テラーノベル
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14歳の頃、偶然つけたテレビの向こうで華麗に舞う、美しい人に魅せられた。胸の内に燻る衝動を無視して生きていくことはできないと悟り、小遣いを握り締めてリンクに走る。しかし、憧れて飛び込んだ先の世界で司の前に立ちはだかったのは、年齢の壁と、高額な費用という難題。スケートに出会うのが遅すぎたことも、子どもの自分では費用を工面できないことも、頭ではわかっていて、それでもどうしても諦められなくて。結局、なけなしの小遣いの出番はなく、冷たくあしらわれて帰路につくことも少なくなかった。
高くそびえる壁に打ちのめされながらも、氷に焦がれる想いに突き動かされて、高校に入学した後はバイトに明け暮れる日々が続いた。同級生よりも恵まれた体格、並外れた運動神経、人好きのする性格から、ありがたいことに友人に恵まれ、運動部からは助っ人や入部を頼む声が絶えなかった。
「お前もやってみろよ。絶対ハマるからさ」
好きなスポーツに打ち込み、心から楽しいと言わんばかりの笑顔で、無邪気に勧めてくる友人たち。しかし、何を言われても、何度誘われても、司は苦笑してふるりと首を振る。
──だって、それはフィギュアスケートじゃないから。そこに氷はないから。俺は”そっち”には行けないんだ。
声に出せない本音を胸中で零し、適当な言い訳で誘いを断った。
***
いくつもバイトを掛け持ちして、週一でスケートの団体教室に通い、教本や解説動画を漁る日々が数か月過ぎた頃。スケート教室の帰りに、日没後も続く暑さに辟易しながら、人気のない公園で日課の一つのイメトレをしていた時。それは目の前に現れた。
全身を黒に包み、肺が重くなるような圧を放ち、平坦な声で話しかけてきた男。簡単な問答につい口を滑らせた司に興味を抱いたのか、サングラスを外して金の双眸を露わにする。不審者に違いないと警戒していた相手は、自身の憧れの存在──夜鷹純その人だった。
氷の上にいたいか。選手になりたいか。
脈絡もなく投げかけられた問に、司は目を見て頷いた。
司の答えを受け、夜鷹はついてこいと告げると、背を向けて歩き出す。だが、逡巡する足は、その場に根を生やしたように動かない。遠ざかる背中がじわりと滲み出す。理性と本能に挟まれて声も出ない司を救ったのは、意図せずそうさせた張本人だった。
「司」
たった一言、名を呼ばれただけ。理由も行き先も知らされず、必要な言葉は全くといっていいほど足りない。それでも、初めて会った時よりも幾分か和らいだように感じる声は、おいで、と呼んでくれた。もちろん、夜鷹は名を口にしただけで、自分にとって都合のいい解釈だとわかっている。それでも、きっと、あの人はこう言ってくれたのだ。
──君が望むなら、こっちへおいで。
再び向けられた背を見失わないように、司は全力で駆け出した。
それからは、まさしく緊張と驚愕の連続で、司は赤くなったり青くなったりと大忙しだった。
初めて乗る高級車に揺られ、降りた先で出会ったのは、同じく憧れの人である鴗鳥慎一郎。司は言われるがままスケート靴を履き、窓から差し込む月明かりが照らす銀盤に、一人ぼっちで立つ。そこで夜鷹に命じられたのは、公園で見せた拙い舞の再演だった。決して憧れの人たちに見せられるものではない。
だが、蒼白な顔で狼狽する司を端的な言葉で制した夜鷹は、見せて、とだけ告げた。
続くはずだった言葉は、喉の奥で消えてしまった。これ以上は意味がないとわかったからだ。夜鷹がそれを望むなら、自分は応えたい。応えられる自分でありたい。狼狽えて変に上がった息も、ばくばくと胸を内から叩く鼓動も、すうっと穏やかになっていく。緊張も恐怖も、ここにはいらない。演技の邪魔だ。今から俺は、あの人を追うのだから。
胸に手を当て、かつて網膜を焼かれた眩しい姿を、瞼の裏に思い浮かべる。大きく深呼吸を繰り返すと、息を吸った瞬間に駆け出した。
体の隅々まで刷り込ませた模倣は、彼の人に重なり、一つになる。しかし、宇宙を駆ける星のような速さで進んでいく残像に、司は振り落とされそうになる。氷の飛沫すら鮮明に映し出す影は、こちらを振り返ることなく、あっという間に遠ざかってしまう。圧倒的な差を見せつけられ、思わず歯噛みした司は、さらに深く曲げた膝で速度を上げて追い縋る。
