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春と呼べる季節もふた月が過ぎ、高緯度のシグニカにおいてもようやく他の土地と遜色のない春の陽気が街の通りを出歩くようになった。春は、南からの渡り鳥を広げた両腕で迎え、目覚ましい緑の野原を色とりどりの花で満たし、南国の温もりを伴う風を街の通りに招き入れ、魂まで凍える厳しい季節を越えて働いてきた者たちに朗らかな夢をもたらした。
ユカリ、ベルニージュ、レモニカは聖ギルデモ市の近くで予定通りにユビスと再会した。正午より少し前から待ち、ちょうど太陽が天頂に差し掛かった頃、駆けてきたユビスに飛びついたレモニカが長毛に巻き込まれた。
三人は誇り高い毛長馬ユビスに跨ってガミルトンの草原を縦断する。シグニカ北西、ガミルトン行政区にある浄火の礼拝堂のほど近く、巡礼者の憩いの街の寺院前広場で、ユカリたちは長椅子に座って待っている。
ユカリはベルニージュの眺める魔導書に記された単語を一つ一つ翻訳していく。魔導書の文字はユカリしか読めない。それは言語能力とは無関係なようで、同じ単語を何度繰り返し教えても、他者には読めるようにならない。そのためベルニージュはいつも魔導書の内容を別の文字で記録し、かつ丸暗記してしまうのだった。
ベルニージュとレモニカの間に座って、ユカリは一口大の鶏肉の包み焼が並ぶ葉の皿を抱えている。朝食でも昼食でもない軽食だ。肉と油の匂いが胃を締め上げる。ユカリとレモニカで包み焼の芳ばしい香りや生地の歯触りの感想を語り、自分が生きていることを忘れて本に没頭しているベルニージュの口に突っ込む。
結局ネドマリアと盗賊団の頭ドボルグは宝石店の隠れ家に戻って来ず、地下室に閉じ込めていたはずの人喰いサリーズことジェスランは大仕事の夜の内に姿を消していた。いつからいなかったのか、誰が逃がしたのか本当のところは分からない。ユカリたちが最も疑っているのは親切だった女盗賊レシュだが、証拠は何もない。
「魔導書が五つ以上あるとはね」とユカリは改めて愚痴る。「なぜか四つだと思い込んでたよ」
「無理もありませんわ」ユカリの隣で焚書官の姿をしたレモニカが同意する。「シグニカの四つの旧王国が古い時代より受け継いでいた秘宝を苦労して集めたのですもの。魔導書が完成しない方が嘘というものですわ」
『至上の魔鏡』、『珠玉の宝靴』、『深遠の霊杖』の羊皮紙、『神助の秘扇』を集めても魔導書は完成しなかった。そこで、杖以外が憑依から解放された羊皮紙ではないからかもしれない、という可能性を考え、ベルニージュの指導の下に実験を行った。
最初は杖の解除方法同様に水に曝したが上手くいかなかった。次に他の重要元素で試してみようというベルニージュの提案を実行する。それぞれの魔導書がそれらの元素に関わっており、火に関わる『深遠の霊杖』が水で解除されるのだから、というわけだ。
『至上の魔鏡』を焼き、『珠玉の宝靴』に風を吹きつけ、『神助の秘扇』を土に埋めた。結果は全て上手くいった。四つの羊皮紙が現れ、宿っていた品から力が失われた。
しかしそれでも魔導書は完成しなかった。
「でも結果的には良かったよ」とベルニージュは慰めるように呟く。「あのまま魔導書を完成させずにシグニカを離れて、後で足りないことに気づいたら目も当てられないからね」
「確かにそうだね。いったいいくつの一部に分かれているのか、確信も無いのに決めつけちゃ駄目だね」ユカリは頷いて自省を示すように言う。「それにしてもシグニカの歴史かあ。四つの王国は統一される遥か昔から相争っていたらしいけど。五つ目以降の魔導書はその動乱の最中に歴史の闇に消えたのかな」
ユカリはそう言ってシグニカの英雄や伝説を思い浮かべる。
勇士ベニンのマニックの森の冒険。
