コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
冷たい雪が冷たい雨に変わったのは、一日が終わりを迎えようとする頃だった。
こんなにも冷たい夜は心の奥底に封じ込めている何かが、まるで手ぐすねを引いて待ち構える悪夢のように頭を擡げ、退屈そうな声で名を呼んでくる。
胸の奥に巣くう一抹の不安が膨れあがる前に眠りに落ちたいと考えていたウーヴェだったが、見えない敵を相手に全速力で逃げている気分に陥ってしまい、ベッドの中で悪あがきのように寝返りを打ち、ひたひたと近づいてくる足音から逃れようとしていた。
さすがに敵もよく知っている為か、そんなウーヴェの心の動きを見透かすようにしのびより、ひたりと首筋に冷たくじっとりと汗ばむ不快な手をウーヴェの首筋に宛がい、獲物を捕まえたと首筋に感じる事のない吐息を吹きかけてくる。
「――っ!!」
その不快感にきつく目を閉じ、冬の間はこれを使って欲しいと笑顔で恋人が差し出したネックウォーマーを握りしめると、少しだけ不快感が薄れて呼吸が楽になってくる。
その隙を突いてベッドから抜け出し、足早に冷たい廊下を進んでキッチンに向かうと、冷凍庫からナイトキャップにしては強すぎるウォッカのボトルを取りだしてショットグラスに注いで一気に喉に流し込む。
強いアルコールが悪夢の卵を流し去ってくれることを願ってみるものの、ひたりと背筋に張り付いたまま卵は孵化するタイミングを計っているようで、無意識に身体を震わせたウーヴェは、もう一杯ウォッカを流し込んでベッドルームに力なく歩いて行く。
二十数年前に遭遇した事件は今も彼の心身を静かに、だが確実に浸食しているが、長年培ってきた対処法と鉄のような理性がその浸食の証を表に出すことを良しとしなかった。
その為、こうして冷たく暗い夜になれば一人でそれと向き合わなければならないのだが、砂の崖をじわじわと崩していく波のようなそれに、気が付けば背中を向けて恥も外聞もなく逃げ去ってしまいたい欲求に駆られることがままあった。
今夜もその欲求が喉元まで迫り上がってきた時、サイドテーブルに置いた携帯からただ一人を示す着信音が流れ出している事に気付き、縺れる足を叱咤しつつ駆け寄って震える手で携帯に呼びかける。
「……リーオ…っ!」
『――夢を見たのか?』
耳に流れ込むいつもと全く変わらない陽気な声に無意識に安堵の溜息を零し、ベッドに力なく腰掛けた彼は、恋人の不安を秘めた声で呼びかけられて我に返り、脂汗がじとりと浮く額を手の甲で拭って自嘲する。
「……なんでもない、大丈夫だ」
『あー、まーたそんな声で何でもないなんて言う。そんな声で言って信じられると思うか?』
陽気さの中に少しの怒りと呆れが混ざり込み、ぎくりと肩を揺らしたウーヴェに携帯の向こうで憤慨している事が手に取るように分かる声がこれからは何でもないは禁止だと厳しく宣言した為、その言葉の意味に驚いて目を瞬かせる。
「禁止……?」
『そう! 髭を剃らないからキスを禁止にするって前にオーヴェが言ってたけどさ、だったら、平気じゃないのに平気だって言ったり、何でもないなんてウソなのに何でもないって言うのは禁止にする!』
この約束を破ったときはどうなるか分かっているだろうな、ハニーと声だけで凄まれてしまったウーヴェだったが、最後の一言がいつもの彼らしさを連れ戻してくる切っ掛けになったのか、ハニーと言えば1ユーロだぞと呟くと、意味のない悲鳴じみた声が携帯を震わせる。
「……うるさい」
『だー、あー、もー! どーして俺の恋人は素直になれねぇのかな!』
こんな時間にどうしてこんな事で言い合わなければならないんだと、口を尖らせながらぶつぶつと不満を垂れ流しているだろうリオンの顔が脳裏に浮かび、自然と小さな笑みを浮かべたウーヴェは、喉の奥で出口を求めて彷徨う言葉を告げるべきかどうするべきかを思案し、何かの切っ掛けで転がり出す言葉でもあると認識したその瞬間、耳に宛がった携帯から思いがけない声が聞こえてくる。
『――オーヴェ』
