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第十五話 豊穣の種、白き命
朝の衛宮邸には、湯気があった。
味噌汁の湯気。
炊きたての米の湯気。
焼いた魚から立つ薄い香り。
誰かが箸を置く音。
誰かが「熱い」と小さく言う声。
それは、戦争の中にあるにはあまりにも普通の朝だった。
だが、普通であることは、今の衛宮邸では奇跡に近い。
居間には人が増えすぎていた。
衛宮士郎。
遠坂凛。
アルトリア。
アーチャー。
ジャンヌ。
メディア。
エルキドゥ。
ギルガメッシュ。
リチャード一世。
ランスロット。
メドゥーサ。
桜。
イリヤ。
そして、名前未定のアルターエゴ。
これだけの英霊と魔術師と神秘が一つの食卓近くに集まっているというのに、畳の上には妙な生活感があった。
凛は茶碗を手に、半分呆れたように言った。
「もう本当に、ここ作戦本部っていうより合宿所ね」
士郎は味噌汁をよそいながら答える。
「飯がいる人数が増えただけだ」
「その増え方がおかしいのよ。普通、家に英雄王とか聖女とか円卓の騎士とか増えないから」
ギルガメッシュは箸を持ったまま不満げに眉を上げた。
「雑種。これは何だ」
「卵焼き」
「なぜ甘い」
「そういう味付けだ」
「ふむ」
ギルガメッシュは一口食べ、しばらく黙った。
エルキドゥが穏やかに微笑む。
「気に入った?」
「悪くはない」
「それはかなり気に入った時の言い方だね」
「黙れ」
イリヤはそのやり取りを見て、くすっと笑った。
白い少女は、まだ完全に回復しているわけではない。
肌は少し透けるように白く、長時間立っているとすぐ疲れてしまう。
それでも、昨日よりは頬に色があった。
彼女は小さな茶碗を両手で持ち、ゆっくりとご飯を食べている。
士郎はそれを見て、胸の奥が温かくなる。
食べている。
イリヤが。
死者として神杯に呼び戻され、終末を望み、ようやく生きたいと言えた少女が、今、食卓で米を噛んでいる。
それだけで、士郎には十分すぎるほど大きな意味があった。
だが、隣に座るメディアの表情は険しかった。
「喜ぶのはいいけれど、問題は解決していないわ」
凛も頷く。
「イリヤの霊基安定率は上がってる。でも、まだ仮組み。長期維持するには、外部からの供給と器の固定が必要」
イリヤは茶碗から顔を上げる。
「私、まだ危ない?」
凛は一瞬だけ言葉を選んだ。
それから、誤魔化さずに言う。
「危ない。けど、前よりずっと希望はある」
メディアが続ける。
「豊穣神の層が開いた。そこにある生命再生の権能を利用できれば、貴女の仮初めの霊基を“生きる器”として安定させられる可能性がある」
イリヤは瞬きをした。
「生きる器……」
桜が静かに言う。
「つまり、今よりもっと普通に生活できるかもしれないってことですか」
「そう」
凛は頷く。
「ただし、豊穣神の権能は都合のいい回復魔術じゃない。命を生やすには、土と水と時間と、受け取る器が必要になる」
アルターエゴが首を傾げた。
「命は設計すれば維持できるのでは?」
メディアが彼女を見る。
「設計だけでは駄目。生命は動き続けるものよ。成長して、変化して、傷ついて、また戻ろうとする。不安定だからこそ生きている」
アルターエゴはしばらく考え込んだ。
「不安定だから、生きている」
「そう」
イリヤは自分の手を見つめる。
「私も、不安定だから生きてるのかな」
士郎は答えようとして、止まった。
その答えは、自分が決めるものではない。
代わりに、桜がそっと言った。
「不安定でも、生きたいと思えたら、それでいいんじゃないでしょうか」
イリヤは桜を見る。
桜は少しだけ照れたように笑った。
