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日が陰り、やがて周囲が暗くなる。
瀬名と一方的に距離を置いてから、もう数日が経った。
会社から自宅謹慎を言い渡されて以来、外に出る気力も起きない。
潔白を証明する意欲すらなく、ただ食事もろくに取らず、無気力に日々をやり過ごすだけだった。
薄暗い部屋の中で理人は、深く重いため息を吐く。
リビングの一角に置いたスマホは、着信履歴と未読メッセージで埋め尽くされていた。
瀬名から、片桐から、萩原から――。
だが、そのどれにも返す気力は湧かない。電源を切ろうとすら思ったが、指は動かず、ただ充電器に繋いだまま裏返して放置している。
会社を思い出すたび、あの日のざわめきと疑惑の視線が甦る。
(情報漏洩の犯人扱い……笑えるよな。俺が一番警戒してたはずなのに……)
守りたかった部下すら庇えず、唯一自分を擁護してくれた声もかき消された。
その時の片桐の悔しそうな表情が脳裏に浮かび、胸を締め付ける。
恋も、仕事も。
結局、自分は何一つ守れなかった。
瀬名の隣に立つ資格も、部長として部下を率いる資格も――もう、何もない。
机の端には、血痕のついたままのプレゼントが置かれている。
何度も捨てようとしたが、ゴミ袋に入れる直前でどうしても手が止まってしまう。
それが「未練」でしかないことは分かっているのに、心のどこかでまだ期待している自分がいる。
(……もう、終わりにした方がいい)
瀬名のことも、会社のことも。
副社長候補にまで上り詰めた岩隈がいる限り、あの場所に自分の居場所はない。
どうせ遅かれ早かれクビを宣告されるのなら、自分から退職する方がまだマシだ。
退職願のフォーマットを印刷した紙が、封筒にも入れられず机に放置されている。
視線を逸らすたびに胸が痛む。
役職や出世に興味はなかった。仕事なら、きっとどこに行っても出来るはずだ。
――そう頭では理解しているのに、片桐や萩原、東雲……そして瀬名の姿が、どうしても脳裏から離れなくて理人は幾度となくため息を漏らした。
自分は今まで何のために頑張ってきたのだろうか。自分が働きやすい環境を整えたくて、会社にはびこる悪に制裁を下していたにすぎない。 少なくとも、岩隈の野望に加担するために手を貸していたわけではないのは確かだ。
なのに結果的には岩隈に利用され、汚名を着せられた。
情けないという感情が渦巻く。胸が苦しくて堪らない。
何度考えても思考が堂々巡りしてしまう。
(明日になったら退職届を出そう。それまでに心の整理をつけないと……)
自分に言い聞かせるように呟くと、理人はすっかり温くなった缶ビールを飲み干し、新たなビールを求めて冷蔵庫の扉を開けた。
だが、中身はほぼ空っぽだ。
よくよく考えれば、長いこと買い物にすら出ていない。
「チッ」
苛立ちに任せて舌打ちし、財布を掴んで部屋着のまま玄関へ向かう。
靴を履き終えたその瞬間、甲高いチャイムが玄関に鳴り響いた。
(……こんな夜更けに、一体誰だ?)