最初のジャンプ。脳内に浮かぶ、怪我のリスクと、挑戦への欲望。だが、天秤は驚くほどあっけなく後者に傾いた。悠々と滑っていた夜鷹の姿を脳裏に浮かべ、自身の体がなぞるべき軌跡を瞬時に描く。意を決して飛び上がった先には、初めて目にする光景が広がっていた。
──見える。
スローモーションの視界に映るのは、真っ白の銀盤と、リンクサイドでこちらを見守る二人と、自分が作り出した氷の飛沫。それが、二周も。
危なげなく着氷した司は、ぶっつけ本番で成功した二回転ジャンプに呆然とする。ふと向けた視線の先には、驚きに満ちた顔の鴗鳥と、腕組みをした無表情の夜鷹がいる。ばちりと目が合う。すると、絶対王者と名高い彼が、ほんの少し笑ったような気がした。
ぶわりと込み上げた熱に浮かされるように、司は氷上を舞う。リンクに一人ぼっちで立つ心細さを知り、一人きりで思うまま滑る自由を知った。気温一桁の凍てつく風は、まるで司を祝福するかのように頬を撫でていく。こんな幸せを一度でも味わってしまっては、もう戻れない。氷と刃が奏でる世界に溺れて気が狂いそうだ。恍惚としながら滑り続けた司は、やがてリンクの中央で天を仰ぎ、閉幕を告げた。
リンクサイドに戻った司は、鴗鳥からの手放しの賞賛に感激して涙を滲ませる。しかし、鴗鳥につられて振り向いた先にあった、獰猛な光を湛えた金色の瞳に凍りついた。まるで獲物を捕らえた猛禽類のように鋭く、見る者を射抜き、畏怖させる。
無感情な声が紡いだのは、司を鴗鳥が所属するクラブに入れること。次いで、練習時間を確保するため、学校と家を移すこと。当の本人に何の断りもなく進む話に、司は困惑するしかない。確定事項だと言わんばかりに話す親友を窘めるべく、鴗鳥が司の意思を聞くべきだと返すも、必要ないとばっさり切り捨てられた。
ようやく少年に向き直った親友の大人げない言動に、鴗鳥は気を揉みつつ傍らで見守る。選手になりたい、氷の上で生きていきたいと確かに言ったが、そんなお金はどこにもない。怯えながらも必死に答える司に、夜鷹は呆れたように肩を落とした。
費用は全て出す。コーチは自分が引き受ける。ただの気まぐれだ。
そう返す夜鷹に、思わず眉を寄せて訝しむ。さっき会ったばかりの、どこにでもいる平凡な子どもに、どうしてそこまでしてくれるのだろう。資金も、経験も、運もないちっぽけな存在の自分に、何を感じ取ってくれたのだろう。
しかし、疑問に満ちた榛色の瞳に気づいているはずの夜鷹は、司との話は済んだとばかりに視線を逸らした。そばで成り行きを見守っていた鴗鳥に振り向くと、君も見たいだろう、と誘いかけた。
「この子がオリンピックのリンクで滑るところ」
さも当然のように告げられた司の未来。それを、よりにもよって、いまだに現役続行する鴗鳥に投げつけるなんて。衝撃のあまり、司は戦慄し、鴗鳥は声を失った。しかし、鴗鳥は幾許か思考した後、ぎらついた光を乗せた目で司を見据えた。
「司くんと大会で戦える日が楽しみです」
ご冗談を、などと口が裂けても言えないのは、そこに焦げ付くような熱が灯されていたから。二対の目は、本気だった。いくつもの激闘を勝ち抜いてきた彼らは、スケートを始めて一年の自分を支え、期待し、導くと言ってくれた。この先、司の辿るであろう道筋に思いを馳せ、疑いようのないほどに信じている。
夢のような時間は、徐々に現実に変わっていく。もしも、彼らの言葉を鵜呑みにしてもいいなら。分不相応な願いを口にしても許されるならば。震える唇を叱咤して、必死に言の葉を紡ぐ。
「…え、と。あの。俺はこれからも滑ってもいいんですか?」
「うん。いいよ」
「毎日、ずっと、ですか…?」
「そう」
不安と混乱に満ちた声は、みっともなく掠れて震える。だが、夜鷹は宥めも励ましもせず、端的な言葉で肯定するだけ。
──それがどれほど嬉しいか、なんて、あなたは知りもしないでしょうね。
屋内にあるリンクの上に、いくつもの雨粒が落ちていく。固く冷たい氷をわずかに溶かすぬるい水滴は、自身の目から溢れているのだと遅れて気づいた。
だって、自分はずっと暗闇にいたから。諦めきれず、みっともなく氷にしがみついて、欲しいと駄々をこねていた。光すら届かない閉じられた世界で、網膜に焼き付いた姿を浮かべて、一人で足掻いていたのだ。