「私も、昨日ちょっとだけ分かりました。ちゃんと大丈夫じゃなくても、そこにいていいんだって」
イリヤは小さく頷いた。
「そっか」
その時、凛の宝石板が強く光った。
食卓の空気が一瞬で変わる。
凛は画面を確認し、表情を引き締めた。
「来た。豊穣神反応、冬木市郊外の旧農業試験場跡地。神杯の根が地下霊脈から地表に伸びてる」
士郎が立ち上がる。
「そこにデメテルが?」
「ええ。契約マスター反応もある。名前は橘花穂乃果」
ジャンヌが静かに呟く。
「豊穣神と契約した少女……」
メディアが宝石板を覗き込む。
「しかも神杯の根が異常成長している。放置すれば、冬木全体の生命力を吸い上げて“再生の層”を強制起動するわ」
イリヤの顔が強張る。
「私のため?」
凛は即座に首を横に振る。
「違う。神杯があなたの生きたい願いを利用してるだけ。あなたのせいじゃない」
イリヤは少しだけ俯いた。
士郎は彼女の前にしゃがむ。
「イリヤ」
「うん」
「行こう」
イリヤは顔を上げる。
「私も?」
「ああ」
凛が少し驚いた顔をした。
士郎は続ける。
「これはイリヤの命に関わる話だ。危険なら守る。でも、イリヤ抜きで勝手に決めるのは違う」
イリヤの赤い瞳が揺れる。
彼女は小さく笑った。
「うん。行く」
◆
冬木郊外の旧農業試験場は、緑に沈んでいた。
廃墟になった温室。
割れたガラス。
錆びた散水機。
荒れた畑。
本来なら放置された施設のはずだった。
だが今は違う。
畑には黄金の麦が実り、ひび割れたコンクリートの隙間から若草が伸び、枯れた木々には白い花が咲いている。
温室の中では、季節の違う果実が同時に実っていた。
美しい。
けれど、どこかおかしい。
成長が速すぎる。
実りが多すぎる。
生命の密度が濃すぎる。
凛は空気を吸った瞬間、顔をしかめた。
「魔力濃度が高い。生き物が成長するというより、無理やり“実らされてる”感じ」
メディアが畑の土を指で掬う。
「土に神杯の黒い根が混ざっている。生命力を集めて、豊穣神の権能に流し込んでいるわ」
エルキドゥは麦畑を見つめる。
「豊かだけど、苦しそうだ」
その言葉は、不思議なほど正確だった。
黄金の麦は風に揺れている。
だが、それは喜んでいるようには見えない。
実りすぎて、重さに耐えられず、穂が折れかけている。
豊穣。
命が満ちること。
だが、満ちすぎた命は、器を壊す。
イリヤは士郎の隣で、胸元を押さえていた。
「ここ、変な感じがする」
「苦しいか」
「少し。でも、嫌いじゃない」
桜がイリヤの横に立つ。
「無理そうなら言ってくださいね」
「うん。桜もね」
桜は少し驚いて、それから微笑んだ。
「はい」
温室の奥から、足音が聞こえた。
一人の少女が現れる。
橘花穂乃果。
栗色の髪を三つ編みにした、穏やかな雰囲気の少女。
年齢は士郎たちより少し下に見える。
白いワンピースの上に、古い農作業用の上着を羽織っている。
その右手には、麦の穂に似た神紋が浮かんでいた。
彼女の隣に、女神が立っていた。
豊穣神デメテル。
大地の色をした髪。
麦穂の冠。
深い緑の瞳。
手には黄金の穂束と、古い鎌。
彼女の存在は、他の神々とは違っていた。
雷帝のような威圧ではない。
終末神のような冷たさでもない。
愛神のような甘さでもない。
そこにあるのは、母なる大地の重さ。
優しさと厳しさが、同じ根から生えている神。
デメテルは士郎たちを見た。
「来ましたね。生きたいと願った少女と、その願いを支えようとする者たち」
イリヤが一歩前に出る。
士郎が反射的に止めようとして、やめた。
イリヤはデメテルを見る。
「あなたが、私を助けられる神様?」
デメテルは静かに答える。
