テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
1,281
560
7
第十四話 月下に咲く影
冬木の夜に、二つの光が浮かんでいた。
一つは太陽。
夜であるはずの空に、あり得ない黄金の輪が昇っている。
それは昼を連れてくる光ではなかった。
眩しすぎるほどの白。
隠しごとを許さず、影を焼き払い、目を逸らしたものをすべて暴き立てる光。
もう一つは月。
黒い神杯の亀裂から漏れる、静かな銀色の光。
太陽のように照らし尽くすのではなく、暗闇の輪郭だけをそっと浮かび上がらせる光。
太陽と月。
光と夜。
その二つが、冬木の上空で向かい合っていた。
そして、その下で。
間桐桜は、一人で立っていた。
◆
間桐邸。
古い屋敷は、夜の中に沈んでいた。
かつての湿った気配は薄れている。
だが、家そのものに染みついた記憶までは消えていない。
廊下の軋む音。
閉じた障子。
地下へ続く階段。
言葉にされなかった痛み。
誰にも見せずに飲み込んだ時間。
桜は、玄関の前に立っていた。
紫の髪が夜風に揺れる。
その顔は静かで、あまりにも静かだった。
彼女の隣には、長い髪を持つ女性が立っている。
メドゥーサ。
クラス、月霊。
かつてライダーとして桜の傍らにいた英霊。
今回は神杯の異常により、月の霊性を帯びた特殊クラスとして再召喚されている。
彼女は桜の横顔を見つめ、低い声で言った。
「サクラ。無理をする必要はありません」
桜は小さく笑った。
「無理は、もう慣れてます」
「慣れていいものではありません」
「そうですね」
桜は夜空を見上げた。
太陽の輪と月の輪が、同じ空にある。
「でも、逃げていい場所でもない気がするんです」
メドゥーサは答えない。
ただ、静かに彼女の隣に立ち続ける。
桜は、自分の胸元に手を当てた。
そこには令呪がある。
だが、今夜それとは別に、もう一つの印が浮かびかけていた。
黒い月のような紋様。
神杯が、桜の内側にあるものへ触れようとしている。
隠してきたもの。
押し込めてきたもの。
言葉にできなかったもの。
誰かに知られることを恐れたもの。
そのすべてを、神杯は燃料にしようとしていた。
メドゥーサの声が少し鋭くなる。
「神杯が近づいています」
「分かります」
桜は目を伏せる。
「ずっと、誰かに見つからないようにしてきたものを、無理やり開けようとしてる」
「ならば、私が斬ります」
「いいえ」
桜は首を横に振った。
「これは、私の中にあるものです。誰かに斬ってもらうだけじゃ、きっと駄目なんです」
メドゥーサは静かに息を呑んだ。
桜は、もう一度夜空を見る。
「先輩たちは来ますよね」
「必ず」
「姉さんも」
「ええ」
桜は少しだけ困ったように笑った。
「怒られそうですね」
「心配されるでしょう」
「そっちの方が、困ります」
そう言いながら、桜の声は少しだけ柔らかかった。
◆
衛宮士郎たちが間桐邸へ到着した時、空はすでに異界化していた。
屋敷全体が、月光と太陽光の狭間に浮かんでいる。
庭の半分は銀色に沈み、もう半分は白金の光に焼かれている。
影は濃く、光は強い。
どちらも極端で、どちらも人間には息苦しい。
凛は宝石板を確認しながら顔をしかめた。
「太陽神反応、月神反応、メドゥーサ反応、桜の魔力反応。全部重なってる」
士郎は屋敷を見つめる。
「桜は中か」
「ええ。でも妙ね。神杯の影が桜を飲み込もうとしてるのに、月神の反応がそれを抑えてる。太陽神は逆に影を焼き払おうとしてる」
ジャンヌが静かに言う。
「焼き払うことが救いになるとは限りません」
メディアも頷いた。
「特にこの場合はね。影を消せば、影の中に隠れていた本人の一部まで削ることになる」
アルトリアは剣に手を添える。
「では、慎重に進むべきですね」
アーチャーが屋敷を見る。
「間桐の家に慎重も何もない。あそこは昔から、まともな場所ではない」
その言葉に凛の表情がわずかに曇った。
士郎はそれに気づく。
「凛」
「分かってる」
凛は短く答えた。
