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帝都の空は、いつもどこか煤けている。
空を裂くように網の目状に張り巡らされた電線と
重厚な鉄の塊が吐き出す蒸気機関の白煙。
近代化という名の脱皮を繰り返すこの街は、呼吸をするたびに鉄と石炭の匂いがした。
けれど、夕暮れ時。
空が濃い群青に沈み、街路灯のガス灯に
点灯夫の手によって「ぽっ」と柔らかな火が灯る瞬間だけは
この無機質な街が古い魔法にかけられたみたいで、私はたまらなく好きだった。
「よし、これで最後……」
私は最後の一棚を終え、はたきを置くと、煤で汚れた額の汗を拭った。
ここは帝都のはずれ、洋風の赤レンガ館と古風な和屋敷が不規則に並ぶ坂道。
その中腹にひっそりと佇む古書店『月下堂』。
身寄りのない私を拾ってくれたおじいちゃんの家であり、私の唯一の居場所だ。
店内に一歩足を踏み入れれば、そこは時代に取り残された澱みのような空間。
天井まで届く本棚には、革表紙の洋書や手書きの和綴じ本
そして出所のわからない奇妙な骨董品が、静かに埃を被って眠っている。
中でも、帳場の奥に鎮座するその時計は、異様な存在感を放っていた。
私の背丈よりも高い、黒檀の柱時計。
表面には、絡まり合う茨と目を見開いた獣の精巧な彫刻が施されている。
けれど、その針は私が生まれるずっと前
あるいはこの街にガス灯が灯るよりもずっと前から、十二時を指したまま一度も動いたことがないという。
「……雲雀、またその時計を見ているのかい?」
古びた茶器を片手に、奥から店主のおじいちゃんがのっそりと顔を出した。
「だって、なんだか気になるんだもの。時々……耳の奥で、カチ、カチって音がする気がして。誰かが中から、私を呼んでるみたいな……」
「よしておくれ。それは『開かずの時計』。古くからの言い伝えじゃ、下手に触れば運命の歯車が狂い出し、あやかしの刻が戻ってくると言われとる」
「───お前さんのその髪と同じで、この店には過ぎた代物だよ」
おじいちゃんは冗談めかして笑ったけれど、その濁った瞳の奥には、拭いきれない不安が揺れていた。
私のこの、生まれつき燃えるような赤い髪。
夕日に透かせば血のように赤く
闇の中では残り火のようにくすむこの色のせいで、私は幼い頃から「あやかしの子」と疎まれてきた。
周囲と違うことを背負う孤独。
だからこそ、街の喧騒から切り離され
ただ静かに死んだふりをしているこの時計に、自分と同じ「祈り」のようなものを感じていたのかもしれない。
しかし、その時だった。
カラン、と入り口の真鍮の鈴が、冷たく乾いた音を立てた。
「いらっしゃいませ!」
反射的に営業用の声を上げた私は、そのまま指先まで凍りついた。
入り口に立っていたのは、一人の青年だった。
開け放たれた扉から、帝都の冬の冷気が一気に流れ込む。
抜けるように白い肌に、夜の底に沈む海のような
とても深い青い髪。
端正すぎる顔立ちは、生きている人間というより、冷徹な職人が削り出した彫像のようだった。
彼は仕立てのいい黒の軍服に、内側に緋色の裏地がついた漆黒のマントを羽織っている。
歩くたびに腰に差した軍刀の鞘がカチリと鳴り、その冷徹な音が店内の静寂を切り裂いた。
(軍人さん……?いや、あの紋章は…っ)
彼の襟元で鈍い光を放っているのは、五芒星を象った金色のバッジ。
帝都の異能犯罪を専門に扱う、陰陽局の精鋭。
人々に「死神」と恐れられ、その姿を見ること自体が凶兆とされる、若き陰陽師の警察官だ。
「……お前一人か?」
吐き出された声は、肌を刺す氷のようだった。
彼は私を真っ直ぐに見据えた。
わずかに紫がかったその瞳に射抜かれた瞬間、私の心臓は不自然なほど激しく跳ねた。
「い、いえ。店主なら、すぐ奥に……」
「これを探している。心当たりはあるか聞いてくれ」
彼は私の言葉を遮り、懐から一冊の古びた本を取り出した。
それは和歌集だった。
けれど、ただの本ではない。
表紙には赤黒い泥のような染みがこびりつき
ページの間からは、どす黒い冷気が陽炎のように立ち上っている。
「それは……」
「呪いの和歌集だ。最近、これに関わった者が次々と『刻』を奪われ、生きたまま朽ち果てる事件が起きている」
目の前の青年───界人と名乗ったその男は
私の反応を伺うように、無造作にその本を帳場に置いた。
その瞬間
何かに導かれるように、私の右手が勝手に動いた。
「危ない、触るな!」
彼の制止よりも、私の指が本に触れる方が早かった。
───ドクン!
