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※話の都合上、司が全日本ノービス後もしばらく名古屋にいます。
それは偶然だった。
いのりが中部ブロック大会優勝という快挙を成し遂げたにもかかわらず、司は喜びGOE+5を発揮する間もなく、他のクラブのコーチらによって焼肉屋に連行された。不完全燃焼のストレスを抱えながら店を出ると、今度は鴗鳥に誘われ、何の因果か深夜のリンクで夜鷹と三人で滑ることになった。
事情を知らない鴗鳥が悪気なく仲を取り持ってくれるが、正直言って非常に気まずい。宣戦布告をした相手、それもおそらく嫌われているであろう人。だが、オリンピック金メダリストと銀メダリストのスケートを間近で拝める機会など、この先二度とないだろう。いのりのジャンプ習得にも繋がる、またとない好機。究極の二択を迫られた司は、葛藤の末、首を縦に振ったのだ。
最低限の照明がリンクを照らす中、夜鷹と鴗鳥という最高の手本を見ながら、司はジャンプの練習を続けた。見て、分析して、試す。氷に叩きつけられる痛みに耐えながら、短時間で修正していく。アイスダンスに転向してからいのりのコーチになるまで久しく遠のいていたジャンプが、少しずつものになっていく。勝利へ導く糧となる時間が、純粋にコーチとして嬉しかった。教え子のためにと跳躍を続ける司を、二対の視線は油断なく追っていた。
***
途中、急用の連絡が入ったと言って鴗鳥が席を外した。間を取り持つ彼がいなくなった途端に居心地が悪くなる。ちょうど喉の渇きを覚えたため、司はリンクサイドへ向かった。壁の上に置いておいたドリンクに口をつける。集中するうちに意外と汗をかいていたようで、疲労と渇きを癒してくれる水にほっと息をつく。
二口三口飲み込んで、ボトルの蓋を閉めようとした時、近くから刃が氷を削る音が聞こえた。
不思議に思って顔を上げる。すると、つい先ほどまで遠くで滑っていたはずの夜鷹が、なぜか隣に立っていた。体を揺らせば、互いの肩が触れてしまうほどの距離。近っっっか。司は驚きのあまり声もなく固まる。一方、傍らに立つ夜鷹はこちらを向いているはずなのに、その視線は交わらない。注意深く観察してその先を辿ると、彼はこちらの口元を見据えていた。もしかして、彼も水分補給したいのだろうか。
「え、えっと、飲みます?」
意を決してボトルを差し出す。しかし、こちらの申出は残念ながら聞き流されたのか、夜鷹はボトルに見向きもしない。変わらずこちらを凝視する金色の双眸に、思わず引き寄せられる。まるで、獲物を見定めた猛禽類のような鋭い眼差しが、容赦なく司を射抜く。きれい。獰猛な光に釘付けになった司は、それが覗き込めるほど近くにあることに気づけない。
ちゅ。ぺろ。
かさついた肌が触れる。次いで、生温かい感触。
唇を掠めた吐息が、微かな苦味を残していった。
目と鼻の先にあった金の瞳が離れていく。名残惜しくて、知らず眦が下がる。それを見咎めた彼はふんと鼻を鳴らした。
踵を返してリンクの中央へ戻っていく黒い背中を目で追う。ボトルを持ったまま宙に浮いた腕も、借り物の靴に馴染んだ足も、飲んだばかりなのに干からびた喉も。健気に次の命令を待っているというのに、肝心の脳は処理落ちしてしまっていた。そればかりか、フリーズした脳は何を血迷ったのか、たった今網膜に焼き付いたばかりの映像を勝手にループする。
彼の目が。口が。熱が。
触れて、焦げ付いて、離れない。
戻ってきた鴗鳥に肩を叩かれるまで、司は呆然と立ち尽くしていた。
自宅まで送るという鴗鳥の申出を丁重に固辞し、深夜に帰宅した司は湯船に身を沈めた。教え子の晴れ舞台、半ば強引に連れて行かれた会合、そして薄暗いリンクでのスケート。興奮と緊張の狭間を絶えず行き来して消耗した心身を、温かな湯がほぐしてくれる。司を案じる加護家の厚意のおかげで、ありがたいことに贅沢に湯船に浸かれるのだ。得難い幸福を今一度噛み締めた――ところで、司ははたと思い出す。
否応なく脳裏にちらつくのは、闇から溶け出たような漆黒の男。ようやく息ができると言わんばかりに、伸び伸びと銀盤を舞う姿。さらりと流れる前髪から覗く瞳が、雲に隠れた月のようだと思った。
あれ、俺キスされた?あの夜鷹純に?