だが、その声は少し硬い。
桜は妹だ。
大切な家族だ。
けれど、遠坂凛は彼女の苦しみすべてを知っていたわけではない。
知らなかったこと。
知ろうとしなかったこと。
知れなかったこと。
その全部が、今夜の層に引きずり出されようとしている。
凛は宝石を握りしめた。
「桜を神杯に渡さない」
士郎は頷く。
「ああ」
その時、屋敷の屋根の上に黄金の光が落ちた。
一人の青年が立っている。
眩い金髪。
白い衣。
手には竪琴にも弓にも見える神具。
背後には小さな太陽の輪。
太陽神。
アポロン。
彼の隣には、一人の少年がいた。
日向ヒカル。
太陽神のマスター。
明るい茶髪に、快活そうな顔。
だが今は、その表情に緊張がある。
アポロンは士郎たちを見下ろし、朗らかに言った。
「来たね、人間たち。残念だけど、ここから先は危険だ。あの少女の影は、放置すれば神杯の底へ繋がる」
凛が鋭く返す。
「だから焼き払うつもり?」
アポロンは悪意なく頷いた。
「影は光で消える。簡単なことだよ」
メディアが冷たく笑う。
「神らしい雑な救済ね」
アポロンは少しだけ困ったように笑った。
「雑かな?」
「雑よ。とても」
士郎はアポロンを睨む。
「桜の影を勝手に消すな」
アポロンの目が士郎へ向く。
「君は彼女の影が何か知っているの?」
士郎は答えに詰まる。
知らない。
全部は知らない。
桜が何を飲み込んできたのか。
どれだけ言葉を我慢してきたのか。
どんな夜を越えてきたのか。
士郎は、全部を知っているわけではない。
アポロンは穏やかに続ける。
「知らないものを守ると言うのは危険だよ。影の中には、人を傷つけるものもある。憎しみも、嫉妬も、諦めも、壊れた願いも」
「それでも」
士郎は言う。
「本人に聞かずに消すのは違う」
アポロンは目を細めた。
その時、銀色の月光が庭へ降りた。
太陽とは反対側の屋根に、女神が立っていた。
長い銀髪。
夜の色をした衣。
瞳には静かな月。
手には、細い銀の杖。
月神。
セレーネ。
その隣には、黒髪の少女が立っている。
瑠璃宮アヤメ。
月神のマスター。
アヤメは感情の読みにくい顔で士郎たちを見つめている。
セレーネは静かに言った。
「太陽は影を消す。けれど、夜を生きる者にとって影は隠れ家でもある」
アポロンは肩をすくめる。
「隠れ家に閉じこもったままでは、朝は来ないよ」
「朝を望む時まで、夜はその者を抱くべきです」
セレーネの声は柔らかい。
だが、その奥には確かな強さがあった。
「間桐桜はまだ、自分の影を見つめている途中。焼くには早い」
凛が小さく息を吐く。
「月神は桜を守ってるってこと?」
アヤメが初めて口を開いた。
「守っているというより、待っている。月は急かさない」
士郎は桜の気配を探る。
屋敷の奥。
地下ではない。
中庭だ。
桜とメドゥーサは、月と太陽の狭間にいる。
◆
中庭は、奇妙な場所になっていた。
半分は白金の光に照らされ、影一つない。
もう半分は深い月影に沈み、輪郭だけが淡く見える。
その境目に、桜が立っていた。
メドゥーサは彼女の前に立ち、周囲を警戒している。
桜の足元から、黒い影が広がっていた。
泥ではない。
触れれば壊れるようなものでもない。
それは、声だった。
言えなかった言葉。
飲み込んだ感情。
笑顔の裏に隠した痛み。
怒っていいはずだったのに、怒れなかった記憶。
それらが影となって、桜の足元から広がっている。
凛が一歩前に出た。
「桜」
桜は振り返った。
姉を見て、少しだけ微笑む。
「姉さん」
その呼び方に、凛の胸が詰まる。
凛は言葉を探した。
謝るべきなのか。
助けると言うべきなのか。
大丈夫かと聞くべきなのか。
どれも違う気がした。
桜はそれを見て、静かに言った。
「姉さん、そんな顔しないでください」
「そんな顔って、どんな顔よ」
「私を見て、何を言えばいいか分からない顔」
凛は言葉を失った。
桜は悲しそうに笑う。
「私も、ずっとそうでした。何を言えばいいか分からなかった。怒っていいのか、泣いていいのか、助けてって言っていいのか、分からなかった」