瀬名が、電話に出ない自分に業を煮やして直接やって来たのだろうか。
――いや、そんな都合のいい話があるものか。あいつは自分が一方的に追い出してしまったのだから。
それでも、ほんの一瞬だけ胸の奥に「もしや」という期待が灯ってしまう。
無視すればすぐに帰るだろうと目を閉じるが、インターホンはしつこく鳴り続ける。
(……一体どこの業者だ? 勧誘なら一切お断りだ)
渋々モニターを覗き込むと――画面いっぱいに、満面の笑みを浮かべたナオミの顔が映し出された。
「リ・ヒ・トちゃ〜ん♡ 最近ぜんっぜんお店に来てくれないから、直接来ちゃった☆」
理人が速攻でインターホンを切ろうとした瞬間、外から甲高い声が響く。
「ちょっとぉ! アンタ、オカマ差別でもする気!? ひっど〜い!」
慌ててもう一度モニターを点けると、玄関先で両手に紙袋を抱えたナオミが大げさに腰に手を当てている姿が映った。
一体どうやってエントランスを抜けて、家の前にまで来たのだろうか。
「開けなさいよ、ほらっ! 近所に聞こえるわよ〜! 理人ちゃんの評判が落ちちゃうわよ〜!」
「……うぜぇ」
まるで脅迫まがいの言葉を投げつけられ、理人は苛立ちながら渋々ドアを開けた。
「たく、どっから入って来たんだお前。うちのマンションの守衛はどうなってやがる!?」
「えー? 普通に『あんたの友人です』って言ったら、すんなり通してくれたわよ?」
――絶対に嘘だ。強引にこの顔で迫って開けさせたに決まっている。
守衛に迫るナオミの姿が容易に想像できてしまい、思わず眉間に深い皺が寄った。
「それにしても、何この空気! アンタ、窓も開けてないでしょ。煙草の匂いが充満して、空気が死んでるわよ!」
勝手知ったると言わんばかりに、ナオミは容赦なく上がり込み、カーテンを開けて換気をしながら、持ってきた荷物をキッチンに運び込む。
「おい、てめぇ何好き勝手やってんだ」
「いいじゃないの。どうせアンタのことだから、ろくに食べてないんでしょ? 美味しいお酒と材料、ぜ〜んぶ買ってきたから! ほら、キッチン借りるわね!」
「うるせぇな。何しに来たんだよ」
「だからお土産! 食材よ! あなたまた痩せたんじゃない? 栄養不足でしょう。ちゃんと食べなきゃダメよ」
文句を言いながらも、冷蔵庫に食材を収めていくナオミの姿を眺め、理人は呆れて額を押さえた。
(なんでコイツはいつもこう自由なんだ……)
どうして毎回こうやって首を突っ込んでくるのか。どうせ今日来たのも、瀬名か東雲に頼まれたに違いない。
あるいは萩原あたりかもしれない。
いずれにしても、偶然であるはずがない。
わざわざこんな場所にまで押しかけてくる理由なんてなく、必ず何かしらの魂胆があるはずだ。
(まったく……ほんとに最悪だ。プライベートの空間に踏み込んでくる奴なんか許せねぇ。本当に鬱陶しい……)
心底迷惑そうな顔を浮かべながら、理人はソファに腰を下ろした。
どうせ、帰れと言ったところでナオミは帰らないだろうし、相手をする気力は無い。色々と詮索されるのは好きではないが、これ以上無駄な労力を費やすのも面倒だった。
いっそ好きにさせておこうとそのままソファの上で身を横たえていると、キッチンの方からふわんと良い香りが漂ってくる。
野菜の煮える匂いと和風出汁の香り。
鼻腔をくすぐるその匂いに胃が自然と反応し、くぅ~と、腹が切ない音を立てた。
(そういえば、あれからずっと何も食ってなかったか……)
いつの間にか手元の煙草の灰が伸びていることに気づき、慌てて灰皿へと落とす。
その動作をする間に、すでにテーブルには湯気の立つ料理が並べられていた。
「チッ……お前は俺のオカンかよ」
ぶっきらぼうに吐き捨てながらも、箸を手に取るまでに少し躊躇した。
だが、ひと口口に入れた瞬間、出汁の優しい旨味が舌に広がる。
胃が驚いたように熱を帯び、空っぽだった体にじんわりと力が戻っていく気がした。
気づけば箸は止まらず、無言でひたすら料理を口に運んでいた。
数日ぶりの、まともな食事。
アルコールと煙草の煙で誤魔化してきた体に、ようやく栄養が染み渡っていく。