あまりの字面のおかしさに気が狂いそうになる。だが、肌に焼け付いた感覚が、紛れもない現実であることを突き付けてくる。顔が熱い。異様に早まった鼓動で息が浅くなる。震える指で口元をなぞった。少し冷えた薄い唇が、中に覗く赤い舌が、この口に――
勢いよく湯船から立ち上がる。その拍子にお湯が多少散ってしまったが、この夜更けに湯船に入る人はもういないので問題ない。
やめよう。犬に嚙まれたと思ってさっさと忘れよう。犬というより極上の毛並みをした猫のような人だが。行動原理も判断基準もよくわからない相手のことをあれこれ考えても無意味だ。自分と夜鷹の間には何もなかった。いや、あったわ。二度目の宣戦布告をかましたのだ。氷の上に絶対はないことを証明する戦いまで、あとひと月しかない。最高の手本から学んだジャンプを特訓に活かさなければ。そもそも、今日のイベント発生率が高すぎて失念していたが、いのりが念願の金メダルを手にしたのに、まだ全力で喜べていない。せっかく優勝したというのに、なんて散々な夜なんだ。
声を押し殺して悶絶する司を、天高く昇った月が冷ややかに見下ろしていた。
***
数日後、司は鴗鳥から受けた連絡に白目を剝いた。
一時的に理凰を預かった際に、恐れ多くも鴗鳥から直通の連絡先をもらっていた。顔を合わせずとも誠実さがひしひしと伝わってくる、丁寧で礼儀正しい文面だ。しかし、今回ばかりはスマホを持つ角度を変えてまで、自分の目がおかしいのではないかと何度も読み直してしまう。
曰く、夜鷹から司に会いたいので連絡先を教えろと頼まれているらしい。
なんで?
率直な疑問に首を傾げてスマホと睨めっこするが、羅列された無機質な文字は答えを示してはくれない。司は壁の時計を仰ぐ。じきにレッスンの合間の休憩時間が終わってしまう。このまま返事を遅らせてしまえば、多忙な中で連絡をくれた鴗鳥に迷惑をかけてしまう。ええいままよ、と承諾の文面を送り、勢いよくスマホをポケットにねじ込んだ。いったい何が目的か知らないが、間に入る鴗鳥のためにも、自分が夜鷹に直接確かめる方がいいだろう。来るなら来い。
鼻息荒く肩で風を切ってリンクに戻った司は、ぎょっとした瞳に強めに叱られた。
鴗鳥に返信した後、見慣れぬアドレスから一通のメールが届く。「ここに来て」と、日時と場所が記された簡潔な文章。鴗鳥から夜鷹のものだと共有されたアドレスと一致しているので、彼本人からの連絡で間違いないだろう。とりあえず連絡先に登録しておく。まさか自身のアドレス帳に夜鷹純の名前が連なる日が来るなど想像もしなかった。指定された住所を検索すると、高級住宅地から市内を一望できる高層マンションが表示される。もれなく部屋番号まで記載されているので、彼の自宅か別宅なのかもしれない。
来いってこと?あの夜鷹純の部屋に?