絶望に膝を着きそうな日々を送る中、突然、その人が目の前に現れたから。憧れの人が、スケートの神様が、手を差し出してくれた。ただ一人、何にもない俺が滑ることを許してくれたから。
氷の世界を知って、けれど絶えず奥底に押し留めてきた思いが、次々と溢れていく。
「お、俺は…!氷の上で生きていきたい!たくさん滑るために、スケートをするために生まれてきたんだねって、言われる人になりたい!」
誰にも告げたことのない本心は、静謐なリンクに響き渡る。どれだけ無謀で身の程知らずな夢を語っているか、自分が一番わかっているつもりだ。しかし、夜鷹も鴗鳥も、呆れも嗤いもせずにその願いを聞き届けてくれた。
泣きじゃくり、引きつった息を繰り返す司に、夜鷹がするりと歩み寄る。溢れては流れ落ちる涙をじっと眺めると、片方の手袋を外し、ゆっくりと手を伸ばしてきた。濡れて熱を持つ目尻にたどり着き、わずかに肌を掠めた指先は、ひやりとしている。
あぁ、そんなところも神様みたい、と呆けた頭でぼんやりと思う。
息を呑むほどの優しい手つきで、大粒の涙を一つ掬った夜鷹は、ゆうるりと微笑む。
「君を世界に見せてあげる」
それはまさしく、神から少年に授けられた啓示だった。
司が滝のように涙を流すものだから、タオルをあてがう鴗鳥は、泣きすぎて干からびてしまうのではないかと案じた。
「貸し靴だけど、このまま滑っていくでしょ」
しかし、当然のように話しかけてきた夜鷹によって、涙は一瞬で引っ込んだ。
司はスケート教室を終えたらまっすぐ帰るはずだったのに、家に連絡も入れず、かなりの時間が過ぎてしまった。ご家族が心配しているはずだから、すぐに家に帰してあげよう、と鴗鳥が至極もっともな主張を述べる。夜鷹はそれに不満を隠さず眉を顰めたが、時計を見て青ざめた司に、ため息とともに承諾の意を示した。
家まで送り届けるという鴗鳥の申出に、司は恐縮して辞退する。だが、携帯を持たない自分が、初めて訪れたリンクから自宅まで迷わず行けるだろうか。はたと思い直し、苦渋に満ちた顔で呻くこと数分。やがて、観念した司が申出を受け入れてくれたので、鴗鳥は安堵の息を吐く。
余談だが、直角に腰を折る彼の頭を上げさせるのに数分かかった。また、無責任に彼を連れてきた夜鷹は、司が帰ると決まってから我関せずといった態度で氷上を滑っていた。
鴗鳥はあらかじめ受付から持ってきていたクラブの紹介カードを懐から取り出した。裏面の余白に、自身の直通の電話番号と、夜鷹に繋がる唯一の連絡先を記して、司に手渡す。恐縮しつつ受け取った彼は、家宝にしますと鼻息荒く口にしたので、最近の若い子は面白いなぁと微笑んだ。
リンクを去る前に、司が夜鷹にお礼と別れの挨拶を矢継ぎ早に述べながら、最敬礼を繰り返す。すると、晴れて教え子となった少年を無表情で見ていた師は一言、
「また明日ね」
と返すものだから、司どころか自分まで固まってしまった。
明日、彼は何をするつもりなんだろう。もしかして、明日もリンクに来いと言っているのか。それよりもやるべきことが山積みじゃないか。順序とか段取りとかあるだろう。まずは、司を家まで無事に送り届けて、親御様に事情を説明して謝罪しなければならない。それから、さりげなくスケートについて言及し、彼が意思を示しやすい空気を作る。これから司が選手として走り出せるよう、支障を除く手助けをしなければ。
気を取り直すように息を吐いた鴗鳥は、いまだ呆然と立ち尽くす司の背を押し、リンクを後にした。
***
それから怒涛の日々が始まった。
まず、当たり前だが、司の両親の説得に難航した。
夜遅くに帰宅した我が子を玄関で出迎えたら、テレビでしかお目にかかれないスケート選手の鴗鳥慎一郎その人を伴っていたのだから。唐突に現れた雲の上の存在から平身低頭して謝罪される身にもなってほしい。隣で同じく頭を下げて反省の意を示していた司は、内心両親に同情した。それどころか、息子の口から、選手として、スケーターとして生きていきたいのだと初めて告げられたのだ。両親の気持ちは察するに余りある。
鴗鳥は司と同様にクラブの紹介カードを両親に手渡すと、ひとまず本日はお詫びとご挨拶だけで、と家にも上がらずその場を辞する。穏やかな物腰と誠実な人柄、そしてその奥に秘められた揺るぎない意志にあてられて、嵐が去った後も両親はしばし立ち竦んでいた。遅い時間まで外を出歩いたことへの𠮟責も、夢を叶えたいのだという主張への反論もなく、とにかく寝ましょうとだけ言われる。司も同感だったので、手早く入浴を済ませて床に就いた。