その力強くも優しい、自分だけを励ますような声にとんと背中を押されたのか、喉の奥で取れない骨のように刺さっていた言葉がぽろりとこぼれ落ちるが、寸前で口の中に閉じ込めたウーヴェは、小さな溜息を携帯越しに吐きかけられて肩を揺らしてしまう。
『オーヴェ、後15分』
「……え?」
『な、オーヴェ、15分あればさ、何が出来る?』
唐突に変化した声の調子と質問内容について行けずウーヴェが瞬きをしながら何の話だと問い返すものの、携帯の向こうから聞こえてくる声は13分あれば何が出来るという疑問の声だったが、これは答えない限りはいつまでも続くだろうと気付き、本が読めると返すと小さな笑い声が聞こえてくる。
『ホント、オーヴェは本が好きだよなぁ……』
「……じゃあお前は何が出来ると思うんだ?」
『んー、そうだな……12分ありゃあ……ゲームで逆転勝ち出来る!』
「サッカーか?」
『そう! この間さ、残り10分で点を取られて負けちまった……!』
悔しいと吼えるリオンについつい自然な感じで笑ってしまい、拳を口元に宛がってゆっくりとベッドから立ち上がるとサボサンダルに足を突っ込んでガウンを肩に引っかけ、もう一度冷たい廊下へと踏み出すと今度はキッチンではなく玄関へと向かっていく。
「じゃあ10分だとどうだ?」
『そうだなぁ……あ、駅前のインビスでカリーヴルストとポテトが食える!』
「そうだったな……なあ、リオン」
『ん?』
駅前のインビスという言葉に最近二人で出向く事がなかったと思いだしてまた近いうちにインビスに行きたいと告げると、明日の朝にでも行こうそうしよう是非そうしようと捲し立てられ今度はくすくすと笑い声を上げてしまう。
「そんなにインビスに行きたいのか?」
『もちろん! あそこのカリーヴルストマジで美味いんだって!』
「……確かに美味しかったな」
『だろ? 同じものを美味しいって思えるのって良いよな』
嬉しそうな顔で笑って話している姿をありありと思い描ける声に自然と目元も和らぎ、壁に凭れて相づちを打っていたウーヴェだったが、後8分だと何が出来るだろうと問われてリンゴのタルトを食べきれると答えると、小さく吹き出す声が回線を通じて聞こえてくる。
「……っ!」
よく考えれば自ら恥をさらしているようなものだと気付き目尻をうっすらと染めた彼に気付いたのか、取り繕うようにリオンが意味不明の言葉を捲し立てる。
『あわわわわ、ちょ、オーヴェ、ちょっとま……っ!』
「……ああ、後7分もあれば電話を切ってベッドに入れるな」
笑われた腹癒せではないがほんの少しだけ意地悪をしたくなってぽつりと呟くと、ベッドに入るのなんて3分もあれば十分だと威張った声に諭されて目を瞠り、後5分だとどうだと更に問われて返事に窮してしまう。
『オーヴェ?』
「……わから、ない」
『もうギブアップか?』
5分あれば出来る事など数限りなくあるはずなのに、今のウーヴェには全く思い浮かんで来なかった。
素直になってそう告白すると嬉しそうな気配が伝わり、そっとリオンと呼べば5分あれば命の水を作ってオーヴェと分け合いながらそれを飲んで腹の奥から温まることが出来ると返されてしまう。
「……うん」
『どうだ、オーヴェ、命の水が飲みたいか?』
「……欲しい、な」
少しハチミツを多めに入れたものが飲みたいと、砂漠で水を求める人の顔で心身ともに温めてくれる命の水が欲しいと告げると、3分あれば作れるなぁと暢気に返されて同じように心にゆとりが生まれ、いつになく素直に心の赴くままに本心が流れ出す。
「……作って、欲し……い、……」
彼が命の水と呼ぶ身体も心も温めてくれる飲み物の味を思い出し、こんな冷たく暗い夜にこそ飲みたいとも告げると、後2分だと言い切られてそっと目を伏せる。
「後2分だと何が出来る?」
『そうだな……階段を一気に登ってドアベルを鳴らす事は出来るな、うん』
耳に宛がう携帯の陽気な声に覆い被さるように廊下にドアベルが鳴り響き、心の何処かで理解していながらもやはり少しだけ驚いたウーヴェが咳払いをし、携帯を耳に当てたままドアノブを回して内側に引く。
『ハロ、オーヴェ』
左右の耳に流れ込む生の声と機械を通した声に同時に挨拶をされて携帯をガウンのポケットに落としたウーヴェが俯きながら頭を一つ縦に振ると、残り1分でこんな事が出来るんだぜと、まるで己の能力を自慢する子どもの声が頭上に降ってきたかと思うとそのままぎゅっと抱きしめられる。
