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見合い相手ともなればお決まりの台詞がある「この後、お食事でも行きませんか」金沢市に戻った雅樹は慣例に習い睡蓮を食事に誘った。
「今夜は帰ります」
「あ…………そうですか」
何気にそう答えたつもりが睡蓮の琴線きんせんに触れたのだろう。レンガ畳みの坂に着くと強い眼差しで雅樹を見据えて助手席のドアを開けた。
「睡蓮さん?」
「おやすみなさい!」
後ろ手に締められたドア、雅樹は運転席から降りて後を追おうとしたが踏み出した足がレンガに貼り付いた様に動かなくなった。
「………..なんなんだよ」
本来ならば玄関先まで送り届けご両親に挨拶のひとつもするべきなのだろう。けれどそれが急に馬鹿らしくなった。これで「白紙に戻したい」と言ってくれれば逆に御の字だ。
後方発進で車を転回させポプラ並木を何本か数えた時、薄暗い街灯の下をらしくないワンピースを着た木蓮が歩いて来るのが見えた。後方を確認して後続車がいない事を確認し、雅樹は運転席から飛び出した。
「木蓮!」
「ぎゃっ!な、なに!」
「ぎゃって………..それは無いだろう」
1ヶ月振りのその姿に雅樹は思わず抱き付いた。
「突然飛びつかれたら誰でもぎゃって………ちょっと離れなさいよ!」
「おまえ、油臭い」
ロイヤルブラウンの髪からはハンバーガーショップの匂いがした。
「おまえ、見合いじゃなかったのか」
「な、ん、で、知ってるのよー!」
木蓮は両手で雅樹の胸板を押し除けた。
「睡蓮から聞いた」
「睡蓮から、あぁ、あんたたちドライブだったわね」
雅樹はその問いには答えず矢継ぎ早で木蓮に問いかけた。
「相手の名前は!」
「………田上伊月」
「年齢!」
「…………..32歳」
「俺より歳上か!仕事は!」
「大学病院の医者」
「医者かよ!くそ!」
その必死な形相に木蓮は吹き出した。
「なに焦ってんの、幼馴染のお兄ちゃんよ」
「幼馴染!?」
「ウチの親もなにを考えているんだか」
「はぁー焦った」
雅樹は両膝に手を突いて鋪道に屈み込んだ。
「あんたなにやってんのよ」
「おまえが見合いって聞いた時は死ぬかと思ったわ」
「突然死ね、ご愁傷さま」
「茶化すなよ」
木蓮はその言葉に面持ちと声色を変えた。
「なに言ってるのよ、あんたは睡蓮の婚約者でしょう」
「………..結納もしていない」
「でも睡蓮と結婚するんでしょう」
雅樹は助手席のドアを開けるとダッシュボードから深紅の指輪を取り出した。それを見た木蓮の顔は「………..あぁ、またか」と嫌な顔をした。
「なに、なんだよその嫌そうな顔」
「あんたも懲りないわね………..それはもう捨ててよ」
木蓮はそれを手で払い除けた。
「嫌だ………10,000円もしたんだぞ」
「はぁ!?あんたぼられたんじゃ無いの!?」
「馬鹿言え、これはフルオーダーの特注品!おまえだけの一点ものだぞ」
「馬鹿じゃないの、付き合ってもいない女に10,000円!」
雅樹は木蓮の薬指に深紅の指輪を嵌めた。
「付き合ったじゃねぇか」
「はぁ!?いつ!」
「見合いのあの日」
「数時間よ!」
「………..それで充分だ」
左の薬指から指輪を外そうとした木蓮の右手を雅樹の大きく厚い手のひらが掴んだ。そして強く引き寄せると抱き締めその唇を覆った。それは公園で一瞬掠めた様な軽いものでは無く、深く口を覆い上唇を啄み下唇を舐め始めた。
「…………..!」
初めは目を見開いた木蓮だったがやがて瞼が蕩け始めゆっくりと歯を割って差し込まれた舌を受け入れた。尾骶骨から脊髄を駆け上がる痺れ、後頭部に靄がかかり互いに激しく舌を舐め合い絡め合った。
「ん」
息継ぎの後にゆっくり舌を離すと唾液の糸が引いた。雅樹は木蓮の顔を覗き込むと耳元で囁いた。
「やっぱりおまえ……….俺の事が好きじゃねぇか」
「好きじゃない」
「なんでだよ」
「…………あんたは睡蓮の婚約者よ」
薬指から抜いた深紅の指輪は再び雅樹の手に返された。
「じゃあね」
「おい、なんだよそれ!」
「おやすみなさい」
木蓮は雅樹の顔を見ずに踵を返した。
「…………..馬鹿じゃないの」
木蓮の頬に涙が溢れた。
頬の涙を拭いながらレンガ畳みの坂を上り門構えに足を踏み入れた木蓮は暗闇に浮かぶ人の気配に小さく悲鳴を上げた。
「……….ひっ!」
目を凝らすとそこに立っていたのは籐のバスケットを両手で持ち、髪を緩く三つ編みにした睡蓮だった。その目は鋭く強烈な光を放ち、木蓮を素通りしてポプラ並木を見下ろしていた。木蓮が後ろを振り返ると交差点で雅樹の運転する車のブレーキランプが点った。
「………..おかえり」
「ただいま」
「………..雅樹さんとなにをしていたの」
木蓮の心臓は跳ね上がった。然し乍らこの角度では二人の姿は車体の影で目視出来ない筈だ。喉仏がゴクリと鳴った。木蓮は努めて平静を装いながら右手で髪の毛を掻き上げた。
「挨拶をしただけよ」
「あんなに長い間?」
睡蓮は雅樹が自分の背中を追って来てくれるのではないかと坂の上で待っていた。そこへ横断歩道を渡った木蓮が歩いて来た。
(…………..雅樹さん?)
車のブレーキランプ、次いでハザードランプが点滅し、運転席から雅樹が飛び出して木蓮に駆け寄った。
(………….どういう事?)
ポプラ並木の狭間に立つ二人、仲睦まじくしている様子が窺えた。
「五平餅、美味しかったか聞いていただけよ」
「雅樹さんはなんて言っていたの」
「美味しかったって」
「………….五平餅は食べなかったわ」
木蓮の脇に汗がジワリと滲んだ。出掛ける前に睡蓮が「五平餅を食べるの」と嬉しそうに話していたのを小耳に挟んでいた木蓮は、二人で食べたものだと思い込んでいた。
「あ、あれ?そうなの?騙されたー!」
「騙された?」
「あ………..うん」
「…………..騙しているのは木蓮じゃないの?」
睡蓮の声が低くなった。
「木蓮、あなた嘘を吐く時はいつもそれよね」
「え、なんのこと」
睡蓮は木蓮の右手が掻き上げた髪を指差した。
「…………….たまたまよ」
睡蓮の眉間に皺が寄った。