翌日、リンクから司の自宅に、都合のいい日に改めてご挨拶に伺いたいと連絡が入った。司は授業が終わると同時に学校を飛び出し、両親とともに家中を掃除する。
そして迎えた約束の時間に訪れたのは、鴗鳥、鴗鳥も師事するクラブのヘッドコーチ、そして夜鷹だった。あの夜鷹純と鴗鳥慎一郎と強豪クラブのヘッドコーチが、一般庶民の狭苦しい我が家にいる。受け入れがたい現実に吐きそうになりながら、司は彼らの隣に並んだ。大人たちの真剣な話し合いに、固唾を呑んで耳を傾け、時折寄越される質問に力強く答える。
なお、夜鷹は初めに名乗っただけで、あとは退屈そうに黙していた。コーチを引き受けたはずの男の態度に、両親も面食らったようだが、次第に嫌でも慣れたのか、夜鷹に目を向けることはなくなった。この人はいつでもどこでも自分を貫くんだな、と司は乾いた笑みを浮かべる。
両親は最後まで話を聞いてくれたものの、一度の会合では納得できず、首を縦に振らなかった。しかし、ヘッドコーチと、事情を聞かされたアシスタントコーチによる度重なる訪問と粘り強い説得に、ついに折れて認めてくれた。
嬉しくてぼろぼろに泣きながら電話をかけると、気だるそうに応じた夜鷹は「そう」とだけ返した。一方、続いて連絡した鴗鳥とヘッドコーチには「本当によかったね」「とりあえず落ち着いて」と繰り返された。早くも夜鷹の言動にあまり驚かなくなった自身に、司はついぞ気づかなかった。
ようやく両親の理解を得られたと思えば、次は転校と引っ越しの準備に追われた。
突如決まった転校に、教師も友人も目を白黒させたが、最後は温かく送り出してくれた。入学して数か月だけ通った学び舎を去り、リンクの近くの高校に移る。実績のない司はスポーツ科に編入できないため、成績や出席日数の制限がゆるい学校を選んだ。異例の時期にやってきた司に、新たに出会う教師や同級生は驚きを隠せないが、その朗らかな笑みと日向のような温もりにすぐに絆されていった。
同時期に、司はリンクから徒歩20分ほどの距離にあるマンションに居を移した。一生縁はないだろうと思っていた高層マンションをふもとから見上げた後、夜鷹の後を追い、広々としたリビングルームに足を踏み入れる。
「ここが君の家だよ」
彼の名義で新たに借りたという部屋は、ソファや大型テレビなど高価で品のいい調度品が揃っている。司が私物を詰め込んだ段ボール箱は、私室となる別の部屋に積んであるそうだ。それも、新品のスケート靴や練習着など、これからスケートをするのに不可欠なものを詰めた箱とともに。
これまで自分は、両親と兄と二人の弟という6人で、ぎゅうぎゅうだけど賑やかな暮らしを送っていた。自分だけの部屋なんて贅沢はできなかったし、一人暮らしだって初めてだ。不安に揺れる眼差しを受け、夜鷹は言葉を付け足す。
「専属契約の調理師とハウスキーパーがいるから、生活は問題ないでしょ。君はスケートだけに集中して」
淡々と要件だけ述べる声も、つまらなそうに部屋を眺める瞳も、相変わらず凪いでいる。司が喜ぶだろうか、それとも驚くだろうか、なんて微塵も考えていないのだろう。
ぽんと軽々しく与えられるものの価値と大きさに、司は唇を噛み締める。こんなに幸せでいいのだろうか。いつか手酷い罰でも食らうのではないか。人は幸福を得ると、同時に恐怖も抱くのだという。失うことを恐れて怯えるあまり、あえてそれに手を伸ばさないという選択もあるそうだ。
夜鷹の問に、自分は答えた。だから今、ここにいる。それでも、それらは自分で掴み取ったものではないから、実感が湧かず浮足立ってしまう。目まぐるしく移り変わる現実に、心は全く追いつかない。
「…何から何まで、本当にありがとうございます。俺、精一杯頑張ります」
弱々しく震える声にありったけの感謝を込めて、司は深々と頭を下げる。間を置いて返されたのは、ただ一言。
「靴が足に合ってるか見たいから、持ってきて」
彼らしい振舞いに、司はふはりと笑みを零した。
翌日。さっそくクラブの一員となった司は、クラブメイトの前で元気よく挨拶した。
幼少期から互いに切磋琢磨する子どもたちは、年上の少年の登場に目を丸くする。よそから移籍してきたのではなく、初めてクラブに所属するのだという。聞けば、スケートを始めたのは14歳で、週一で一年間教室に通った経験しかない。出遅れもいいところだ。