「助けることはできます。ですが、何も失わずに命を固定することはできません」
イリヤの表情が固まる。
凛が鋭く言う。
「代償を要求するってこと?」
デメテルは首を横に振った。
「要求ではありません。理です」
彼女は足元の土に触れる。
「種は土を借りる。芽は水を飲む。花は光を受ける。実は誰かに食べられ、また土へ戻る。命は一つで完結しません」
メディアが低く言う。
「つまり、イリヤスフィールを安定させるには、命の循環へ組み込む必要がある」
「その通りです」
デメテルはイリヤを見る。
「あなたは今、死者でも生者でもない。神杯に拾われた命の欠片が、魔術で形を保っている状態。これを生者側へ根づかせるには、受け取る土が必要です」
イリヤは小さく問う。
「土って、何?」
「あなたを生かす世界との繋がり。食べること。眠ること。誰かと話すこと。怒ること。泣くこと。許せないものを抱えること。朝を待つこと。そういう一つ一つが、あなたの根になります」
イリヤは黙る。
その言葉は優しい。
けれど、重い。
ただ魔術で霊基を固定するだけでは足りない。
生きるとは、世界と繋がり続けること。
士郎は拳を握った。
それなら、イリヤはもう始めている。
おはようを言った。
おやすみを言った。
切嗣に怒った。
ご飯を食べた。
生きると言った。
それらが、彼女の根になる。
穂乃果が口を開いた。
「でも、神杯はそれを待ってくれません」
彼女の声は震えていた。
「神杯は、豊穣の力を使って命を一気に咲かせようとしています。死者も、生者も、願いも、全部を畑みたいにして……実らせて、刈り取る」
凛が顔をしかめる。
「最悪ね。生命再生じゃなくて、願いの大量栽培じゃない」
デメテルの瞳に怒りが宿る。
「豊穣とは、刈り取るためだけの力ではありません。待つ力です。育つ時間を守る力です。神杯はそれを知らない」
その時、地面が揺れた。
畑の中央から、黒い根が伸び上がる。
それは麦の形をしていた。
黒い麦。
神杯の根が、豊穣神の畑を侵食し、願いを実らせようとしている。
黒い麦の穂には、小さな光が宿っていた。
無数の願い。
生きたい。
戻りたい。
忘れたい。
やり直したい。
失いたくない。
増やしたい。
満たされたい。
それらが無理やり実へ変えられ、重く垂れ下がっている。
デメテルの表情が険しくなる。
「神杯が動きました」
穂乃果が一歩下がる。
「デメテル……!」
黒い麦畑が広がる。
それは冬木の霊脈から生命力を吸い上げていた。
このままでは街全体が、神杯の畑になる。
凛が叫ぶ。
「全員構えて! 黒い麦を直接燃やすのは危険! 中に願いの残滓が入ってる!」
メディアが続ける。
「刈るなら根元! 願いを壊さず、神杯への接続だけ断つ!」
士郎はイリヤを見る。
「下がってろ」
イリヤは首を横に振る。
「私もやる」
「でも」
「これは、私の生きたい願いも使われてるんでしょ」
イリヤは震えていた。
だが、逃げていない。
「だったら、見てるだけは嫌」
士郎は一瞬迷い、頷いた。
「分かった。無理はするな」
「うん」
◆
戦いは、麦畑の中で始まった。
黒い麦の穂が揺れるたび、願いの声が響く。
助けて。
戻して。
満たして。
生かして。
奪わないで。
置いていかないで。
それらは敵の声ではない。
誰かの願いだった。
だから、乱暴に斬れば壊れる。
セイバーは聖剣を抜かず、風王結界の不可視の刃で黒い麦の根元だけを正確に切り払う。
ランスロットはその隣で、刈り残しを黒剣で払う。
リチャードは豪快に動きたそうにしながらも、凛に怒鳴られたせいで慎重に剣を振っていた。
「繊細な刈り取りというのは難しいな!」
凛が叫ぶ。