「まったく……。最近は瀬名君のおかげで人間らしい生活が出来てると思ってたのに。昔より酷いんじゃない?」
苦笑まじりの声が降ってきて、理人は箸を止めた。
「……うっせ」
視線を逸らし、皿の隅を無意味につつく。
だがナオミはにやにやと笑い、肩をすくめて言った。
「カッコつけて強がるくせに、一人だと全然ダメダメなんだから。ほんっと、昔から変わんないわねぇ」
その声に、理人は眉をひそめながらも、胸の奥のざわめきを誤魔化すことができなかった。
理人は空になった茶碗を乱暴に置き、低く呟いた。
「……どうせ瀬名に言われて来たんだろ。だが勘違いするなよ。俺は許したつもりはないからな」
ナオミが瞬きをし、わざとらしく首を傾げる。
「え? 何の話? やっぱりアンタたち、喧嘩してたの?」
「……ッ」
理人の目が細まり、グラスを握る手に力がこもる。
「ちょっと理由があって今は自分のマンションに戻ってるって、瀬名君が言ってたけど……そういうことだったの?」
「……」
黙り込んだ理人に、ナオミは小さく息をつき、食べ終わった食器をキッチンへと運んでいく。 そして、理人の目の前に座るとテーブルに肘をついて視線を合わせた。
「都合が悪くなるとだんまり? まぁいいわ。言っとくけど、瀬名君に何か言われたから来たわけじゃないわよ。言ったでしょう? アンタがちっとも店に来ないから友人として心配だったの。ただそれだけよ」
「だったらほっとけよ……」
「放っておけるわけないでしょ。何年アンタとつるんでると思ってるのよ」
ナオミは声を少し落として、真っ直ぐに理人を見据えた。
「アンタがどれだけ頑固で、不器用で、全部自分で抱え込む人間かくらい、アタシが一番よく知ってるつもりよ。だから余計に心配になるの」
「……」
「友達だから此処に来たの。理由はそれ以上でも以下でもないわ」
理人はグラスの中の液体をじっと見つめ、しばらく動けなかった。
「……ねぇ、何があったの? 話したくないなら無理には聞かないけど……あんたの手元に落ちてるソレ、辞表でしょ?」
無造作に置かれた辞表に目をやりながらナオミが問う。
「……あぁ」
「あの会社、本当に辞めちゃうの? 結構楽しそうに仕事してたじゃない」
ナオミはわざとらしく首を傾げ、理人の顔を覗き込む。
「……もしかして、瀬名君がいるから?」
「違う」
即答した理人の声は、低く短い。
「じゃあ、どうして……?」
ナオミは問い詰めるでもなく、ただ友人としての好奇心を装って首をかしげる。
しばし沈黙が落ちた。
やがて理人はグラスの縁を指でなぞりながら、ぽつりと吐き出した。
「……単につまらなくなっただけだ。同じような仕事なら他所でも出来るからな」
それを聞いた途端、ナオミの瞳が鋭く光る。
だが、すぐに表情を戻して「ふーん」と流し、今度は違う角度から切り込んだ。
「つまらないって言う割には、アンタ随分顔色悪いように見えるけど、こんなに痩せて……。しかも最近全然外に出てないでしょ。じゃないと、冷蔵庫空っぽとかあり得ない。……そうねぇ、何か大きな失敗をして干されたか、もしくは――誰かに利用されて、退職に追いやられてるのか――。理人が失敗なんてするはずがないから,後者かしら?」
何という観察眼だろうか?理人は思わずグラスを持つ手に力が入り、ガラスが軽く軋む。
自分の内側まで見透かされているような気分になって、口元が硬く引き締まる。
「うるせぇ……」
低い声が空気を震わせた。理人はグラスを握り締めながらゆっくりと立ち上がり、ギリッと奥歯を噛み締める。
しかしナオミは全く怯まずに目を細め、「あら、図星だったみたいね?」と小首を傾げた。
そう言って小首を傾げ、唇の端をつり上げた。
「……うるせぇ」
低い声で唸った理人は、グラスをテーブルに叩きつけるように置いた。
「もう全部どうでもいいんだよ!」
声が部屋に反響し、理人の胸を震わせる。
自分でも抑えきれずに飛び出した言葉に、息が荒くなり、肩が上下した。
「会社も……仕事も……俺の存在だって、どうせもう必要とされちゃいない。守りたかったものも、全部壊した。……だったら何の意味がある」
絞り出すような声に、ナオミは一瞬だけ目を伏せた。
沈黙が落ちる。