士郎は一歩前へ出る。
「桜」
桜は士郎を見る。
「先輩」
その声は穏やかだった。
だが、いつもの穏やかさとは違う。
今夜の桜は、隠すために笑っているのではない。
隠していたものを、少しずつ外へ出そうとしている。
足元の影が揺れた。
そこから、小さな声が漏れる。
『見てほしかった』
凛の肩が震える。
次の声。
『気づいてほしかった』
士郎は歯を食いしばる。
また別の声。
『でも、知られたくなかった』
桜は目を伏せた。
「矛盾してますよね」
誰も笑わない。
桜は続ける。
「見てほしかった。でも、見られたら嫌われると思った。助けてほしかった。でも、助けられたら自分が壊れてるって認めるみたいで怖かった」
メドゥーサが静かに拳を握る。
彼女は桜を守りたい。
だが、今は口を挟まない。
桜が自分の言葉で話しているからだ。
アポロンが屋根の上から言う。
「だから影は危険だ。君自身を縛る」
黄金の光が強まる。
桜の足元の影が、じりじりと焼かれ始めた。
メドゥーサが即座にアポロンへ向く。
「やめなさい」
アポロンは悪意なく答える。
「彼女を救うためだよ」
メドゥーサの声が冷える。
「本人が望まぬ救いは、ただの暴力です」
アポロンの光がさらに強くなる。
太陽神の神気が、中庭を白く染めていく。
影が薄くなる。
同時に、桜の顔が苦しそうに歪んだ。
凛が叫ぶ。
「やめなさい! 影と一緒に桜の霊基まで削れてる!」
アポロンのマスター、日向ヒカルが動揺する。
「アポロン、待って! 本当に危ないんじゃ――」
アポロンは眉をひそめる。
「光で照らせば、影は消えるはずだ」
セレーネが静かに言う。
「それが間違いなのです、太陽の神」
月光が中庭へ広がる。
銀色の光が、桜の影を焼かずに包む。
影は消えない。
だが、暴れるのをやめる。
輪郭が見えるようになる。
桜の影は怪物ではなかった。
泣いている小さな少女の形。
膝を抱えている影。
誰かを待っている影。
誰にも怒れず、自分だけを責めていた影。
凛の目に涙が浮かんだ。
「桜……」
桜は、自分の影を見つめた。
「私、ずっとこの子を見ないようにしてました」
彼女は一歩、影へ近づく。
士郎が反射的に動きかける。
だが、止まった。
行って守ることは簡単だ。
でもこれは、桜が向き合うべきものだ。
士郎は拳を握り、踏みとどまる。
桜は影の前にしゃがんだ。
「ごめんね」
影が揺れる。
「ずっと、いないことにして」
黒い少女の影は顔を上げる。
声はない。
だが、桜には聞こえているのだろう。
桜は涙をこぼしながら言った。
「私は、明るい場所に行きたかった。先輩の家でご飯を作って、姉さんと普通に話して、笑って、そんなふうになりたかった。でも、それだけじゃなかった」
彼女は自分の胸を押さえる。
「暗いところにいた私も、確かに私だった」
神杯の黒い紋様が、桜の胸元で強く脈動する。
影が一気に広がった。
中庭全体が黒く染まりかける。
凛が宝石を構える。
「神杯が桜の影を奪いに来た!」
メディアが叫ぶ。
「影を燃料に変換する気よ! 桜本人の受容と同時に奪うつもり!」
黒い神杯の根が、影の中から伸びる。
桜と影の少女をまとめて飲み込もうとする。
メドゥーサが動いた。
紫の髪が舞い、魔眼の封印が微かに軋む。
「サクラに触れるな」
彼女の声は静かだった。
だが、そこに込められた怒りは深い。
メドゥーサの鎖が黒い根を弾く。
その動きは蛇のようにしなやかで、月光のように鋭い。
アポロンもまた、事態の異常に気づいた。
「神杯が影を横取りするのか」
セレーネが銀の杖を掲げる。
「だから待てと言ったのです」
太陽と月の神気が、初めて同じ方向へ向いた。
神杯の黒い根へ。
◆
戦闘が始まった。
黒い根は、中庭の影から次々に伸びる。
それは桜の影を材料にしているため、斬れば斬るほど彼女の心へ負荷がかかる。
凛はすぐに気づいた。
「根を直接攻撃しすぎると桜に反動が来る! 切るんじゃなくて、神杯との接続だけ外して!」
士郎は頷く。