「雑にやったら桜の時より大変なことになるわよ!」
「心得た!」
「本当に!?」
ジャンヌの旗が白い光を広げる。
願いの声が暴走しないよう、祈りの結界で包む。
エルキドゥの鎖は黒い麦の根を縛り、神杯への魔力経路を止める。
ギルガメッシュは不機嫌そうに宝具を選んでいた。
「この我に農作業まがいの真似をさせるとは」
エルキドゥが微笑む。
「丁寧にね、ギル」
「分かっている。宝を雑草刈りに使うなど屈辱だが、願いを砕くよりはましだ」
彼は細身の黄金剣を放ち、黒い麦の根だけを射抜く。
精度は完璧だった。
アーチャーもまた、矢で遠方の根を撃ち抜いていく。
士郎は投影した小さな鎌を手に、イリヤの前方の黒い麦を刈っていた。
剣ではない。
命を切るためではなく、願いを神杯から外すための鎌。
デメテルの鎌を完全に真似たものではない。
ただ、士郎が見た形の一部を写しただけの贋作。
だが、今はそれでいい。
イリヤは士郎の後ろで、凛とメディアの結界に守られながら、黒い麦の声を聞いていた。
顔色は悪い。
それでも、彼女は耳を塞がなかった。
「みんな……生きたいんだ」
イリヤが呟く。
桜が隣で頷く。
「はい」
「でも、全部は叶えられない」
桜は少しだけ目を伏せる。
「それでも、なかったことにはしない」
その言葉は、昨日の桜自身の答えだった。
イリヤは小さく頷く。
「なかったことには、しない」
デメテルは黄金の穂束を掲げた。
彼女の周囲に、柔らかな大地の光が広がる。
「神域展開」
畑全体が、女神の声に応じる。
「実りの母胎――エレウシス・ガイア」
黒い麦畑の下から、金色の土が広がった。
それは黒い麦を焼かない。
無理に抜かない。
ただ、神杯の根から願いを少しずつ離し、本来の土へ返そうとする。
しかし、神杯も抵抗した。
黒い麦の中心から巨大な穂が伸びる。
それは人の背丈を遥かに超え、空へ向かって膨らみ始めた。
中に、何かがいる。
凛が宝石板を見て叫ぶ。
「神杯が生命再生の器を作ってる! 願いの残滓を集めて、巨大な疑似生命体にする気よ!」
メディアが舌打ちする。
「さっきの人工神格器の応用ね。今度は鍛冶ではなく豊穣で器を育てるつもりか」
巨大な黒い穂が割れる。
中から現れたのは、人型の影だった。
子どもでも大人でもない。
男でも女でもない。
無数の願いが重なった、命の器。
顔はない。
だが、声はあった。
「生きたい」
その一言に、イリヤが震えた。
影は繰り返す。
「生きたい。戻りたい。失いたくない。満たされたい。終わりたくない」
それは怪物ではなかった。
願いの集合体。
神杯に畑として育てられた、無数の命への執着。
デメテルの顔が悲しみに曇る。
「神杯……命を、このように扱うのですか」
黒い器はイリヤへ手を伸ばした。
凛が叫ぶ。
「狙いはイリヤ! 彼女の“生きたい”願いを核にする気よ!」
黒い器の足元から、麦の根が一斉に伸びる。
士郎が前へ出る。
「させるか!」
鎌を投影し、根を刈る。
だが、数が多すぎる。
セイバーとランスロットが援護に入り、アーチャーとギルガメッシュが遠距離から撃ち落とす。
エルキドゥの鎖が黒い器を縛ろうとするが、器の中にある願いが多すぎて固定しきれない。
デメテルの神域が黒い畑を抑える。
それでも、器は進んでくる。
「生きたい」
その声を、誰も笑えなかった。
否定もできなかった。
イリヤは震えながら、一歩前へ出た。
士郎が振り返る。
「イリヤ!」
「大丈夫」
彼女はそう言った。
大丈夫ではない顔で。
それでも、自分で歩いた。
黒い器がイリヤを見る。
顔はない。
けれど、イリヤには分かった。
それは、自分と似ている。
終わりたくなくて。
戻りたくて。
