと熱くなって、
涙が一粒、ぽた、と落ちた。
(わたし……なんなんだろ……)
彼の指先のやさしさも、
キスも、
抱き寄せてくれた温度も。
――全部嘘、だったんだ。
背中が丸くなる。
呼吸が浅くなって、
涙が止まない。
本当は、
本当は、
「好き」なんて言われたこと、一度もない。
恋人じゃない。
特別なんかじゃない。
あの甘さも、肌に残る跡も――全部、嘘。
(……ああ……全部……壊れた……
信じた私が、いちばんバカだった……)
スマホが震えた。
彼からのメッセージ。
『無事に着いてよかった。
ゆっくり休んでね、ちかちゃん』
――その優しさすら、信じられなかった。
翌朝、全身が鉛みたいに重くて、遅刻するギリギリの時間まで起きれなかった。
身体の奥に、昨夜の感触だけが残ってる。
出勤の準備中にふいに彼の手の感覚がよぎって、
吐きそうになりながら家を出る。
仕事場についても、頭が回らない。
人の声が遠く聞こえる。
PCの画面の文字が頭に入らない。
(……私、何してるんだろ)
真面目に働いてる自分と、
あの夜の自分がかけ離れすぎて、消えてしまいたくなる。
眠ってもまったく疲れが抜けない。
スマホに通知が来るたび、
彼かもしれないと手が止まるのに、すぐに開ける勇気もない。
LINEは何件か来てる。
挨拶と、他愛のない内容。
『今日も無理しないでね』
『ちかちゃん、ご飯ちゃんとたべてね』
『雨降ってきた!帰り気をつけるんだよ』
――全部優しい。
でも、その優しさすら信じられない。
私は揺れて、揺れて、
どこにも着地できない。
週の半ば水曜日。
仕事中、ふと腹部に鈍い痛み。
お手洗いへ行くと、月のものがきていた。
(…………あ……)
視界が滲むほど、ほっとする。
(よかった……)
声にならない吐息が漏れる。
毎回、避妊されてない。
優しい声で名前を呼ばれながら、深く抱きしめられて。
(……もしかしたら……って、ほんとに怖かった……)
身体の震えが止まらないほど安堵して――
でも同時に、胸の奥にもうひとつ、別の痛みが刺さる。
(……でも、このまま関係続けてたら……いつか……)
怖くなる。
怖くてたまらなくなる。
(私は“道具”でしかなくて……
子どもなんてできたら、捨てられるに決まってる……)
震える指先で下腹を押さえながら、
鏡の前で呟きたくなる。
(……こわい……)
週末、彼は忙しいらしくーー
『来週までバタバタしそう』
『寒いし体調崩さないでね、ちかちゃん』
LINEは優しい。
でも、その優しさすらもう痛い。
私は、久しぶりに“ひとりの週末”を過ごした。
身体は重い。
月のものも始まって、腹部がずきずきする。
気持ちまで一緒に沈んでいく。
(……やっぱり、終わらせたほうがいいのかもしれない)
あの甘さに縋るまえに。
傷つく前に。
壊れる前に。
この優しさがまだ残っているうちに――
自分で終わらせなきゃいけない。
自分を守れるのは自分だけだから。
そう思った。
週末と週明けは他愛のないLINEのやりとりだけだった。
週明けの水曜日、職場での昼休み。
ぼんやりお茶を飲んでいたとき、スマホが震えた。
画面の通知に浮かぶ、彼の名前。
(……まただ……どうしよう……)
メッセージを開く指が震える。
『週末会えない?
やっとオフもらえそうでさ』
胸がぎゅっと締めつけられる。
迷う。
迷う。
迷う。
(……もう、会えません。って伝えればいいだけなのに)
なのに、指が動かない。
頭の中をよぎる。
彼に知られている名前。
住所。
職場。
連絡先。
――あの夜、撮られた動画。
全部、逃げ道を塞ぐ鎖みたいに頭を締めつける。
(怖い。
怖いけど……言わなきゃ。
終わらせなきゃ……)
そう決めても、胸の奥が痛くて息がしにくい。
今日じゃないと、たぶんもう言えない。
仕事を終え、家につき部屋の電気もつけないまま、私は玄関に座り込む。
スマホを握りしめて、深呼吸をひとつ。
震える指でLINEを開く。
ゆっくり、ゆっくり文字を打つ。
『ごめんなさい
もう、会えません。』
送信ボタンを押す瞬間、
胸の奥がぎゅうっと潰れそうになった。
でも――押した。
その瞬間、世界がすこしだけ静かになったように感じた。
もう戻れないって……こんな一瞬で決まるんだ、と思った。
スマホはそっと充電器に挿して、
画面が暗く落ちていくのを見つめていた。
(……今日はもう、何も考えたくない)
胸の奥がずっと痛くて、
頭の中はぐちゃぐちゃで、
呼吸も少し浅くて。
少しでも心を空にしたくて、
私はスマホの電源ボタンを長押しした。
画面が完全に真っ暗になる。
――静寂。
ふっと、肩から力が抜ける。
お風呂に入り、
湯船に沈みながら目を閉じても、
頭の片隅にはさっき送った短い文がちらついて消えてくれない。
でも、それ以上考えるのはもう無理で。
ぼんやりと身体と髪の毛を洗って、
いつもより簡単なご飯を作って食べて、
食器を片付けたあと、
気づけばため息ばかりが漏れていた。
(……疲れた……)
まだ20時過ぎだったけれど、
何もかもが重くて、寝る支度をして
私は布団に潜り込んだ。
毛布の中は少しひんやりして、
身体にまとわりついた不安がじんわりと残る。
(明日……仕事、行けるかな……)
そんな弱い声が頭の中でかすれたあと、
目元が熱くなってきて、
まぶたがゆっくり閉じていく。
静かな部屋に、私の浅い呼吸だけが落ちていた。
――このときの私は、まだ何も知らなかった。
静かに、じわりと世界が軋み始めていたことに。