理人の荒い息遣いだけが部屋に響く。
だが次の瞬間、ナオミはまっすぐに理人を見据え、ゆっくりと口を開いた。
「……だから逃げるわけ?」
その声音は責め立てるものではなく、ただ静かに真実を突きつける響きだった。
「逃げたって、何も解決しないわよ」
ゆっくりと視線を落とし、テーブルの端に裏返されたスマホを指さす。
「アンタ、ここ数日まったくスマホを見てないでしょ。……諦めてるのは――もしかしたら、アンタだけかもしれないわよ?」
「……どういう意味だ?」
理人は思わず首を傾げる。
ナオミはふっと笑みを浮かべ、すっと立ち上がった。
「さぁね。それは自分で考えなさい。アタシに言えるのはひとつだけ」
彼女はまっすぐに理人を見据える。
「少なくとも、アタシの知ってる鬼塚理人は、この程度で逃げるような男じゃない。いつだって強くて、かっこよくて……悪い奴の陰謀なんかに、大人しく従うタマじゃないわ」
言い終えると、肩の力を抜いたように笑みを浮かべる。
「アタシはもう帰るわ。でも――全部片付いたら、ちゃんと店に顔を出しなさいよ? じゃないと、また生存確認に押しかけなくちゃいけなくなるから」
ウィンクひとつ残し、ナオミはドアの向こうへと消えていった。
舌打ちしながら、理人はナオミの言葉を思い返す。
「…諦めてるのは俺だけ、か」
仕方なく裏返してあったスマホを手に取り、電源を入れる。
すると通知の数が異様に増えており、その中に見慣れないグループチャットが立ち上がっているのに気づいた。
訝しみながら開いてみると――画面には、企画開発部のメンバーを中心にしたやり取りがずらりと並んでいた。
そこには東雲や片桐、瀬名の名前もある。
《鬼塚部長に汚名を着せるなんて絶対に許せない》
《岩隈の悪事をどうやって暴くか、証拠を集めよう》
《俺たちで守ろう。部長はあんな人じゃない》
次々と流れるメッセージに、理人は思わず息を呑んだ。
画面をスクロールするたびに、胸の奥が熱くなっていく。
(……みんな、こんなにも……)
押し殺していた何かが堰を切ったように溢れ出し、理人は深く息を吐いた。
(……まだ終われねぇ。終わらせちゃいけない)
震える指で文字を打ちかけて――だが、すぐに止まる。
グループチャットに今さら自分が顔を出す勇気はなかった。
しばらく画面を睨みつけた末に、理人は片桐の名前を選ぶ。
《……明日、会社に行きます》
たったそれだけ。
送信ボタンを押すまでに、何度も指が止まった。
けれど、送信完了の文字を見届けた瞬間、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
(これでいい。きっと――そうすれば……)
窓の外からは雪がちらついている。
冷たい冬の景色は変わらないはずなのに、
今宵はどこか、暖かい気がした。
翌朝。
理人は久々にスーツに袖を通した。
ジャケットの袖を引っ張りながら鏡の前で軽く髪を整える。
「……よし」
深呼吸一つしてから玄関のドアを開ける。
外は冷たい朝の空気で満ちていたが、なぜか足取りは軽かった。
昨晩ナオミに言われたことがまだ胸の奥に引っ掛かっていた。
「逃げたって、何も解決しないわよ」
「諦めてるのは――もしかしたら、アンタだけかもしれない」
その言葉はまるで杭のように理人の心に突き刺さった。
そしてグループチャットのやりとり。
(あいつら……俺のことを信じてくれたんだな)
昨日までただ燻っていた炎が、静かに燃え始めた気がする。
理人はオフィスに着くと、自分の所属している課には寄らずに真っすぐ社長室へと向かった。
鞄の中には辞表が入っている。
だがそれをただ提出するために今日此処に来たわけではない。
(辞めるか残るかは、今日のやり取りで決める――)
理人は社長室の前に立ち、深呼吸を繰り返し、心を落ち着けるために自分の胸に手を当てた。 心臓の鼓動が驚くほど速くなっているのがわかる。
ドキドキと胸が高鳴り、掌には汗が滲む。
(落ち着け……大丈夫だ。俺ならできる)
もう一度深呼吸をしてから、理人は社長室のドアをノックしようとしたその瞬間、横から聞き覚えのある声が聞こえた。