生きたくて。
でも、自分だけでは形を保てない願い。
イリヤは小さく言った。
「私も、生きたいよ」
黒い器が揺れる。
「生きたい」
「うん。分かる」
イリヤは胸元を押さえる。
「でも、誰かの命を畑にしてまで生きたいわけじゃない」
黒い器の声が乱れる。
「終わりたくない」
「私も終わりたくない」
イリヤの目に涙が浮かぶ。
「でも、だからって全部を欲しがったら、また神杯の器になっちゃう」
デメテルが静かにイリヤを見る。
イリヤは続ける。
「私は、少しずつでいい。ご飯食べて、眠って、おはようって言って、たまに怒って、たまに泣いて……そうやって生きたい」
黒い器が震える。
それは理解できないようだった。
神杯は願いを一気に実らせようとする。
即座に満たそうとする。
待つことを知らない。
だからイリヤの「少しずつ」が、神杯には毒になる。
士郎はその言葉を聞いて、胸が熱くなった。
イリヤは、生きることを急がなくていいと知り始めている。
生きたいという願いを、神杯の燃料ではなく、自分の毎日に戻そうとしている。
デメテルが黄金の穂を差し出した。
「イリヤスフィール。あなたに豊穣の種を渡します」
イリヤは女神を見る。
「種?」
「命を固定する核です。けれど、これは完成された器ではありません。あなた自身が育てなければならない」
「育てる……」
「食べ、眠り、笑い、怒り、泣き、誰かに支えられ、誰かを支え、少しずつ根を張りなさい。その過程すべてが、あなたを生者へ近づける」
イリヤは震える手で、黄金の小さな種を受け取った。
それは温かかった。
心臓のように脈打っている。
神杯の黒い器が激しく震える。
イリヤが種を受け取ったことで、神杯は彼女の願いを核として奪えなくなりつつあった。
黒い器が暴走する。
無数の黒い麦が、イリヤへ向かって伸びる。
士郎が叫ぶ。
「全員、イリヤを守れ!」
セイバーの剣が光る。
ランスロットが黒剣を構える。
ジャンヌの旗が広がる。
凛とメディアが結界を張る。
ギルガメッシュの宝具が空を覆う。
エルキドゥの鎖が根を縛る。
桜とメドゥーサも前に出る。
桜は影を恐れない。
だから黒い麦の中にある暗い願いにも、飲まれなかった。
「イリヤさんは、急がなくていいんです」
桜が言う。
「生きるのは、誰かに追いつくことじゃないから」
メドゥーサが月の鎖で黒い根を払う。
「サクラの言う通りです」
イリヤは黄金の種を胸に抱いた。
そして、士郎を見る。
「お兄ちゃん」
「何だ!」
「私、ちゃんと生きる」
その言葉に、豊穣の種が光った。
デメテルの神域が強まる。
黄金の土が広がり、黒い麦を包んでいく。
刈り取るのではなく、鎮める。
無理に消すのではなく、願いを土へ返す。
黒い器が叫ぶ。
「生きたい」
イリヤは涙を流しながら言った。
「うん。生きたいよね」
彼女は種を握る。
「でも、神杯に育ててもらうんじゃない。私たちは、私たちで育つんだよ」
その言葉が、黒い器の中へ届いた。
無数の願いが、一瞬だけ静まる。
士郎は走った。
投影する。
今度は鎌ではない。
小さな鍬。
土を掘り返すための道具。
願いを刈り取るのではなく、神杯の根から外して土へ返すもの。
「投影、開始!」
士郎は黒い器の足元へ鍬を叩き込んだ。
神杯の根と、豊穣の土の境目が割れる。
凛とメディアの術式がそこへ流れ込む。
デメテルの黄金の穂が輝く。
ジャンヌの祈りが願いを包む。
桜の影が、黒い器の暴走する暗さを受け止める。
セイバーの聖剣が道を開き、ランスロットが黒い根を押さえ、アーチャーとギルガメッシュが神杯の支点を撃ち抜く。
エルキドゥの鎖が黒い器を縛る。