「……うん」
「命の水は今はちょっと無理だけどさ、これで許して欲しいな、オーヴェ」
ガウンが落ちないように気をつけつつウーヴェの背中をぽんと叩いて安心させるように何度も撫でたリオンは、顔を擦り寄せるようにしてくるウーヴェの白い髪に口を寄せて大丈夫だと囁きながら廊下を進み、ドアが開け放たれているベッドルームに入って苦笑する。
いつもならばベッドの上が乱れている事など無いのにコンフォーターと毛布がはね除けられたままになっていて、ウーヴェの心の動きを教えてくれているようだった。
ベッドに二人並んで腰を下ろしガウンを取ってウーヴェの身体をお座なりに直したコンフォーターと毛布の下にそっと押し込んだリオンは、きょとんとした顔で見上げてくるウーヴェの額にそっとキスをし、自らは手早くブルゾンやジーンズを脱ぎ去ると呆気に取られるウーヴェの横に潜り込む。
「こんな事も出来るな、うん」
毛布とコンフォーターの下でもぞもぞとリオンが動くのを見守っていたウーヴェは、先程と同じように背中に手が回って身体を引き寄せられた事に気付くと、逆らうことなく目を閉じてその腕に抱かれる。
「……お休み、オーヴェ、もう悪い夢は見ないぜ」
「…………そう、だと……」
「俺がいるんだ、絶対に見ない」
それに俺は夢の続きを見たいと思っても見られたためしがないととっておきの秘密を告白する声で囁かれ、小さく吹き出してリオンの素肌の胸に吐息を吹きかけてしまう。
いつもならばそんなことはないと否定の声を挙げてしまうが、こんなにも冷たく暗い夜から救い出してくれる腕の持ち主には素直になっても良いだろうとひっそりと裡なる声が響き、それに従う様に無言で首を縦に振ると、背中に回った手が嬉しそうに背中を撫でる。
その温もりと優しさに自然と瞼が重くなり、まるで子どものような己に呆れ返ったウーヴェだったが、背中の大きな掌が気にするなと教えてくれている事に気付いて今ぐらいは素直になろうと決め、小さな子どもが零す満足の溜息を零し、下がってくる瞼の重さに負けてしまう。
眠っているのか起きているのか、その境界が曖昧になった時、もう一度優しい声がお休みと告げた気がしたが、それを確かめる力がウーヴェにはなく、その声を聞きながら眠りに落ちていくのだった。
恋人が己の腕の中で深い眠りに就いた事をしっかりと確かめたリオンは、いつもならばほとんど見せない子どものような顔で縋り付かれた事にかなりの驚きを感じていたが、それを表に出せば間違いなく無表情の仮面で覆い隠すと気付き、驚きを表に出さないようにじっと堪えていた。
いつもと違う様子から電話をする直前まで見ていた夢が本当に恐怖を与えるものだったのだろうと考え、ウーヴェが思わず素直になってしまうほど恐ろしい夢と言えば過去に巻き込まれた事件しかないと結論づけ、今腕の中で静かに寝息を立てる彼が朝を迎えるまではこの穏やかな眠りを妨げないでくれと強く願いつつ白い髪に口付ける。
こうして抱きしめながら眠る事で少しでも心穏やかになれるのならば良いがと、己の存在の軽重を疑うような事を脳内で呟いたリオンだったが、視線を下げたときに見える顔が本当に子どものような穏やかさだった為、己のそんなつまらない思いなど捨ててしまえと自らを叱咤する。
ここまで安心しきった顔で眠っているウーヴェを見られる幸福感につい笑みが浮かび、大きく口を開けて欠伸をしたリオンは、身動いだ事でウーヴェの口から微かな声が零れたことに気付いて大丈夫だと囁きながら頬にキスをする。
「お休み、オーヴェ」
自分にとってウーヴェの存在が大きいようにウーヴェにとっても自分の存在が大きければ良いと願いながら目を閉じたリオンは、その思いに応えるようにウーヴェが身を寄せてきた為、しっかりと抱き寄せてもう一度欠伸をするとあっという間に意識を手放してしまう。
どちらにとっても最も安心出来て子どものように何の心配もせずに深く眠りに就ける、そんな腕を互いの身体に回しながら冷たく暗い夜を身を寄せ合って越えていくのだった。