しかし、幼いながらも選手として誇りと自負がある彼らは、それ以上余計なことは考えず、快く受け入れた。スケーターとして先を走る先輩であり、後に友人であり、競い合う戦友となるであろう彼らの笑顔に司は滂沱する。驚きの声とともにかわいらしいタオルが大量に押し付けられたのは言うまでもない。
氷上で戦う子どもたちと異なり、子を一番に想う保護者の一部は訝しんだ。ヘッドコーチが直々に面倒を見るうえ、自身の練習に忙しい現役選手の鴗鳥まで目をかけている。何やら訳知り顔のアシスタントコーチまで、入ったばかりで右往左往する彼を手厚くサポートしている。いくら金を積んだのか、あるいはどんな伝手を頼ったのか。あらぬ疑念を多分に含んだ大人の目は、たった数日で伏せられるようになる。
司は同じ時間にレッスンを受ける子どもたちとともに、念入りに準備運動を済ませる。その後、ぴかぴかのスケート靴に足を包み、靴と氷の感触を確かめる。赤らむ頬と滲む涙、打ち震える体と、全身で喜びを表す彼に周囲は眦を下げる。
まずは体を慣らすためリンクを一周してきなさい、というコーチの指示に頷き、司は一歩踏み出す。余計な力がどこにも入っていない、エッジが深く倒された、大きな一歩。たったそれだけで、周囲は息を呑んだ。
だが、衝撃を消化する間もなく、司は瞬く間に彼方へ駆け出していく。一度足で押し出すだけで、凄まじい速度で風を切り、リンクの端へたどり着く。そのまま壁沿いにきれいに曲がると、躊躇うことなく先へと進んでいく。目を奪われた者はみな、壁さえなければどこまでも飛んで行ってしまえそうだ、と錯覚する。そして、そんな訳はないとすぐさま自嘲する。一方、司は戻った先で全員が沈黙しているので、さっそく何かやらかしたのかと慌てふためき、我に返ったコーチに宥められた。
地味で退屈な練習でも飽きずに何時間も繰り返し、氷に乗れるのが嬉しくて仕方がないという表情で、異常な速度で上達していく司を前に、心ない声は消えていった。あれは別格だ、恐るべき才能を秘めた存在だ、だから比べること自体が無駄なのだ。言葉にせずとも伝わる共通認識に、嫉妬は諦観に変わっていったからだ。
加えて、直情型の司の突拍子もない言動に、周囲は逐一腰を抜かしたが、日常的に目にするうちに慣らされてしまったというのもある。
例を挙げればきりがないが、レッスンがある日は必ずと言っていいほど目にする光景がある。彼は授業が終わると、学校からマンションを経由してリンクまで全力で走ってくるので、全身汗だくで現れるのだ。それも、スケート靴や替えの練習着といった重くてかさばるものを詰め込んだ鞄を背負い、滝に打たれたような量の汗を滴らせて。すわ事件かと血相を変えた大人が取り囲み、慌てた司から事情を聴き出すと、みな力が抜けたように床にへたり込んだのは忘れられない。
「夏だから暑いし、俺平熱高いんですよ」
とあっけらかんと話す少年に、そうですかと返すしかなかった。周囲がどれだけ注意しても毎度輝く笑顔で走ってくるから、とにかく怪我だけはするな、と口酸っぱく言い聞かせている。
リンクにかける執念ってこわい。一心に氷を求める姿は、図らずも子どもたちの意識を高め、触発されたコーチ陣はさらに指導に熱が入った。
深夜に密やかに行われる夜鷹とのレッスンにも、司は必死に食らいついた。
「見た?やって」
「君は目がいいから、口で言うより見せた方が早いよ」
「うん、悪くないね。なら、次はこれやって」
次々と無理難題を出しては、脳を休める暇すら与えてくれない。手本を見せて、司が幾度か繰り返せば、必ず身につけられると考えているらしい。そんな無茶な、と口から飛び出そうになる言葉は、鋭い視線に黙殺される。
彼に見えていて、俺に見えないものは、たくさんある。けれど、師となってくれた憧れの人は、俺ができると信じてくれている。だから、何度氷に叩きつけられても、どれだけ息が苦しくても、また躊躇いなく飛び上がるのだ。
夜鷹のスケートを間近で拝めることも、彼が自分を見てくれることも、逃せば二度とない奇跡なのだから。
司は新たな環境に飛び込み、かつての日常から程遠い激動の日々を過ごしたが、周囲も驚くほどに順調に腕を上げていた。
しかし、彼がクラブに入って二週間ほど過ぎた頃。目が眩むような笑顔に、次第に影が差していく。