リチャードとイスカンダルが左右から突撃し、黒い麦畑の外縁を断つ。
デメテルが鎌を掲げた。
「豊穣は、奪うためにあるのではない」
黄金の鎌が振るわれる。
「実りは、次の命へ渡すためにある」
黒い器と神杯を繋ぐ根が断ち切られた。
黒い器は崩れない。
代わりに、無数の小さな光へ分かれていく。
それぞれの願いが、神杯の畑から解放され、土へ還る。
消えたのではない。
眠ったのだ。
いつか、別の形で芽吹くために。
◆
戦いが終わった後、旧農業試験場には静かな風が吹いていた。
黒い麦は消え、黄金の麦も穏やかな量へ戻っている。
過剰な実りではない。
ちゃんと育ち、ちゃんと頭を垂れる実り。
デメテルはイリヤの前に立った。
「豊穣の種は、あなたの中で根づき始めています」
イリヤは胸元を押さえる。
そこには、淡い金色の光が宿っていた。
以前のような神杯の黒ではない。
温かく、柔らかい光。
凛が宝石板を確認し、息を呑んだ。
「イリヤの霊基安定率、上昇……すごい。これなら、短時間なら結界外でも普通に活動できる」
メディアも頷く。
「まだ完全ではないけれど、大きな前進ね。豊穣の種が仮初めの霊基を生者側へ引き寄せている」
イリヤは士郎を見る。
「私、ちょっと普通に近づいた?」
士郎は笑った。
「ああ。かなり」
イリヤは嬉しそうに笑った。
だが、その笑顔の奥には、ほんの少しの寂しさもある。
「でも、全部戻ったわけじゃないんだよね」
デメテルが静かに答える。
「そうです。失われた時間は戻りません。死んだ事実も消えません。ですが、その上に新しい時間を育てることはできます」
イリヤはゆっくり頷いた。
「そっか」
彼女は空を見上げた。
「じゃあ、育てる」
その言葉は小さかった。
けれど、確かな決意だった。
穂乃果がほっとしたように微笑んだ。
「よかった」
凛は彼女を見る。
「あなたは、どうして神杯戦争に?」
穂乃果は少し迷ってから答えた。
「私は、家族が残した畑を守りたかったんです。もう誰も見向きもしない場所だったけど、私には大事で。神杯は言いました。失ったものも、枯れたものも、全部実らせてあげるって」
彼女は畑を見る。
「でも、違いました。無理やり実らせたものは、重すぎて折れるんです」
デメテルは静かに頷いた。
「穂乃果。あなたも学びましたね」
「はい」
穂乃果は神紋を見つめる。
「私は、急がず育てます。畑も、自分の願いも」
デメテルは微笑んだ。
その笑みは、母のようでもあり、大地そのもののようでもあった。
◆
神杯の外殻に、また亀裂が走った。
豊穣の層が開かれた。
神杯はイリヤの生きたい願いを畑にしようとした。
だが、イリヤはその願いを自分の時間へ戻した。
豊穣の種が彼女の中に根づいたことで、神杯は彼女を再び器として奪うことが難しくなった。
それは大きな勝利だった。
だが同時に、神杯はさらに奥の層を開く。
凛の宝石板に、次の反応が浮かぶ。
「狩猟神……アルテミス」
士郎が振り返る。
「狩猟?」
凛の表情が険しくなる。
「標的化の層。たぶん、次は誰かが“狙われる”」
アーチャーが静かに言う。
「豊穣の次に狩猟か。育った命を狩るというわけだ」
メディアは顔をしかめる。
「悪趣味ね。本当に」
桜がイリヤの肩に手を置く。
イリヤは胸元の種の光を見つめている。
「狙われるの、私かな」
凛はすぐには答えなかった。
だが、宝石板は冷酷だった。
標的反応。
中心は二つ。
一つは豊穣の種を宿したイリヤ。
もう一つは、神杯の核へ近づきすぎた衛宮士郎。
士郎は静かに息を吐いた。
「俺とイリヤか」
アーチャーが弓を作る。
「予想通りだな。神杯は鍵を潰しに来る」
アルトリアが剣を構える。
「守ります」
ランスロットも頷く。