憧れの人のプライベートに踏み込むなど言語道断、とファン心理が働くが、向こうから呼びつけられた場合はどうすべきなんだろう。それも、フィギュアスケートという狭い業界故に出会ってしまった、司にとっては因縁深い相手だ。もっとも、相手からすればこちらの存在など、無謀な目標を掲げて一方的に大口を叩いてくる小物にすぎないのだろうけど。
二度も啖呵を切って、嫌われているだろう人からのお招き。はたしてどう対応すべきか。
悩んだ末に了承の意を示した司は、以前の夜鷹の服装を思い出し、なるべく小綺麗に見えるようにとクローゼットを漁った。
それから数日過ぎ、いのりのレッスンを終えた司は、指定された高層マンションのふもとで立ち竦んでいた。一生縁のないだろう建物は天高く突き抜けており、見上げた首が悲鳴を上げる。曇りなく磨かれたガラスに庶民代表の自分が映り込み、本当に立ち入ってもいいのかと逡巡させる。ポケットからスマホを取り出し、メールの画面を開く。何度確かめても、日時も場所も間違っていない。ならば、行くと答えた以上、引き返すわけにはいかない。
自動扉から煌びやかなロビーに足を踏み入れ、コンシェルジュらしき男性に会釈する。部屋番号と家主の名前を告げると、小型のインカムに小声で何かを吹き込んだ後、エレベーターに向かうよう案内された。家主の許可が下りたらしい。浮遊感すらないエレベーターに運ばれ、指定された部屋の前までたどり着く。
深呼吸を一つすると、腹を括ってシンプルな意匠のインターホンを鳴らす。聞き慣れた電信音の後に、沈黙。先方はこちらが到着したことを知っているはずだが、部屋の奥から足音は聞こえてこない。再度押そうとすると、奥から「あいてるよ」と平坦な声がした。出迎えはなし、だが予想の範疇なので驚きはしない。
「…お邪魔します」
開いた扉の隙間から体を滑り込ませる。ゆとりのある玄関にも、やはり人影は見当たらない。扉が閉まると同時に、錠のかかる音がした。オートロックなのだろう。退路は断たれたが、元より前進しかない。
脱いだ靴を揃え、薄暗く長い廊下を進んでいく。先ほどの声は、もっと部屋の奥、突き当たりの扉の向こうから聞こえたように思う。そっと扉を押し開くと、広々としたリビングダイニングルームにたどり着いた。広い、広すぎる。何人か子どもを集めても余裕でジャンプの陸トレできそう。あと暗い。玄関からすでに薄暗かったが、夜の帳が下りてしばらく経つ時刻だというのに、室内に一つも明かりが灯っていない。備え付けの照明器具はただの飾りと化している。カーテンは開かれたまま。窓から差し込む街の光だけが、広い室内を照らし出している。
バルコニーに面した大きなガラス戸のそばに立つ人影が、ゆっくりとこちらを振り向いた。逆光で顔は見えづらいが、この肺が重くなる圧は間違えようもない。
「こんばんは」
努めて普段と同じ声を出す。こうして二人きりで対峙するのは初めてだ。緊張で手汗がじとりと滲む。
「…来ると思ってなかった」
しばしの沈黙の後、なんと招いたはずの家主から、絶対に客に向けるものではない言葉が吐き出された。思わずカチンときて大声で返してしまう。
「なんですかそれ!鴗鳥先生を通じて連絡してきたの、あなたでしょう!」
「うるさい」
「っす、すみません。人様のお宅で失礼しました」
至極真っ当な指摘を受け、咄嗟に口を両手で押さえる。これだけ豪奢な高層マンションなのだから、防音性は格段に優れているだろう。しかし、常日頃から騒がしいだの暑苦しいだの言われる自分の声なら、厚い壁すら貫通してしまうかもしれない。
だが、大声を出した非は認めるが、それが呼びつけた相手に対する一言目とはいかがなものだろうか。不満げに睨む司に、夜鷹は悪びれなく歩み寄ってきた。
「君、警戒心とかないの」
「はい?」
「それとも、もう忘れたの」
ようやく闇に目が慣れてきた。正面で立ち止まった彼がこちらを見据える。薄暗い中に、一対の宝石が炯々と輝いている。無二の強さを秘めた金色に、こちらの意識ごと吸い込まれてしまいそうだ。そういえば、以前もこんな風に、彼の瞳に見惚れたような気がする。そう、今よりもずっと近くで――
ぼひゅ、と頭から湯気を出して沸騰した。そうだ、先日この人にキスされたんだった。あまりの出来事に衝撃を受け止めきれず、心の平穏を保つため記憶の彼方へ押しやっていたのに、思い出してしまった。鏡を見ずとも、全身がゆでだこになっていることだろう。どくどくと心臓が早鐘を打っている。
