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ジンテラと呼ばれる高地の頂に人が到達した頃の古い空気が澱んでいる。地下深く、煮詰めた糖蜜のように濃く粘り気と湿り気を帯びた闇の中でシャリューレは黴臭い空気を呑む。
チェスタによって地下牢に押し込められてから長い時間が経った。昼夜の移り変わりや営み、交わりのないこの場所では時間さえもが濁った川のように停滞し、澱んでいる。時折運ばれてくる、地下から掘り出したばかりのような味気ない麺麭の数を数えてはいるが、それが日に一度なのか三度なのかすら分からなくなっていた。
シャリューレ自身の体は三重に戒められていた。精巧に錆びた鎖と十二本の星型楔の呪い、そして真の名を握られたことによって、身動きを完全に封じられている。眼が闇に慣れてから己の体を検めようとしたが、縛られていないはずの眼球や舌、指先すら錆びついたように動かせなかった。ただ思考だけは明瞭でほどほどに餓えた二十日鼠のように絶え間なく蠢いた。
シャリューレが闇の中で思うことはレモニカの安否だけだった。仇敵の如く嫌っていて、しかしどうしてもかの哀れな娘を大切に思う気持ちもまた存在する。シャリューレ自身も己の心の奥を覗いていると酒か船の酔いの如く心が前後不覚になり、底にある感情のありさまを十全に把握できなかった。
ふと足音が聞こえる。先陣を勇ましく歩く重装歩兵のような忍び足だ。食事を運ぶ獄吏とは歩調も体重も違う。近づいてくる明かりもいつもの蝋燭とは違って冷たく妖しく青白い。
とはいえ警戒しようにも今のシャリューレにできることはない。ただより良い兆しが表れるのを期待し、見えぬ星と気高い雷に祈るだけだ。
かくして闇の奥から怪火を伴ってシャリューレの前に現れたのは一人の、やはり僧侶だった。ただしいつもの獄吏とは別の不安げな尼僧だ。伴う明かりの正体は切れ端のような蝋燭ではなく、戒められていなければ目を引きつけるだろう鬼火だった。渦巻くような青白い燐光を放ち、蜂の唸るような音を出しながら、尼僧の周囲を漂い巡っている。二人の女と無数の鎖、鉄格子の縦縞の影が周囲を乱舞する。
シャリューレには見覚えのない女だ。柔らかそうな栗色の髪の間に小動物を眺めるような気の抜けた顔貌がある。
現れた途端、現れた側の尼僧が小さな悲鳴を上げてシャリューレから目をそらす。
「すみません」尼僧は目をそらしたまま言う「はじめまして。シャリューレさん、ですね。貴女を逃がしに来ました。あの、お怪我はありませんか?」
いや、特には何も。拷問の一つも無かったからな、と言いたいところだが口が回らない。
「そうでした。すみません。まずは戒めを解かなければ」
そう言って女は携えた鍵で鉄格子の扉を開け、囚人を戒める呪いの楔を一つ一つ解呪していく。その間、時折、鬼火は人に慣れた猿のように尼僧に頬ずりしたり、懐に潜り込もうとしていた。一つ目の楔が解き放たれた時に瞳が、二つ目の楔が解き放たれた時に舌が自由になった。
シャリューレは問いの前に答えで応える。「先ほどの答えだが、とりあえず怪我はない」
「そうですか、良かった。その、まるで磔刑のように戒められているので無惨な目に遭ったのかも、と。考えすぎだったみたいですね」
「何者だ? 何が目的だ? 釈放ではないのだろう?」
「はい。正規の釈放ではありません。何がという訳ではありませんが、そうですね、あえていうなら人情でしょうか。アルメノン猊下に逆らうつもりはありませんが性急なやり方には反対なのです」
それを逆らうというのでなければなんなのだろう、とシャリューレは疑問に思うが考えを改められても困るので黙っておく。その間も青い鬼火は外敵を警戒する蜂のように牢屋の天井近くをぐるぐると巡っていた。
