玄関で、湖のほとりの売店で買ったクッキーの包みを差し出した美鈴は、「上がってお茶でも」という姉の誘いを固辞した。
そして、玲が江崎家で暮らしていることのお礼や、日にちはまだ決まっていないが、玲を北海道旅行に連れて行くことなどを話して帰って行った。
「玲くん、よかったわね」
微笑みかける姉に、玲は照れくさそうにうなずく。
仁太は姉に言った。
「僕たちも、お土産にお菓子買って来たんだよ」
「そうなの? じゃあ、お茶にしようか」
三人は、ぞろぞろとキッチンに向かう。
数日後、玲に美鈴から連絡があり、旅行の日程が決まったという。出発は、夏休みが始まってすぐだ。
ツアーだと聞いていたので、長くても、せいぜい三泊四日くらいだろうと仁太は思っていた。
だが、それは思いのほか長かった。さらに、美鈴は北海道の出身だそうで、ツアーに参加した後、二人で美鈴の故郷に行くというのだ。
今はもう、親類縁者もいないが、彼女が育った場所に玲を案内したいのだという。
「よかったね」
仁太は玲にそう言ったが、内心は、少しがっかりしていた。玲と夏休みを過ごすことを、とても楽しみにしていたから。
もちろん、親子が一緒に過ごすことには賛成だ。しばらくの間は寂しいが、帰って来てからでも、まだたくさん楽しい思い出は作れるだろう。
そして、夏休みが始まった。
旅行に出発する前日、開いた襖の向こうで、玲はバッグに荷物を詰めている。仁太は畳に座って、それを見るともなく眺める。
暑いので、昼の間は、襖も、廊下との間の障子も開け放っている。玲が、ふとこちらを振り返って言った。
「あの腕時計、旅行に着けて行こうと思うんだ」
高級な腕時計は、普段使いにするのはもったいなくて、仁太は箱に入れたまま机の引き出しにしまってある。
「玲くんが時計を着けて行ったら、きっとお母さんも喜ぶね」
「それもあるけど……」
「うん?」
「時計を見るたび、仁太くんのことを思い出すよ」
「あ……」
玲が微笑む。
「別に時計を見なくても、仁太くんのことは忘れやしないけどさ」
あぁ、なんてかわいいことを。
感激している仁太に、さらに玲は言った。
「旅行に行ってる間、毎日メッセージを送るね。あと、写真も」
「ホント? うれしい……」
ずっと寂しかった気持ちが、いくらか薄れる。
「僕も返信するよ」
「うん」
玲は、満面の笑みで大きくうなずいた。
その日の朝、仁太は、姉の運転する車で、駅まで玲を送った。美鈴とは、途中の駅で待ち合わせるのだという。
駅前のロータリーで車から降りた玲に、姉が声をかける。
「行ってらっしゃい。思いっきり楽しんで来てね。お母さんによろしく」
「はい。行って来ます。仁太くん、行って来るね」
「うん。気をつけて」
そのとき、後ろから来た車がクラクションを鳴らした。
「じゃあね」
姉が車を発進し、お互いに手を振り合いながら別れた。
家に向かいながら、姉が言う。
「いい旅になるといいわねぇ」
「うん」
「仁太、寂しい?」
「別に」
仁太は、窓の外を見ながら答える。本当はめちゃめちゃ寂しいが、姉にそんなことを言えるわけがない。
それで、ことさら平気なふりをして言った。
「コンビニに寄ってくれる? 今日、漫画の発売日だから」
約一時間後、部屋でコンビニで買ったジュースとスナックをお供に漫画を読んでいると、早くも玲からメッセージが来た。
―― 空港に着いたよ。これから搭乗手続き
すぐに返信する。
―― お母さんとはちゃんと会えた?
―― うん。電車を降りたらホームにいた
そしてすぐに、肩越しに顔だけこちらに向けて微笑む美鈴の画像が送られて来た。
なんだ、早くもいい雰囲気じゃないか。
―― いい旅になりそうだね
―― そうだといいけど
―― そうに決まってるよ
―― うん。じゃあ、また後で
仁太は、スマートフォンを置いて、ごろりと畳の上に寝そべった。
あーあ、まだ別れてから一時間しか経っていないのに、この寂寥感と喪失感はなんなんだ? これから当分、玲とは会えないのだ。
一緒に行くつもりだったお祭りの日も、玲はここにいない。長く退屈な休みを、たった一人でどうやって過ごせばいいというのだ……。
あまりにも暇なので、とりあえず、さっさと夏休みの宿題をやってしまうことにした。なんなら、玲が帰って来たら写させてあげてもいい。
そう思えば、つまらないことでもなんとかがんばれる。
仁太は暇だが、父と兄は、相変わらず仕事が忙しく、ほとんど家にいない。大人は大変だと思う。
姉だって、家でゴロゴロしているわけではなく、広い家の掃除をしたり、炊事や洗濯をしたり、食材の買い出しに行ったりして、それなりに忙しくしている。
それで、久しぶりに本格的に手伝いをする気になり、自然と、姉と過ごす時間が増えた。普段、あまり手をつけない、料亭の名残りの厨房や帳場の掃除も一緒にした。
玲から不定期に来るメッセージが、唯一の楽しみになった。邪魔をしてはいけないと思い、仁太からは送らない。
北海道に着いて最初に送られて来たのは、腕時計をアップにした画像が添えられたものだった。
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