フォルビアの王太子舞い上がり率いる『隠れた谷間の騎士団』による這い蟲退治。
疫病と戦い、裏切りに伏したアグマニカの医療騎士呼び鈴。
彼ら彼女らの遠い世界での活躍に幼いユカリは胸を躍らせたものだが、今まさに彼らの踏み締めた大地を駆けているのだと思うと感慨深いものがあった。同時に華々しい活躍にばかり目を向けていた幼い頃と違って、そこにあっただろう苦難と犠牲に想いを馳せる程度の分別と実感を得た。
ベルニージュがくたびれた羊皮紙に何かを書き記しながら言う。「大頭なる人物がシグニカの歴史に詳しいっていってもね。盗賊の言うことなんてどこまで信じられるものやら」
「仕方ないよ」ユカリは諭すように言う。「シグニカの史料は救済機構が独占してるんだから。口伝に頼るしかない。わざわざ紹介してくれるっていうんだから頼らなきゃ」
盗賊からすれば何も得ることのない仕事だが、ネドマリアへ向けられていた恐怖は健在らしく、彼らは快く相談に乗ってくれた。そしてシグニカの歴史に詳しい大頭を紹介してくれる運びとなった。
鶏肉の包み焼を全てお腹の中に片づけた頃、ドボルグの二人の配下が戻って来る。
「すまねえな。大頭は朝から礼拝堂の方に行ってるらしい。古くからの神官の家系なんだ」と太った男が言った。
「戻ってくるのは夕方になるが、どうする? すぐ近くだが、待つなら大頭の御屋敷にあがらせてもらえるぜ? 女将さんの飯が美味いんだ」と痩せた女が言った。
「いいえ、すぐ近くですし礼拝堂に向かいましょう」とユカリが言うと、二人の盗賊は少し残念そうにしかし素直に頷いた。
五人は馬に跨り、広場を出て行く。
「それにしても閑散としてますわね」とレモニカは呟いて後にする広場を見渡す。幾人かの僧侶が掃き掃除をしている以外は広場で時を過ごす者が見当たらない。
「ああ、まあ。予言の日が迫ってるからな」と痩せた女はユビスの左側で嘲るように言う。「北シグニカの低地はどこもこんなもんだぜ? あたしらは信じちゃいないけどね」
「予言って大海嘯のですか? それは食い止められたって、この街の皆さんはご存じないのですか?」とレモニカは焚書官姿で鉄仮面越しに痩せた女を見下ろして言う。
「知ってるさ。まあ、あれも目の前で見なきゃ信じがたいことだけどな。あれを予兆だとして、むしろ予言の信憑性が増したって輩がいるんだ。今まで予言を信じてなかった連中も猪の群れのように高地へ詰めかけてるらしいぞ」
「一方で街に全く人がいないわけでもない」とベルニージュが街の端までを見通すような目つきで言う。「あれらは救済機構の信徒ではないってわけだね」
「そうとも限らない」とユビスの右側の太った盗賊が言う。「さっきの広場に坊主がいただろう? 奴らが逃げ出すまでは大丈夫ってことだからな。信徒でもまだ低地に残っている者は大勢いる」
「なるほど」とユカリは素直に感心した。「でも予言ってどこまで正確なんですか?」
太った男は唇の端を釣りあげて冷笑的に話す。「少なくとも救済機構は発足以来全ての予言が的中したと言ってるが。海嘯について何の公示もない時点でお察しだな」
空っぽの広場を出て、同じく人通りの少ない大通りを東へユビスの首を向けようとすると、盗賊たちが引き留める。
「何処へ行く気だ? そっちじゃあないぞ」と太った男が言った。
「え? いや、ここから見えますけど」とユカリは疑問を呈する。
確かに大通りを真っすぐ行って、街を出た草原の向こうに浄火の礼拝堂の影が小さく見えた。ひと月ほど前に訪れた一柱の女神と五柱の娘たちが眠る至聖所が地平線の下ぎりぎりに建っている。
「ああ、あれも浄火の礼拝堂だな」と痩せた女が言う。「だけど大頭の居るところは違う。こっちだ」
盗賊たちは大通りを西へと馬の鼻先を向けた。ユカリたちは訳が分からないながらも盗賊たちに従う。