「分かった!」
投影するのは剣ではない。
今夜は、剣では強すぎる。
桜の影を傷つけず、神杯の根だけを外すもの。
針。
糸をほどくための細い針。
第十話で愛憎の糸をほどいた時の感覚を思い出す。
「投影、開始」
士郎の手に、細い銀の針が生まれる。
セレーネの月光を受けて、淡く光る。
彼は黒い根へ近づき、根と影の接続部分へ針を差し込んだ。
瞬間、桜の感情が流れ込んでくる。
寂しさ。
恐怖。
怒り。
諦め。
それでも誰かに優しくしたかった気持ち。
誰かの家に帰りたかった願い。
食卓の温かさを信じたかった心。
士郎は歯を食いしばった。
これは自分のものではない。
勝手に背負ってはいけない。
でも、神杯に渡すわけにはいかない。
「桜のものだ……!」
針を回す。
黒い根が影から外れる。
凛がその瞬間に宝石魔術で接続を封じる。
メディアが紫の術式で神杯側の再接続を妨害する。
ジャンヌの旗が桜の周囲に守護を張る。
アルトリアとランスロットは黒い根の進路を遮る。
アーチャーは遠距離から根の支点だけを撃ち抜く。
ギルガメッシュは苛立たしげに宝具を放ちつつも、桜の影へ当てないよう精密に狙っていた。
「面倒な戦場だ」
エルキドゥが鎖で根の動きを縛る。
「でも、君はちゃんと狙ってるね」
「黙れ」
イスカンダルは戦車で黒い根を踏み砕くのではなく、進路を塞ぐように走る。
「守る戦もまた戦よ!」
リチャードが剣で根の先端を弾く。
「繊細な戦場だな! 私には少し難しい!」
凛が叫ぶ。
「だったら余計なところ斬らないで!」
「努力しよう!」
「そこは断言して!」
中庭の中心で、桜は影の少女と向き合っていた。
黒い根が二人を取り囲む。
メドゥーサがその前に立つ。
アポロンの太陽光が根を弱める。
セレーネの月光が影を守る。
太陽と月。
消す光と、抱く光。
二つがようやく役割を分け始めていた。
アポロンは、少し悔しそうに呟く。
「僕の光だけでは救えないのか」
日向ヒカルが屋根の上で答える。
「たぶん、救い方が違うんだよ」
「人間は難しいね」
「神様が簡単にしすぎなんだと思う」
アポロンは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「言うね、ヒカル」
セレーネは静かに月光を強める。
「太陽は朝を連れてくる。けれど、夜をなかったことにはできません」
アポロンは頷いた。
「なら、僕は夜明けを待つことにしよう」
太陽神の光が変わる。
影を焼く光ではなく、黒い根だけを照らし出す光へ。
凛が叫ぶ。
「見える! 神杯の接続線だけが浮かび上がった!」
メディアが笑う。
「ようやく役に立つ照明になったわね、太陽神」
「魔女は辛口だなぁ」
◆
神杯の接続線が見えたことで、戦況は変わった。
士郎の針。
凛の宝石。
メディアの術式。
エルキドゥの鎖。
ジャンヌの守護。
アポロンの照明。
セレーネの月光。
それらが重なり、桜の影から神杯の根が少しずつ剥がされていく。
だが、神杯は諦めない。
黒い根の奥から、巨大な影が現れた。
それは桜の形をしていた。
だが、桜ではない。
神杯が桜の影を元に作った、影の器。
顔は桜に似ている。
声も桜に似ている。
だが、その瞳には本人の迷いも温かさもない。
影の器は言った。
「私は、沈めばよかった」
桜の肩が震える。
影の器は続ける。
「誰も知らないまま、何も言わないまま、笑っていればよかった。そうすれば、誰も困らなかった」
凛が叫ぶ。
「違う!」
影の器は凛を見る。
「姉さんは、そう言えるんですね」
凛の言葉が止まる。
影の器は士郎を見る。
「先輩も、きっと優しい言葉をくれます。でも、優しい言葉で過去は消えません」
士郎は歯を食いしばる。
否定したい。
そんなことないと言いたい。
でも、言葉を急いではいけない。
桜自身が、今その影と向き合っている。
メドゥーサが桜の横に立つ。
「サクラ。命じてください」
桜はメドゥーサを見る。
「命令、ですか」