「…ちゃんと覚えてるね」
「あ、あれは!ていうか、なんであんなこと…!」
「さあ」
「さあ!?」
「……気が付いたら、触れていた」
「はい??」
なんだそれ。そんな無茶苦茶な理由で、己の唇は奪われたというのか。人を寄せ付けないような印象だけど、意外とそういうことを軽々しくやってのける人なのか。ひどい、あんまりだ。油断していた自分も悪いけど。
「手、出して」
顔を赤らめて狼狽する司に、夜鷹は平然と声をかけた。当然、不意打ちでしてやられた司は、意図を掴めない指示に警戒する。
「な、何のために…?」
「確かめる」
「何を…?」
「いいから」
早くして、と手を伸ばされた。
微かな光の中で白い肌が浮き上がる。躊躇う司を惑わすように、細い指先が請う。
テレビの中で滑る姿を、幼い頃の網膜に焼き付けられてから、体に刷り込ませるまで何度も見返した。繊細に、華麗に、大胆に。そして残酷なまでの美しさで世界を描き出す、憧れの人。その人が、その指が、司を呼んで待っている。
先ほどまでの動揺が嘘のように消えていく。ぼう、と熱に浮かされたように腕を上げた。ほとんど無意識だったかもしれない。薄闇に浮かぶ白い手に、そしてその奥の光に向かって手を伸ばす。見る者を惹きつけて離さないそれに、まるで誘蛾灯みたいだ、とのぼせた頭が呟く。
ゆっくりと伸びてくる司の手を、焦れたように少し冷えた指先が捕らえた。肌が触れ合う感覚に、司は夢から覚めたように肩を跳ねらせる。掴まれた手は逃げる間もなく引き寄せられ、夜鷹がそっと顔を近づける。さらりと揺れた黒髪が肌を掠めて、くすぐったさに唇を引き結んだその時。
ぱく。
「!?」
ぺろ。
「なッ…!?」
人差し指を、食べられて、舐められた。
「ななな何するんですか!?」
司は慌てて手を奪還して飛び退った。またも唐突かつ一方的に与えられた刺激に慄き、全身を震えさせる。指先に残る、生温かく湿ったものに包まれた感覚と、ざらりとしたものが這った感覚に、いっそ大声で泣き喚きたくなる。本当になんなんだ、この人は。司は夜鷹を涙目で睨んだ。
対して、人の指を断りなく口内に招き入れて舌で一撫でした犯人は、至って涼しい顔をしていた。獲物に逃げられ宙に浮いていた手を動かしたと思えば、おもむろに口の端をなぞる。どうやら強引に指を引き抜いた際に、口元を掠めてしまったらしい。わずかに付着していた唾液を指先で拭い、舌で辿る。
あぁ、やめてくれ。あの口に、あの赤い舌に、俺の指が――
「…うん。やっぱり」
一人納得したように頷いた夜鷹が顔を上げる。
「君、ケーキだね」
「……はい?」
人には生まれた時に、男女の性とは別にもう一つの性が与えられている。「ケーキ」、「フォーク」、そしてそのどちらでもない「ナチュラル」だ。
世界の大多数はナチュラルに分類される普通の人が占めており、ケーキとフォークはほんの一握りしか存在しない。バース性については小学校から義務教育の過程で学んだが、司の周りにはケーキもフォークも見当たらなかったため、正直ピンと来なかった。
ケーキとは生まれつき「美味しい」人間を指す。フォークにとって彼らは極上の甘味のような存在で、涙や唾液、皮膚、血肉など全てが対象となる。ケーキは自身がそうであると気づくことができないため、フォークと出会うまで知らぬまま一生を終えることもあるそうだ。
一方、フォークはケーキを「美味しい」と感じてしまう人間である。その多くは後天的に通常の味覚を失っており、ケーキの体液や血肉にしか味を感じられなくなるため、稀に本能に抗えず捕食してしまう場合がある。
古くから存在するバース性ゆえに、昔はフォークがケーキを捕食する凄惨な事件が頻発したことから、フォークは”予備殺人者”や”食人鬼”と人々から恐れられ、長く迫害されてきた。しかし、現代医療の発達に伴い、その特異性やメカニズムに関する研究が進んだことで、事件の発生率や差別意識は劇的に改善されたのだ。
現在はバース性専門の医療機関が各地に点在し、フォークと判明した者に処方される薬によって、厄介な食人衝動を抑えられるようになった。また、バース性は世界共通の課題であることから、各国が共同研修や出資を積極的に行っているため、プロのアスリートが正式に服用できる薬も広く流通されている。そのおかげで、フォークの大半は薬で欲求を抑圧または調整できるようになった。社会に溶け込み、支障なく日常生活を送っている。