司はレッスン終わりに、コーチと帰宅するクラブメイトに挨拶を済ませると、休憩もそこそこにリンクに戻っていく。次の利用時間の枠に移るぎりぎりまで、今日指摘された課題を振り返り、個人練習に徹する。
ここ数日で、屈託のない笑顔を拝む回数は目に見えて減ったし、人目のない時は思い悩む表情をするようになった。練習は真剣に取り組んでいるが、鬼気迫るような圧すら感じる。今だって、成長期の体に負担をかけぬよう定められた練習量を、明らかに超えている。
眉を寄せた鴗鳥は、同様に顔をしかめていたヘッドコーチと目配せする。本来はヘッドコーチの役目だが、今回は指導する立場の人間よりも、司や夜鷹と親交のある鴗鳥の方が適任かもしれない。肩をすくめたコーチに無言で頷き、鴗鳥は司に声をかけた。
鴗鳥が戸惑う司を連れて立ち入ったのは、リンクの奥まった場所にある会議室だった。主にリンクのスタッフやコーチによる打ち合わせ、また保護者との面談であえてロビー以外の場所を選ぶ際に使われる部屋だ。話には聞いてたが、足を踏み入れるのは初めてだ。きょろきょろと見回す彼に席を勧め、自分もその隣に腰を下ろす。
多忙な鴗鳥の時間を割いてもらって申し訳ない、と恐縮する司に苦笑し、まずは世間話で緊張を和らげてみる。新居のこと、生活のこと、学校のこと。出迎えるコンシェルジュも広すぎる部屋もまだ慣れないが、ベランダから一望できる街並みがきれいで、朝も夜も欠かさず眺めているそうだ。アスリートの栄養管理もする調理師が提供する食事は、薄味ながら繊細で奥行きのある味で、定番の家庭料理から飲食店で見るような洒落たメニューまで幅広く選べるらしい。高校の授業は中学より難しいけれど、予習と復習を欠かさなければ進級は問題ないと笑った。
新たな日常を楽しそうに話す司に目を細めた鴗鳥は、一息置いて、ぐっと表情を引き締める。
「──司くん。私がお声がけした理由は、わかっていますね」
「…はい。オーバーワーク、ですよね」
途端にしゅんとした顔で俯く。さすがに本人も自覚はあったようだが、真面目で責任感のある彼が自ら逸脱した行為に走ったことに疑念が湧く。
「訳を伺ってもいいですか」
「……あの、俺にこんなこと言う権利はないって、わかってるんですが。夜鷹さんには、内緒にしてくれますか」
「純くんには言えないことですか?」
「その、き、嫌われたくないので」
嫌う?司を、夜鷹が?
他人に興味を抱かないあの夜鷹が、ここまで手を尽くしていることこそ、すでに異常事態だというのに。彼が司を連れてきた夜、やっと見つけたと言わんばかりに、滅多に見せない笑みを浮かべていた。そんな彼が、司が嫌うなんて、天地がひっくり返ってもありえない。
「純くんは君を選び、ここまで連れてきました。昔からの付き合いですが、今更彼が君にそのような感情を持つとは思えません。どうしてそう思うのですか」
鴗鳥は盛大に眉をひそめたが、力なく俯く司は気づかない。
「子どもの頃から氷の上で戦ってきた鴗鳥さんに、こんなこと言ったら、笑われるかもしれませんが。──俺、こわいんです。もし、夜鷹さんに飽きられたら。全然上手くなれなくて、夜鷹さんの理想に届かなかったらって」
膝の上で組んでは離す手遊びに興じていた手は、指が白くなるまで握り込まれた。爪が皮膚を裂いてしまうのではないか、と鴗鳥は案じながら、返す言葉を慎重に選ぶ。
「君は十分すぎるほどに上達しています。君もわかっていると思いますが、通常ではありえない速度で、です。なぜそんなに焦っているのですか」
「だって、あの人は言いました!俺を拾ったのは、ただの気まぐれだって…!」
司が叫んだ拍子に涙が散る。俯いたままの顔が見えず気がつかなかったが、どうやら泣くほど思い詰めていたらしい。そして、鴗鳥は失礼だと自責しながら、開いた口が塞がらなかった。
この子は、まだあんな戯言を真に受けていたのか。答えに窮して、咄嗟に紡いだ、建前にもならない言葉。言葉足らずで、口下手で、良くも悪くも嘘が苦手な夜鷹が捻りだした言い訳。傍らで聞かされた鴗鳥は、すぐにそれは本心ではないと察したが、司はそうは捉えなかったようだ。
「司くん。純くんが何を考えているか、正直私にも測れないところがあります。だから、君が不安に思うなら、その気持ちごと純くんに伝えるべきです」
「えッ…!?そ、そんなことしたら、本当に見限られちゃいますよ!!」