「はい。私はあなたのサーヴァントです。あなたが戦うと言うなら、私は戦います。あなたが逃げると言うなら、私は逃がします。あなたが泣くと言うなら、私はその時間を守ります」
桜の瞳が揺れる。
メドゥーサの言葉は、救いを押しつけるものではなかった。
選択を返す言葉だった。
桜は影の器を見る。
そして、静かに言った。
「私は、沈みたかったこともあります」
誰も遮らない。
「全部なかったことになればいいって思ったこともあります。明るい場所にいる人たちが眩しくて、見たくないって思ったこともあります」
凛の瞳に涙が浮かぶ。
桜は続ける。
「でも、それだけじゃない」
彼女は一歩前へ出る。
「私は、先輩の家でご飯を作る時間が好きでした。姉さんと普通に喧嘩できたらいいなって思ってました。ライダーさんが傍にいてくれることが嬉しかった。怖くても、寂しくても、それでも朝が来るのを待っていたこともあります」
影の器が揺らぐ。
「私は、影の中にいた私をなかったことにはしません」
桜の足元の影が、月光に照らされる。
黒い少女の影が、桜へ手を伸ばした。
桜も手を伸ばす。
「でも、神杯に渡しもしません」
二つの手が触れる。
瞬間、桜の影が彼女の中へ戻っていく。
消えたのではない。
統合された。
桜は、影を抱いたまま立っていた。
神杯の影の器が悲鳴のように歪む。
材料を失ったからだ。
凛が叫ぶ。
「今!」
士郎の針が、最後の接続線へ突き刺さる。
メディアの術式が神杯側を封じる。
セレーネの月光が桜の影を守り、アポロンの太陽光が神杯の根だけを焼く。
メドゥーサが魔力を解放した。
月霊としての彼女の背後に、白い天馬の幻影が現れる。
神話の翼が月光を浴びる。
メドゥーサは静かに告げた。
「サクラの影は、サクラのものです」
天馬が駆ける。
月光の軌跡が黒い根を貫き、神杯との接続を完全に断ち切った。
影の器が砕ける。
黒い破片は、桜へ戻らない。
神杯にも戻らない。
月光の中で静かに消えた。
◆
中庭に静けさが戻った。
太陽の輪は少し弱まり、月の光は穏やかになっている。
桜はその場に立っていた。
倒れてはいない。
泣いてもいない。
ただ、長い息を吐いた。
士郎が近づく。
「桜」
桜は振り返る。
「先輩」
「大丈夫か」
桜は少し考えた。
そして言う。
「大丈夫じゃないです」
士郎は黙った。
桜は少しだけ笑う。
「でも、大丈夫じゃないって言えるくらいには、大丈夫です」
その答えに、士郎は胸が詰まった。
凛が近づく。
「桜」
桜は姉を見る。
凛は言葉を探していた。
謝りたい。
抱きしめたい。
でも、そんな簡単な言葉や行動で済ませていいのか分からない。
桜は静かに言った。
「姉さん」
「何」
「私は、まだ怒っていいですか」
凛の目が見開かれる。
桜は続ける。
「今すぐ全部じゃなくていいんです。でも、少しずつ、怒ってもいいですか」
凛は唇を噛んだ。
涙をこらえるように。
そして、しっかり頷いた。
「いい。怒って。私、ちゃんと聞くから」
桜の表情が少し崩れた。
笑っているのか、泣きそうなのか分からない顔だった。
「じゃあ、いつか言います」
「うん」
「今日は、疲れました」
「うん」
凛は震える手を伸ばしかけて、止めた。
桜がそれを見て、小さく言った。
「手、繋ぐくらいなら」
凛は目を見開いた。
そして、そっと桜の手を握った。
姉妹の手は、ぎこちなかった。
でも、離れなかった。
メドゥーサはその光景を見て、静かに目を伏せた。
ジャンヌが柔らかく微笑む。
アルトリアも、ランスロットも、何も言わずに見守っている。
アポロンは屋根から降り、桜へ向かって軽く頭を下げた。
「ごめん。僕は君の夜を焼こうとした」
桜は少し驚いた顔をした。
「神様も謝るんですね」
「太陽は眩しすぎて、時々見落とす」
セレーネが静かに言う。
「見落としたなら、次は照らし方を覚えればいい」
アポロンは苦笑した。
「月は厳しい」
「夜は長いですから」
日向ヒカルはほっとしたように息を吐く。
瑠璃宮アヤメは黙って月を見上げていた。
◆
神杯の外殻に、新たな亀裂が走った。