さらに、匿名性が保たれたケーキのドナーから提供される血により、ケーキを欲する症状が現れたフォークには血液パックも処方される。万が一重症化してしまった場合は、フォーク専用の施設に隔離され、社会復帰に向けた治療と訓練が行われるらしい。
かくして、人類の血の滲むような努力により、現代では猟奇的殺人事件は数年に一度あるかないかという頻度まで落ち着いている。それでも一部の人々はフォークを敵視しているが、昨日までナチュラルだった人間が何らかの理由で突然フォークとなってしまうこと、また現在も発現の経緯は解明されておらず撲滅は事実上困難であることから、被害を限りなく減少させて共存しようというのが世界共通の方針である。皮肉にも、バース性による事件より、それに関わりない強盗や紛争など物騒な報道の方が多いため、今のところフォークに対する過度な弾圧や暴動は起きていない。
「それで、夜鷹さんはフォークで、俺はケーキである、と」
「そう」
司が夜鷹の二度目の奇行にどぎまぎしつつ一応話し合う姿勢を見せたことで、二人は薄暗い空間でダイニングテーブルに腰掛けて向かい合っていた。余談だが、礼儀として持参した手土産は見向きもされず「いらない」とすげなく断られてしまったので、持ち帰って加護家やクラブに分けることにした。加えて、これから長い話をするだろう状況なのに卓上に飲み物が見当たらないので、客の司が気を使って「お茶でも入れましょうか」と立ち上がると、夜鷹が冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを放ってきた。自由だなこの家主、と思いつつありがたく喉を潤す。
その後、彼の突拍子もない行動と経緯について、言葉足らずの彼から聞き出すのは骨が折れたが、司は根気よく問い続けた。
曰く、ある日を境に味を感じなくなり、世間の目を避けて秘密裏に診察を受けた結果、自身がフォークとなっていたことが判明したらしい。当時の彼にはケーキに対する捕食欲求は微塵もなく、むしろ他人との接触や摂取と聞いて吐き気を催すほどだった。それでも、いつケーキに遭遇するかわからないため、アスリートも服用できる薬を義務的に飲んでいた。
しかし、司と出会い、わずかに漂う甘い匂いが鼻を掠めた時から、徐々に体調に変化が現れる。次第に、飢餓感や喉の渇きに似た物足りなさが付きまとうようになり、仕方なく医療機関に訪ねた。すると、医師の診察によると、ケーキを見つけてフォークとしての性が目覚め、わずかながら欲求が現れてしまったそうだ。
現在は様子を見つつ、従来の薬だけでは今後が懸念されるため、薬の量を増やすか、ケーキから完全に距離を取るか、という選択を迫られているらしい。
「え、ケーキと会わない方がいいんですよね?なんで俺呼ばれたんですか?」
「君がそうだという確証がなかった。それに、今後一切関わらないなんて無理でしょ」
「まぁ、お互いスケートに携わっている以上、なかなか難しいですね…」
これまでの彼と自分は、生ける伝説たる憧れの人と、みっともなく氷にしがみつくしがないフリーターでしかなかった。しかし、数奇な運命が手繰り寄せた邂逅により、二人は出会ってしまった。いくら直接会う機会がほとんどないとしても、狭い業界でコーチを務める以上、どうしたってその存在を見聞きして感じる日はある。少なくとも、いのりと光という互いの教え子が好敵手であり、かつ現役選手として活躍する間は、縁は切れないだろう。
それにしても、まさか夜鷹がフォークであったとは驚きだ。生まれた時から備わっていた五感の一つ――それも生活の質や幸福度を満たすのに欠かせない味覚を失う苦悩は、ナチュラルやケーキには計り知れない。不躾なことを伺いますが、と前置きしたうえで、栄養管理はどうしているのか尋ねてみる。彼が表情一つ変えずに指差す棚を見遣ると、ガラス越しに数多くのサプリやプロテインのボトルが見えた。あの無機質で味気ないものたちが今の彼を形作っているのか、と複雑な心境になる。先日目の当たりにしたスケートは、氷に閉じ込められた人生と、様々なものを捧げたり奪われたりした犠牲の末に成り立っているのかもしれない。