「……ッ、鬼塚君!!」
顔を上げると、目の前には走って来たのか息を切らせる片桐の姿があった。そのすぐ後ろには瀬名と東雲の姿も見える。
「課長……なぜ……っ」
「東雲君が知らせてくれたんだ……。今日来ることはわかっていたけど、何も言わずに話をしに行くなんて水臭いんじゃないかい?」
困ったように眉尻を下げ、滲んだ額の汗を拭いながら片桐は微笑む。
「鬼塚君だって見たんだろう? グループチャットの内容を」
片桐は微笑みながらも、真剣な眼差しを向ける。
「私たちは誰もキミを責めたりはしないし、誰が悪いのかもわかっている。だから――一人で背負うのはもうやめてくれ」
「……課長……」
「そうですよ! みんな心配してるんです。だから、僕たちも一緒に行かせてください。理ひ……鬼塚部長!」
すかさず瀬名が声を上げた。
その横で東雲も力強く頷く。
理人は目を細め、しばし三人を見つめる。
込み上げるものを誤魔化すように舌打ちをして、視線を逸らした。
「チッ……勝手にしろ」
それでも、胸の奥で何かが確かにほどけていく。
昨日まで燻っていた炎が、いま確かに勢いを増し、静かに燃え上がり始めていた。
理人は社長室の前に立ち、心を落ち着けるために自分の胸に手を当てた。
もう一度深呼吸をしてから、ドアをノックする。
「鬼塚です。入ります」
中からの返答を待たずにドアノブを捻る。
扉の向こうに足を踏み入れると、そこには社長と、秘書のほかに岩隈が立っていた。
「やはり来たか」
岩隈はニヤリと口角を上げ、椅子にふんぞり返るように座る社長へと視線を向けた。
「おやおや、久しぶりだなぁ鬼塚君。ようやく辞表を出しに来たのかい?」
厭味ったらしい言葉に理人は思わず舌打ちしそうになったが、それをぐっと飲み込み、深く息を吸い込む。
拳を握りしめ、岩隈を一瞥したのち、無視して社長に向き直った。
深々と頭を下げる。
「このたびは、私の不始末により社に多大なご迷惑をおかけしました。誠に申し訳ございませんでした」
社長は静かに頷き、言葉を選ぶように口を開いた。
「ああ。今回の件については、私も大変残念に思う。だが――私は君の能力を高く評価している。しかし、社内では今回の件をどう扱うか意見が割れていてな。厳罰を求める声もあれば、擁護する声もある。中々話がまとまらんのだ。それで? 今日は、岩隈君の言うとおり辞表を持ってきたのか?」
理人は一拍置き、静かに口を開いた。
「……そうですね。一応、準備はしております。ですが、提出の前に――まずはこちらをご覧いただきたいと思います」
鞄の中から分厚い資料の束を取り出し、社長のデスクに静かに置いた。
「これは?」
「……私がそこにいる岩隈専務からの指示を受け、秘密裏に行ってきた調査の記録です。我が社における過去の不祥事を時系列に沿ってまとめてあります」
「ほう……?」
社長の目が細められる。
「なっ! 鬼塚、貴様……!」
岩隈が椅子を軋ませて立ち上がりかける。
しかし理人は一歩も引かず、声を強めた。
「表向きは岩隈専務が独自に進めていたことになっていたようですが――実際に調査を行っていたのは私と、ここにいる東雲です」
隣に立つ東雲が静かに頷いた。
社長が手にした資料に目を落とし、ページをめくる音だけが社長室に響いた。
岩隈の顔色はみるみる険しく変わっていく。
社長が資料に目を落としかけたその時、岩隈が勢いよく声を張り上げた。
「そんなもの、でっち上げに決まってますよ! こんな紙切れ、調べたらいくらでも作れるでしょう! 部長職にあった鬼塚君が、責任逃れのために仕組んだに違いありません!」
激しく机を叩き、理人を睨みつける。
しかし理人は冷静に口を閉ざしたまま、視線を逸らさない。
代わりに口を開いたのは、隣に立つ東雲だった。
「……でっち上げ、ですか?」
静かな声が社長室の空気を一変させる。
「では伺いますが――岩隈専務。専務はいつも自宅やオフィスに居ながら、どうやってこれだけの事件を調べ上げたんですか? 探偵を雇ったにしても、不自然な点が多すぎると思うんです」
東雲は一歩前に出て、鋭い眼差しを岩隈に向けた。