「王の剣に誓って」
ギルガメッシュは不快そうに空を見上げる。
「狩人風情が我の視界の中で獲物を決めるか」
エルキドゥは静かに鎖を伸ばした。
「次は追われる戦いになるね」
デメテルはイリヤへ最後に言った。
「種は、守られるだけでは育ちません。ですが、守られずに育つ命もありません。受け取りなさい。差し出しなさい。ゆっくり根を張りなさい」
イリヤは頷いた。
「ありがとう、デメテル」
デメテルは微笑んだ。
「よく生きなさい、白い少女」
◆
衛宮邸へ戻った後、イリヤは珍しく自分から台所へ入った。
士郎が驚いて振り返る。
「イリヤ?」
「お手伝いする」
「休んでていいぞ」
「やだ」
イリヤは小さく笑う。
「生きるには、ご飯がいるんでしょ。だったら、作る方も少し覚えたい」
士郎は少しだけ黙った。
それから、エプロンを一枚渡した。
「じゃあ、味噌汁の豆腐を切るところからな」
「うん」
凛が居間から顔を出す。
「士郎、イリヤに包丁持たせるならちゃんと見てなさいよ」
「分かってる」
桜も微笑みながら台所へ入る。
「私も手伝います」
イリヤは少し得意げに言った。
「今日は私も作る」
桜は優しく頷いた。
「はい。一緒に作りましょう」
アルターエゴが台所の入口で観察している。
「料理は生命維持行為であり、交流行為でもある?」
士郎は笑う。
「だいたい合ってる」
イリヤは豆腐を慎重に切りながら、小さく言った。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「私、明日も食べたい」
士郎の手が止まった。
イリヤは続ける。
「明後日も。その次も。たぶん、たまに嫌いなものも出るんだろうけど」
「ゴーヤは出さないようにする」
「それは助かる」
イリヤは笑った。
士郎も笑った。
その笑い声は、黒い神杯の下にあるにはあまりにも小さい。
けれど、確かに生きている音だった。
◆
夜。
冬木の森の奥で、一柱の女神が弓を引いた。
銀の狩衣。
月光の矢。
獣のように澄んだ瞳。
狩猟神アルテミス。
彼女の隣には、草薙ミオという少女が立っている。
ミオは無表情に近い顔で、遠くの衛宮邸を見ていた。
アルテミスは静かに言う。
「標的を確認」
月光の矢先に、二つの光が映る。
衛宮士郎。
イリヤスフィール。
神杯の鍵と、豊穣の種。
「狩りを始める」
矢が放たれた。
それはまだ誰にも届かない。
だが、冬木の夜そのものが、獲物を定めた。
神杯戦争、第十五夜。
イリヤは豊穣の種を受け取り、少しずつ生きることを選んだ。
命は一瞬で完成するものではない。
食べて、眠って、怒って、泣いて、笑って、また朝を迎えるもの。
だが、育った命を狙う狩人が、すでに弓を引いている。
第十六話へ続く。
コメント
1件
わあ、第15話お疲れさまです! もう、今回の話は心に染みました……。デメテルがイリヤに「種」を渡す場面、すごく優しくて、でも重みがあって、神様の言葉一つひとつが胸に残りました。「命は一瞬で完成するものじゃない」って、本当にその通りだなって思って。 イリヤが「少しずつでいい」って自分の願いを選び直すところ、めっちゃグッときました。「食べる」「寝る」「怒る」「泣く」――そういう日常の積み重ねが“生きる”ってことなんだなって教えられた気がします。 あと、ギルが卵焼き食べて「悪くはない」とか言い出すの、ツボでした(笑)。「それはかなり気に入った時の言い方」ってエルキドゥに言われてるのも好き。 次は狩猟神アルテミスが動き出すとか、もうドキドキが止まらないです……!士郎とイリヤ、どうやって切り抜けるんだろう。 続き、めちゃくちゃ楽しみにしてます!✨