手元のボトルを弄りながら、ちらりと夜鷹を盗み見る。席に着く前に、大事な話をするならば少しでいいので明かりがほしいと頼み、部屋の一番隅に位置する小さな照明をつけさせてもらった。ほのかな光源に眉を寄せた彼には、そちらを背にして座ってもらっている。遠くの明かりのおかげで垣間見えた顔は、相変わらず無表情で不愛想で、しかしどこか覇気のないように感じられる。これまで眠っていたフォークとしての本能が、わずかに、しかし確実に彼を蝕んでいるのかもしれない。無意識にボトルをきつく握り締める。
「つまり、話をまとめると。あなたはケーキである俺と会ったせいで、フォークとして目覚めてしまったんですね」
「そうだね」
「それで、ケーキがいるのに手を出せないから、少しずつ症状が出てきてしまった、と」
「…そう」
「じゃあ、その。ケーキを定期的に、ほ、補給すれば、体が慣れていって、薬を増やさず症状を緩和できるんでしょうか」
「…………」
「待ってそんな目で見ないでください。わかってますよ、自分が変なこと言ってることくらい」
夜鷹が胡乱な目つきでこちらを睨んでくる。言葉を紡がない代わりに雄弁に物語る瞳は、何言ってんだこいつと言わんばかりに細められている。自身を捕食対象として狙ってくるフォークに自ら身を差し出すケーキなどあり得ない。そもそも、フォークがケーキを補給するということは、具体的には皮膚の接触や体液の摂取といった生々しい行為を指す。フォークではない人間は、まず生理的な嫌悪感を覚えるだろう。すでに二度も不本意な摂取を強いられた司からすれば、なおのこと。
「君、誰とでもああいうことするの」
「人を変態みたいに言わないでください。というか、先に手を出してきたのはそちらでしょう」
「…コーチのことといい、自己犠牲が趣味みたいだね」
「前にも言いましたが、コーチは今の俺の大事な夢です。…俺がいることで、あなたが少しでも楽になれるなら、そうしようと思っただけですよ」
「君にそんな義理はない。なぜ損しかない選択をする?」
「あなたのスケートを損ないたくない」
司は夜鷹を見据えて、はっきりと言い切った。薄明りを背に座る彼が、初めて瞠目した――ように見えた。暗いので単なる見間違いだろうけど。
それより、真意を問われて迷わず本心を口にしたが、理由としてはふさわしくなかったかもしれない。司は慌てて言葉を付け足す。
「っそ、それに!大事な生徒を預かる以上、コーチが体調管理に努めるのは当然です。あなたに何かあれば、狼嵜選手にも影響が出てしまいます」
「あの子はその程度で揺らがないよ」
「どれだけ大人びていても、彼女はまだ子どもです。それに、選手が競技に集中できるよう、不安要素は極力排除すべきです。第一、人が体調を崩していたら、誰だって心配するでしょう」
「…君も、そうなの」
「わかってて聞いてますよね?」
「……随分お人よしだね」
「すみませんね、こういう性分なんで」
開き直って胸を張る司に、夜鷹は何も返さない。彼なりに思案しているのか、俯きがちに黙り込む間、静かに答えを待つ。満月のような金の瞳は、今は髪に遮られてしまって見えない。日の光を浴びない青白い肌だけが、彼の存在を浮かび上がらせる。つくづく黒が似合う人だ、と内心呟く。
長いようで短い沈黙の末、夜鷹は顔を上げた。
「君の提案に乗るよ」
夜鷹の思いがけない返事に司はガッツポーズしそうになり、咄嗟に机の下で拳を握った。一方、なぜか助力を申し出たはずの司が顔を輝かせるから、夜鷹は不可解だと思いつつ続ける。
「僕が呼んだらここに来て」
「わかりました。予定が合うように、なるべく善処します。――これからよろしくお願いします」
申出が受け入れられてご満悦の司は、握手のために右手を差し出した。すると、正面に座る彼からは、応じる片手ではなく長々としたため息が返される。え、何か気に障ることした?実は利き手が左だったとか?疑問符を浮かべつつそのままでいると、地を這うような声が耳に届く。
「……本当、懲りないね」
「は、」
夜鷹が上げたのは、握手に応じるための右手ではなく、近くにホイホイ寄ってきた獲物を確実に仕留めるための左手。素早く捕らえられ、逃げられぬようしっかりと掴まれた。無抵抗のまま呆けていると、自身の手は思いのほか強い力で引かれ、彼の口元へ導かれる。
――あれ、なんかデジャヴ。
ぺろり。
「~~~~ッ!?」
「君は甘いね。何もかも」
舌なめずりをして流し目を寄越す夜鷹に、司は顔から火を出して身悶えた。