「我々が専務に提出した資料の原本を、こちらが持っていないはずがないでしょう。それに……」
そこで言葉を区切り、薄く笑みを浮かべる。
「専務が持っていない“没写真”も、私たちはきちんと保管していますよ」
岩隈の表情が一瞬にして固まった。
社長の視線が、静かに岩隈へと向けられる。
「……続けろ、東雲」
低い声に促されるように、東雲はさらに語り始めた。
「例えば、一番新しい山田康太の件ですが……。本当に一人で不正自給を暴いたんですか? 人事部じゃないと操作できないシステムにどうやってしんにゅうしたんです? それこそ、情報を勝手に持ち出すなんてありえないですよね? そもそも、あの事件を調べたのは俺です。彼らの痕跡を辿るのにどれだけ時間かかったと思ってるんですか。それに、その写真……、こんな続きがあるんです」
そう言って東雲が、自身のスマホから画像を探し出し、社長のデスクへと向ける。 そこには、岩隈が女子高生と一緒にホテルへと入っていく姿が鮮明に写っていた。
「……なっ!」
岩隈の喉が大きく鳴り、顔色が青ざめる。
「何なんだこれは! 一体いつ、こんな……!」
震える指で東雲に掴みかかろうとしたその瞬間、社長の低く威圧的な声が室内を切り裂いた。
「岩隈! いい加減にしなさい!」
「――ッ!」
岩隈は弾かれたように顔を上げる。
その隙を逃さず、理人が一歩踏み出した。
「……社長。ここに映っているのは、先日左遷された朝倉の娘です」
声が震えるのを必死に抑えながら続ける。
「朝倉は役職への執着が強い男でした。以前、私に部長職を降りろと脅してきたこともあります。姑息な手段に対抗するため、私はこの写真を彼に突きつけました。その結果、車で轢き殺されかけ……代わりに瀬名が被害に遭ったのです」
言葉を終えた瞬間、あの日の恐怖が脳裏をよぎる。
だが同時に、理人の眼差しには確かな怒りと決意の炎が宿っていた。
(あの時に比べれば――今の状況など取るに足らない)
社長室には重苦しい沈黙が落ち、社長の視線が鋭く岩隈を射抜いた。
「岩隈……これはどういうことだ? 君は私に“自分で調査した”と言っていただろう。鬼塚君への恐喝も、部下の事故の原因も……すべて朝倉が仕組んだことだと、最初から知っていたのか?」
「そ、それは……っ」
岩隈の額に脂汗が滲み、言葉が続かない。
理人は一歩踏み出し、静かに、しかし揺るぎない声で告げた。
「それだけではありません。ここにいる片桐課長がひき逃げに遭った事件――あれも、裏で糸を引いていたのは朝倉でした。大切な仲間が危険に晒されていると知り、私はいても立ってもいられなかった。警察と連携し、結果として朝倉を逮捕に至らせました」
理人は深く頭を下げる。
「……確かに、未発表で開発途中の商品を使ったのは軽率でした。その責任は、私自身が負うつもりです。ですが――決して私利私欲のために使用したわけではありません。その一点だけは、どうかご理解いただきたいのです」
社長は資料に目を落としたまま、長い沈黙を保った。
やがて組んでいた腕を解き、深く息を吐く。
「……鬼塚。君の行動は確かに軽率だ。しかし、その根底にあるものは――会社への忠義と仲間を守る意志だと、私は受け取った」
社長の声は低く重く、室内の空気を震わせた。
「一方で……岩隈。君には説明責任があるな。どうしてここまでの不祥事を“独自の調査”などと偽り、私を欺いた? 私は、朝倉が裏社会と繋がっていた事と警察に逮捕されたという話しか聞いていなかったが? 片桐君、瀬名の事故と関係があったと君は知っていたのか?」
「そ、それは……っ」
岩隈の顔色がみるみる蒼白になっていく。
しかし次の瞬間、机を叩きつけるようにして立ち上がる。
「……っ、ふざけるなっ! 全部でっち上げですよ! こんな紙切れや写真、いくらでも捏造できるだろう!! 鬼塚、貴様は私を引きずり下ろすために仲間を焚きつけただけだろう!」
「――……」
「――あの、ちょっといいですか?」
理人が反論するより早く、おずおずと一歩前に出たのは片桐だった。
「鬼塚部長は、元々昇進なんかに興味のない方です。岩隈専務を引きずり下ろすメリットなんて、彼には一つもない。