「ありえません。絶対に」
鴗鳥の予想外の助言を受けて、司はパニックに陥る。しかし、確信をもって断言する様に、思わず前のめりになった体を落ち着かせる。
「ほ、本当に、大丈夫でしょうか…?」
「もちろんです。君は純くんのお気に入りですから。ありえないと思いますが、万が一、彼がすぐに飽きて見捨てるような甲斐性なしだったら──」
夜鷹のお気に入り!?と信じがたい発言に勢いよく振り向いた司は、鴗鳥らしからぬ悪戯っぽい微笑みを浴びて、脳が破壊された。
「私のところに来てください。必ず、君の支えになりますよ」
あの後、鴗鳥には、正直に夜鷹に説明して数日間は練習量を減らすように、と念を押された。その場は素直に頷いた司だが、いざ夜鷹を前にすると、何も言えなくなってしまう。
貴重な時間を割いて自分のために滑ってくれる夜鷹に、勝手に暴走してオーバーワークしてしまいました、なんてとても言えない。決められた練習量も、さっき交わしたばかりの鴗鳥との約束も守れず、司は罪悪感に押し潰されそうになる。
せめて今日の深夜レッスンはちゃんと終えよう、と胸中に満ちる後悔と自責の念をひた隠しにして、氷に乗る。
しかし、隠し事ができない司は、リンクを一周しただけであっけなく夜鷹に見破られてしまった。
「君、もう滑らなくていいよ」
心臓が止まった。
世界から音が消える。
胸を強く押さえていたのは、息を止めていたからだと気づいた。
思い出したように浅く呼吸を繰り返した司は、みっともなく縋るように、夜鷹に一歩近づく。
「ま、待ってください…!俺はまだ滑れます!やらせてください!」
「さっき見たけど、全然集中できてないよね。怪我に繋がるし、時間の無駄だから」
「そ、そんな…!」
「今日は僕が滑るのを見て、覚えて」
「ッえ、あ、見て、覚える…。そう、ですか…よかった……」
死刑宣告に思えた言葉は、早とちりだったようだ。自分の首はまだ繋がったままだ、と安堵の息を漏らす司に、夜鷹は首を傾げた。
「ねぇ」
「は、はい…!」
「君は、何がこわいの」
どくり、と心臓が嫌な音を立てる。
あなたに見放されることです、なんて本人を前にして言える訳がない。
ありきたりな日常を捨てて氷の世界に飛び込んだ今の司は、氷と、夜鷹純でできている。どちらか片方でも失ってしまえば、明浦路司はそこで死んでしまう。後に残るのは、かつて司であった、別の何かだ。
俯いて押し黙る司に、夜鷹は小さく息を吐く。びくりと肩を揺らした教え子に、師は淡々と続けた。
「……今度話すつもりだったけど、気が変わった」
「は、い?」
「君には、出場する全ての大会で金メダルをとってもらう」
かひゅ、と喉が鳴る。
たった今、命の刻限が明確に切られた。
自分が氷上で生きていられるのは、大会で金メダルを手に入れる間だけ。
夜鷹はおそらくバッジの獲得を優先するだろうから、初級の自分が試合に出るのはまだまだ先の話だろう。逆に、碌に試合の経験を積めないまま、ぶっつけで大会に臨むことになるかもしれない。試合に出るということは、文字通り命懸けで氷の上を飛ぶということ。幼い頃から氷の世界で生きる同世代の子とともに、正面から戦うことになる。
もしも、優勝を掴めなかったら。この人に、コーチを降りると言われたら。氷も、夜鷹純も、一度に失った自分は、物言わぬ屍となり果てるだろう。
脂汗を浮かべ、蒼白な顔で黙りこくる司に、夜鷹は怪訝な顔をする。司の様子がおかしいことは早々に気づいたが、彼が何に悩み苦しんでいるのかまでは察せられない。それをうまく聞き出すことも、話しやすいよう導いてやることも、夜鷹には難しいことだった。
「…言っておくけど。金メダルをとり続けるのは、次のオリンピックに出るのに最も早くてわかりやすい方法だからだよ」
「は、ぇ、お、オリンピック?」
「出場資格さえ満たせばいい。あとは、君が一番強いと示すだけ。氷の上で才能を証明し続ければ、向こうが勝手に選んでくる」
「は、はぁ…。理論上はそうかもしれませんが…」
「僕はできた。そして、君にもできる。だから言ってる」
「…あなたに、そんな風に思ってもらえるなんて、すごく嬉しいです。でも、俺にはとてもそんな自信はなくて。俺は、俺を、信じられないんです」
あぁ、言ってしまった。
練習着の裾を力いっぱい握り締める。そうでもしないと、今すぐ尻尾を巻いて、この人の前から逃げ出してしまいそうだったから。