月と影の層が開かれたのだ。
凛の宝石板には、新しい接続路が表示されている。
「月影の層、安定……桜の影が神杯から切り離された」
メディアが頷く。
「これで神杯は、間桐桜を影の燃料として使えない。少なくとも当面はね」
士郎は黒い神杯を見上げる。
亀裂は増えている。
だが、同時に神杯の奥が近づいている感覚もある。
終末。
祝祭。
裁き。
愛憎。
創造。
死。
王権。
月影。
いくつもの層を越えた。
だが、まだ終わりではない。
神杯は、願いを返されるたびに傷つく。
そして傷つくたびに、さらに深い願いを引きずり出す。
凛が宝石板を見て、眉をひそめた。
「……次の反応が出てる」
士郎は彼女を見る。
「何だ」
「豊穣神。デメテル。そして生命再生の層」
メディアの表情が険しくなる。
「月影の次に豊穣……なるほど。影を受け入れた命が、次は“増えること”と“失うこと”を問われるのね」
桜が静かに言う。
「生命再生……」
その言葉に、イリヤのことが全員の頭をよぎった。
生きたいと選んだ少女。
仮初めの霊基で生を繋いでいる存在。
豊穣と再生の層。
それはおそらく、イリヤの存在維持にも関わる。
凛が低く呟く。
「次は、イリヤを本当に安定させる手がかりになるかもしれない」
士郎の目が鋭くなる。
「行くしかないな」
桜が一歩前へ出た。
「私も行きます」
士郎と凛が同時に振り返る。
桜は少しだけ困ったように笑った。
「今まで、守られてばかりでしたから」
メドゥーサが彼女の隣に立つ。
「サクラが行くなら、私も」
凛は少しだけ迷った。
だが、やがて頷いた。
「無理はしない。それが条件」
「はい、姉さん」
その返事に、凛は少しだけ顔を赤くして視線を逸らした。
「……なら、いいわ」
士郎は桜を見る。
桜はもう、影を消したわけではない。
影を抱えたまま、月明かりの下に立っている。
その姿は弱くない。
ただ明るいだけの光よりも、ずっと強く見えた。
◆
衛宮邸へ戻ると、イリヤが眠たそうに出迎えた。
桜を見ると、彼女は少し首を傾げる。
「桜、なんか変わった?」
桜は驚いた顔をして、それから微笑む。
「そう見えますか?」
「うん。暗いところが、怖くなさそうになった」
桜は一瞬だけ目を見開いた。
そして、小さく笑った。
「そうかもしれません」
イリヤは満足げに頷く。
「よかった」
その言葉は、あまりにもまっすぐだった。
桜は少しだけ泣きそうな顔をした。
けれど泣かなかった。
代わりに、静かに言った。
「はい」
◆
夜の終わり。
黒い神杯は、また一つ深く亀裂を刻まれた。
太陽は、影を焼くことをやめた。
月は、影を抱くことを選んだ。
桜は、暗闇にいた自分をなかったことにしなかった。
そして神杯は、次の層を開く。
生命。
豊穣。
再生。
生きたいと願った者が、本当に生き続けるために必要なもの。
だが、再生には必ず代償がある。
何かを生かすために、何かが土へ還る。
その理を司る神が、冬木の大地で目を覚ます。
豊穣神デメテル。
そして、その層の中心には、白い少女の命を繋ぐ答えがある。
神杯戦争、第十四夜。
間桐桜は影を拒まず、影を神杯へ渡さなかった。
月下に咲いた影は、もう沈黙だけのものではない。
第十五話へ続く。
コメント
1件
読了したわ。 第十四話、めちゃくちゃ重かったけど、すごく良かった。 桜が自分の影と向き合って、「なかったことにしない」って言い切ったところ、震えたよ。 影の少女が泣いてる形ってのがもう胸にグッときて…あれは桜自身の傷そのものだろ? そして、それを焼こうとしたアポロンと、抱こうとしたセレーネの対比も綺麗だった。太陽と月が協力し始めた展開は痺れる。 士郎の余計な剣じゃなくて「針」で繋ぎをほどくっていう判断も、めっちゃ刺さった。強さの方向性がちゃんと物語に沿ってる。 凛が最後に「怒っていい?」って桜に言われて「いい」って答えたとこ、姉妹として最高だった。 次が豊穣と再生って…もうデメテル来るのか。イリヤの生存ルートに関わるならたぶん一番の山場だな。次話も楽しみにしてるわ。