それに、秘密裏に調査をしていた時だって無償で動いていたと聞いています。私が入院していた間も、全ての仕事を部長が担っていました。彼が謹慎になってから代理で私がやっていますが……正直、到底こなせる量じゃない。毎日残業続きで困っているくらいです」
片桐は苦笑しながらも言葉を続けた。
「それなのに、私たち誰も彼がそんな大変なことをしていたなんて知らなかった。……鬼塚部長にとってはデメリットしかないのに、それでもやり続けた理由が、副社長の椅子を奪うためだなんて、到底納得できません」
「そうなんですよ!」
すかさず東雲が声を上げる。
「俺が何度言っても、『金のためじゃない』って言って報酬0で、仕事の合間を縫って調べてたんです」
さらに瀬名も一歩踏み出した。
「僕たち、みんな部長がいないと困るんです。確かに厳しいし、言い方もキツイです。でも無理難題は押し付けないし、どうしても無理だと判断すれば必ず助けてくれる。……普段はわかりにくいですけど、本当はすごく優しいんです。誰よりも会社のことを考えてる人なんです」
瀬名は社長をまっすぐ見据え、震える声で言い切った。
「今回問題になっている新型の商品だって、僕や片桐さんの敵を討つために……命がけで使ったんです。だからお願いします。部長の謹慎を解いてください。……もしどうしても部長を辞めさせるというのなら、僕も一緒に退職します!」
「お、おいっ! 瀬名……てめぇまで辞める必要はねぇだろうが!」
理人が慌てて声を上げる。
しかし瀬名は一歩も引かず、静かに首を横に振った。
「いいんです。元々、僕は貴方と一緒に仕事がしたくて此処に入ったんですから。貴方のいない会社なんて居ても意味がないですし……」
そう言うと、瀬名は理人を正面から見つめた。
「……僕にとって部長は、もう仕事上の上司という存在を超えていますから」
こそっと付け加えられたその言葉に、理人は一瞬息を飲んだ。
酷いことを言って一方的に関係を断ったのに、まだそんなふうに言ってくれるのか――。
胸の奥が熱くなるのを誤魔化すように、思わずふいっと視線を逸らした。
「……ははっ。随分と部下たちに慕われているようじゃないか」
社長が感慨深げに口を開いた。
その声音には、呆れとも感心ともつかない色が混じっている。
「君がこれまでどういう働きをしてきたか、今のやり取りでよく分かった。――君の活躍は我が社でも一目置いているし、私個人としても高く評価している。元々、君を我が社に引き入れたのは私だからな。それに例の商品だが、警察からの問い合わせがしつこくてね。悪用されないようにする工夫や、精度などはこれからになるだろうが商品化した際には一般に流通させずに警察とだけ契約して、犯罪防止に役立てていこうと思っているんだ。鬼塚君の働きがなければここまで進展はしなかっただろうね」
社長の言葉に室内の空気が少しだけ緩んだ。
だが、それも束の間。
社長は改めて岩隈へと向き直る。
「それに引き換え……」
鋭い視線が岩隈を捉えた。
「専務……貴方には失望した。我が社のために尽力してくれていたと思っていたが……鬼塚君の功績を掠め取り、己の評価を上げるためだけに利用していたとはな。副社長を目指す資格はない。何より、その裏で不正行為を行う人間は私の隣に相応しくない! キミには朝倉と同じ場所に移ってもらう」
「なっ!? 社長……そんな……!」
岩隈は膝をつき、項垂れる。
そして社長は一瞬の静寂の後、ゆっくりと立ち上がり理人の元へと歩み寄った。
「鬼塚君。キミは我が社にとってかけがえのない戦力だ。今回の件は一旦不問とする。もちろん反省文は書いてもらうがね。……改めて言わせてくれ。君のような部下を持てて誇りに思う。今後も期待しているぞ」
差し出された手を握り返し、理人は深く頭を下げた。
「ありがとうございます……!」
その場にいた全員が安堵の表情を浮かべる中、社長は部屋を見渡し宣言した。
「さて。ではこの件はこれにて一件落着とする。鬼塚君には謹慎期間中、溜まっている仕事も多いだろうから早急に元の業務へ復帰してもらいたい。他の者は各自持ち場に戻ってくれ」
解散を告げられ、皆が一礼して部屋を後にした。