尼僧が全ての呪いを解きほぐすとシャリューレの体は完全な自由を得る。ずっと身動き一つ取れなかったために多少の鈍りはあるが、呪いが残っている様子はない。
「これをどうぞ」と言って尼僧が次々に携えてきた者をシャリューレに手渡す。
シャリューレの剣と僧服に加え、ユカリから奪い取った真珠の刀剣、そして複雑な呪文を事細かく全面に記した石板だ。シャリューレには何の文字かすらも分からない。
「これは何だ? 私の物ではないが」と当然の問いを投げ掛ける。
「それは最新の研究に基づく人造魔導書です。特別な魔術は使えませんが、触媒としては抜群の性能を秘めています。きっと貴女の助けになりますよ。あ、これもどうぞ」
尼僧に手渡されたのはご丁寧なことに石板を持ち運ぶのに便利な革の留め具だった。
この尼僧に何か狙いがあるのだとすればこの人造魔導書なのだろうが、ここで突き返して揉めるのも詮無いこと。後で捨てようと決めて受け取り、剣とは反対側の腰に提げる。
「何かして欲しいことでもあるのか?」
シャリューレは冷たい光を投げ掛ける鬼火を見つめて尋ねた。
「いいえ、何も恩を着せようという訳ではありません。ただここで貴女が死ぬ必要はないと思ってのことです。そうそう、貴女のご友人もこの先のほど近い牢に捕まっています。そちらは貴女ご自身でお救い下さい」
「友人? そうか。ともかく助けられたのだから感謝しよう。ありがとう」
「お気になさらず。私にできることはここまでです。どうかお気をつけて」
そう言って尼僧は静々と脇に避ける。先に行け、という意味だ。
シャリューレは牢屋を出て、行き交うことのできない狭い通路の左右を確認する。左手は壁だった。どうやら牢獄の最奥に囚われていたらしい。右手は暗闇だ。鬼火の明かりで夜目が失われてしまった。シャリューレは右手へと、尼僧のやって来た方へと進む。最後にもう一度尼僧の方をちらと見るが、尼僧は鬼火の方をじっと見つめていた。
巨人の喉の奥のように暗い通路を突き進み、幾つもの空の牢屋を通り過ぎていく。突き当りの上への階段近くの牢屋に囚われている者がいた。ヘルヌスだ。シャリューレと違ってただ牢に入れられているだけであり、その上鉄格子の扉は開いていた。にもかかわらず部屋の隅でうずくまり、何事かをぶつぶつと呟いている。
「ヘルヌス。おい、ヘルヌス。貴様一体何をしている。しゃんとしろ」
シャリューレは牢に入ってヘルヌスの襟元をつかみ、無理やりに立たせる。それでも焦点の定まらぬ瞳で虚空を見つめ、何事かを呟くヘルヌスの頬にシャリューレは平手打ちを食らわせた。
ヘルヌスは雷にでも打たれたように全身を震わせ、ようやくシャリューレに気づく。
まるで魂を奪われたかのように悲痛な血色の悪い面持ちでヘルヌスは言う。「ああ、シャリューレさん。すみません。俺、下賜された剣を奪われちまって。あれが無けりゃ俺は……それに――」
しかしシャリューレは気にせず急かす。「腑抜けている場合に取り戻す算段をつけろ。脱出するぞ。ついてこい」
ヘルヌスに己の剣を渡し、リンガ・ミルを手に階段を上る。降りてきた時よりも素早く駆け上がる。最上段には古びた木の扉があり、その隙間から仄かな日の光が漏れている。出た先はまだ聖火の伽藍の内部だ。明り取りから差す光は冴え冴えしい朝の陽光だった。
暁の漏れ入る薄暗い部屋に十数人の僧兵が待ち構えていた。刃を重ねる相手であればまだしも、既に剛弓を番える者、力を備えた杖を構えて呪文を唱える者がいる。
それでも脱獄者シャリューレにはこの場を切り抜ける覚悟があったので、氷の剣を構えようと前に手をかざした。つまり、半拍の後、僧兵の全てが氷漬けになったのは意図せぬことだった。