呆れられた。幻滅させた。もういらないって言われるかもしれない。
でも、どうせ死ぬなら、この人の言葉で息絶えたい。傲慢で、不器用で、それでいて優しい、嘘がつけないあなたの刃で、思い切り喉を搔っ切ってほしい。そして、願わくば、あなたが罪悪感に苛まれないよう、そうと気づかぬまま去ってほしい。
自ら首を絞める言葉を吐いておきながら、死にたくないと願う自分が嫌になる。それでも、ちっぽけなプライドのために自分を偽るより、この人には正直でありたいと思った。
自虐的な笑みを浮かべて涙ぐむ司に、夜鷹は顔を上げて、と告げた。視線を向けると、すぐさま金の瞳とぶつかった。満月のように輝く光に見惚れて、目を逸らせなくなる。
「答えて。──君のコーチは誰?」
「夜鷹さん、です」
「僕が手にしたメダルの色は?」
「金色、だけ」
「そう。ちゃんとわかってるね。なら、もう一度聞くよ」
「──君は、何がこわいの」
ぶるりと身を震わせた。
込み上げる涙はそのままに、何度も左右に頭かぶりを振る。
「…いえ。ッいいえ!こわいものなんて、何もありません…!」
自分は何を勘違いしていたんだろう。この人にここまで言わせるまでわからなかったなんて、愚かにも程がある。
あの日、公園で見つけてもらった時に、はっきりと自分の口で答えたはずだ。選手になりたい、氷の上で生きていきたいと。
この先、俺がするのは、楽しいスケートじゃない。名誉と栄光を懸けて、勝ち負けをするスケートだ。頂点で輝くただ一つの金色を目指して、実力者たちと小数点以下を争う過酷な戦いに、俺は幾度も飛び込んでいくのだ。
ほしいものは、口を開けて待っているだけの怠け者には降ってこない。足掻き、もがき苦しみ、血反吐を吐くほどのたゆまぬ研鑽の果てに、ようやく手が届くかどうかという残酷な世界。何度氷に叩きつけられようと、目が霞むほど息が苦しくなっても、恐怖に打ち勝ち、自らの足で飛び上がる者だけが勝利を掴み取れるのだ。そして、まさに地獄のような鍛錬を重ねた彼らは、それを決して表に出さず、氷上を華麗に舞うのだ。
名声も実績もあるこの人は、世界中が憧れ、望み、求める唯一無二の存在だ。コーチを引き受けるとひとたび口にすれば、数え切れないほどの手が差し伸べられる。俺のようなちっぽけな存在は、氷の欠片と一緒に消えていくだけ。
ほしいなら、奪われたくなければ、勝つしかない。
氷も、夜鷹純あなたも、誰にも奪わせやしない!
「夜鷹さん。一つ、約束してください」
「なに」
「俺はこの先、金メダルだけをとります。あなたの目に映るにふさわしいスケートをします。俺を選んだあなたは正しかったと証明してみせます。だから──」
「あなたは、俺だけを見ていてください」
よそ見なんてさせない。
そんなことをする暇がないくらい、その目を惹きつけてみせる。
氷も、夜鷹純あなたも、もう俺のものだ。
世界中の誰にも、たとえ俺を愛さなかった神様にだって、渡したりしない。
覚悟を決めた精悍な顔つきに、夜鷹は満足げに頷く。
「うん。いいよ」
経緯はわからないが、目を離した隙に司は不安に囚われ、悪循環に陥っていたようだ。だが、それは先ほどまでの話。榛色の瞳に、自身の身すら焼き尽くさんばかりに轟々と燃え盛る焔が宿ったからだ。太陽をそのまま人の形に落とし込んだような途方もない熱は、距離を開けて相対する夜鷹まで容赦なく焼いていく。氷も自分も、瞬く間に溶けてしまいそうだ。
本当は、かつていた世界で光に課したように、夜の曲かけでの転倒禁止という条件を司にも与えようと思っていた。全ての大会で優勝するという条件を乗り越えるには、揺らぐことない鋼の精神を得る必要があるからだ。だが、司を見て、彼には不要なのだと悟った。
彼は必ず成し遂げる。いまだ世界の頂点に名を残す夜鷹をして、そう確信させるものを持っていた。
あの世界でも、この世界でも、君は全く思い通りにならない。だからこそ、この退屈で死んでしまいそうな人生という地獄の中で、どうしたって惹かれてしまう。
「約束、守ってね」
この夜、司は世界に宣戦布告した。
そして、命を燃やして氷上で輝く太陽に世界が焼き尽くされるまで、残された時間はあと少し。
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