鼓動が、鐘の音のように耳の奥で爆ぜた。
指先から心臓へ、沸騰した熱湯のような熱が流れ込み、視界が真っ赤な緋色に染まる。
脳裏に、雪の降る庭で誰かと指を絡める、知らない記憶が閃光のように走った。
「あ……つ、!」
叫ぼうとした瞬間、背後から聞いたこともないような轟音が響いた。
ガチリ、ガチリ、ガチリッ!
それは、重い金属の歯車が無理やり噛み合う、悲鳴のような音。
振り返ると、あの百年間一度も動かず、埃を被っていた古時計の長針が
生き物のように跳ね、猛烈な勢いで回り始めていた。
「なっ……何が、何が起きてるの!?」
突風が店内に吹き荒れた。
ガス灯の火が狂ったように暴れ、本棚から数千の言葉たちが床へと雪崩落ちる。
界人さんの目が、驚愕に大きく見開かれた。
彼は即座に腰の軍刀の柄を掴み、私を射殺さんばかりの鋭い眼光で睨みつける。
「貴様……今の、何をした! その髪……!」
自分でも気づかなかった。
私の赤い髪が、時計の脈動に呼応するように
まるで本物の炎のような輝きを放ち、周囲の闇を焼き払っている。
時計の針が、ついに重なり合い
真上の「十二時」を刻んだ。
ゴーン、ゴーン───と、帝都の夜を震わせるほど重厚な鐘の音が鳴り響く。
それは、百年の封印が恋という名の熱に溶け
止まっていた悲劇が再び幕を開ける、呪いの合図だった。
「……雲雀、と言ったか。貴様を『あやかし』の容疑、および禁忌接触の現行犯で拘束する」
彼が鞘から抜き放った白刃が、鋭い風を切って私の喉元に突きつけられた。
「っ……!?」
鋭い切っ先が喉の薄皮を掠め、ひんやりとした冷気が首筋を這った。
彼は、人形じみて整った眉をわずかに寄せているだけで、感情の起伏は感じられない。
それでも眼窩の奥で紫苑の瞳が静かに燃えていて、「尋問」「証拠」「隠蔽」といった単語が脳裏に浮かぶほどの威圧があった。
「ま……待って!私も今起きたことが分からないんです!勝手に身体が動いて、触れて……そしたら時計が!」
「言い訳はいい。呪物への自発的接触は十分に嫌疑に値する」
カチャリ。
鞘と鍔が擦れる小さな音とともに、彼の左手が懐から式札を取り出す。
朱墨で描かれた文様は微かな燐光を纏い、式術の起動準備が整いつつあるのを物語っていた。
「動くな。抵抗すれば、容疑を確定させることになる」
界人さんの声は、低く、重い。
向けられた白刃から伝わる殺気と、式札が放つ青白い燐光が、狭い店内の空気を凍りつかせていく。
おじいちゃんが奥で腰を抜かして震えているのが見えたけれど
今の私には声をかける余裕すらなかった。
目の前の界人さんは、戸惑う私を冷徹に、けれどどこか「探る」ような目で見つめている。
時計の鐘の音が、まだ耳の奥でゴーン、ゴーンと残響を立てている。
「……連行する」
それが、私が自由な身で聞いた、最後の一言だった。