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夏目莉央
1,537
131
くま🐻☁️
12
「ほら、あの人よ。朝倉くんの婚約者」
「年上? おばさんじゃん。なんでそんな人選んだの」
社内のどこへ行っても、『朝倉くんと結婚する人』という目で、じろじろと見られてしまう。
昨日、朝倉くんが社長の前で突然、私との結婚を宣言した。
覚悟していたつもりだったけれど、一晩明けた今も、社内の視線は一向に落ち着かない。
時々、朝倉くんを狙っていた女子社員から鋭い視線を向けられることもある。
頭のてっぺんから足先まで見られて、彼に釣り合う人物なのか、査定されているような気分になる。
(悪目立ちしている……。気が休まらない!)
私はいたたまれなくなって、休憩コーナーへ駆け込んだ。
そこに置かれている大きな観葉植物と壁の隙間に身体を滑り込ませる。
廊下からは死角になる場所だ。
人の気配が遠ざかっていくのを感じると、私はようやく小さく息を吐いた。
(昨日の今日だからね。仕方がないのかな)
そう自分に言い聞かせる。
きっと数日もすれば、みんなの興味も薄れていく。
「みんなの興味も、そのうち薄れますよ」
「……え?」
自分の心の声が漏れてしまったのかと思った。
でも、これは。
はっと顔を上げると、観葉植物の影から朝倉祐二がひょこっと顔を出した。
「朝倉くん! いつの間に……」
驚きながらも、すぐに思い出す。そういえば彼の特技は、私の後を追いかけてくることだった。
「こんな隙間に隠れているので、僕と二人きりになりたいのかと思いました」
朝倉くんが、にこりと笑う。そして、じりじりと歩を進めてきた。
私は思わず後ずさる。
「……た、ただの休憩よ」
「甘いジュースですか?」
朝倉くんが自動販売機を指差す。
「違うわよ」
首を振る。
「瞳子さんは最近、甘いものを食べませんね」
「あ、本当ね」
言われてみれば、そうだった。
以前なら、仕事の合間に甘いものを口にしていた。疲れたときには、甘いものを食べることで気持ちを切り替えていたはずなのに。
最近は、それすら忘れている。
色々なことがありすぎたせいで、甘いものを食べたいという欲求さえ消えていたのかもしれない。
「きっと、心が安定したんですね」
「え?」
「辛いことが、すべていい方向に向かっています。瞳子さんは自覚していませんが」
「そう……なのかな」
私は狭い休憩コーナーに身を隠したまま、考えた。
確かに、この数日は私の人生が大きく変わった激動の日々だった。
情けない彼氏との決別。
李人の留学の決定。
そして、想定外だった朝倉くんとの結婚話──。
「あと、素敵な婚約者ができたこと、もですよね?」
「……朝倉くん、私の思考まで読んでいるの?」
思わず呆れた声が出る。
これまでにも、彼には何度も私の考えていることを言い当てられてきた。
いろんな能力を持っている朝倉くんが、実はエスパーだと告白しても、私はきっと驚かない。
「瞳子さんの思考は、手に取るようにわかります」
彼は自信ありげに、にこりと笑った。
「私は単純だものね。仕事と李人を育てるだけの生活だったし。面白味もないもの」
子離れすると決意した途端、それが鮮明に自覚できるようになった。
私は小さくため息をつく。
「……瞳子さん」
朝倉くんの声が、少し低くなった。
「今、僕の心を読んでください」
「え?」
突然、彼が腕を伸ばした。
私のいる狭い空間の出入り口を塞ぐように、腕が壁につく。
逃げ道がなくなった。
朝倉くんの切れ長の綺麗な目が、私をじっと見つめている。
さっきまでの穏やかな笑顔とは違う。
そこには、明らかな色欲が混じり始めていた。
(これは……完全に……したがってるっ!)
そう気づいた途端、頬が一気に熱くなった。
「だめ。こんなところで……」
彼を真正面から見ることができない。
私は精一杯、顔を背けた。
「こんなところで……だめ?」
朝倉くんの声が、どこか甘えるように響く。
「すごい背徳感ですね。余計にしたくなります」
そう言って、私の顔を覗き込んでくる。
「公私の区別はつけましょう。こんなところで……私は無理!」
彼の目を見たら、こっちがトリコにされてしまいそうで怖い。
私は両手で彼の胸元を押し返し、これ以上近づかないように必死で抵抗した。
「いつならいいですか? 今夜ですか?」
「り、李人が無事に留学に行ったら……かな」
しまった。私は、なんて真面目に答えているのだろう。
しかも、実現可能な時期まで具体的に答えてしまった。
それを聞いた朝倉くんが、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「では、今週末ですね!」
「はっ!?」
「僕はてっきり、お預けの遊びをされていると思っていました!」
「わ、私はそんな趣味ないわよ?」
「ありがとうございます、瞳子さん」
朝倉くんの侵入を阻止していた右手を、突然、取られた。
そのまま手の甲に、そっと唇が触れる。
「……っ」
顔を上げると、彼は惚けたような表情を浮かべていた。
けれど、その瞳には明確な色情が宿っている。
「僕も瞳子さんも、お互いのすべてを知ってしまいました」
低い声が耳に届く。
「次にあなたに触れるのが、待ち遠しくてたまりません」
彼と寝た日の出来事が、鮮明にフラッシュバックする。
あのとき感じた体温、すぐそばで感じた息遣い、彼に囲われたときに受けた、圧倒的な色気。
ここが職場でなければ、私は今すぐ、その雰囲気に飲み込まれていただろう。
私だって、もう彼の身体を知ってしまった。
だからこそ、余計に怖い。
なぜ彼がそこまで私を愛するのか、いまだに理由はわからない。
それでも、恐怖を感じるほどまっすぐだった彼の愛は、いつの間にか、もう恐怖を通り越していた。
今の私は、朝倉くんに迫られることを拒みながらも、その一方で、どうしようもなく、ときめいてしまっている。
それが、自分でもわかっていた。