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#王子
すっこ
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碧星_Aoi
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その日の夕方。
西日がリビングを柔らかく染める中、詩乃は積み木で遊んでいる乃亜へ声をかけた。
「乃亜。オムツ替えようか」
その手には、皮膚科で処方してもらった塗り薬がある。
数日前、赤くただれた肌を病院で診てもらった際には、医師から「どうしてもっと早く連れてこなかったのか」と厳しく言われた。
詩乃には謝ることしかできなかった。
乃亜をここまで放っておいたのは自分ではなく、果穂だ。
けれど、果穂の身体でこの子の母親としてそこにいる以上、今は自分が責任を負うしかないと思った。
「ちょっとお薬塗ろうね」
ゆっくりオムツを外し、指先へ薬を取る。
「しみるかもしれないけど……ごめんね」
できるだけ刺激しないよう、擦らずにそっと薬を乗せていくと、乃亜の小さな指が詩乃の服をぎゅっと掴んだ。
詩乃はすぐに手を止める。
「……痛い?」
乃亜は小さく首を振った。
けれど、我慢していることくらい、今の詩乃には分かる。
「もう少しだけだからね」
声をかけながら丁寧に薬を塗り終え、新しいオムツとズボンを履かせる。
「はい、終わったよ」
それでも服を掴んだままの乃亜を急かすことなく、詩乃はその背中をゆっくり撫でた。
「頑張ったね」
しばらくすると、強張っていた小さな身体からようやく力が抜けていく。
腕の中に伝わる乃亜の体温を感じながら、詩乃はそっと目を伏せた。
(この子のためにできることは、全部してあげたい)
果穂がこの子にしてこなかったことを、自分が一つずつ埋めていく。
それがこの身体で生きることになった自分の役目であり、果穂の代わりにできる、せめてもの償いなのだと思っていた。
***
叱られないこと。
失敗しても見放されないこと。
泣いても、怖がっても、そばにいてもらえること。
そんな当たり前のことを一つずつ積み重ねていくうちに、乃亜にも少しずつ変化が現れ始めた。
ある日、いつものように二人で絵本を読んでいた時だった。
「くまさん、ねむねむだね」
詩乃が眠そうなくまの真似をしながら声を変えると、ページを見つめていた乃亜の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
あまりにも小さな変化だったため、見間違いかと思った。
けれど確かに今、乃亜は笑った。
「……乃亜?」
詩乃が思わず名前を呼ぶと、乃亜は何事もなかったように絵本へ視線を戻してしまう。
それでも、詩乃の目にはじわりと涙が滲んだ。
初めて見た、乃亜の笑顔だった。
声を上げて笑ったわけでもない。
ほんの一瞬、口元が緩んだだけ。
それなのに、詩乃には何よりも大きな変化に思えた。
その様子を、一恵はキッチンから静かに見つめていた。
初めてこの家を訪れた日、一恵はまだ果穂を疑っていた。
数日だけなら、いくらでも良い母親を演じることはできると思っていたからだ。
けれど、子どもの反応まで演技で変えることはできない。
母親に触れられるだけで身体を強張らせていた乃亜が、今では自分から服の裾を掴み、その隣で絵本を眺め、ほんのわずかとはいえ笑顔まで見せている。
少なくとも今、この人は乃亜を大切にしている。
数日間二人を見続けてきた一恵の中で、それはもう疑いではなく、確信へ変わりつつあった。
その日の帰り際、一恵は玄関で靴を履きながら、ふと動きを止めた。
「……奥様」
「はい?」
詩乃が振り返る。
一恵は少しだけ言葉を選ぶように間を置いてから、静かに告げた。
「正直に申し上げます。私は最初、幸人様から伺っていた奥様の印象と、実際のお姿があまりにも違うことを不思議に思っておりました」
詩乃の心臓が、どくりと大きく鳴った。
「ですが、この数日間、奥様が乃亜様と向き合うお姿を拝見して、少なくとも今、乃亜様を大切にしていらっしゃることは分かりました」
「……一恵さん……」
「そのことは、私から幸人様へきちんとお伝えいたします」
一恵はそれだけ告げると、いつものように丁寧に一礼した。
閉じていく玄関のドアを見送りながら、詩乃はしばらくその場に立ち尽くしていた。
(綾咲さんは……どう思うのかな)
昨夜までと変わらない冷たい眼差しが脳裏に浮かぶ。
たった数日で信じてもらえるとは、詩乃も思っていない。
それでも、胸のどこかでほんの少しだけ期待している自分がいた。
コメント
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第13話、じんわり温かい読後感でした。詩乃が乃亜のオムツを替えながら「ごめんね」と謝る場面、あの細やかな気遣いが胸に沁みました。何より、ほんの一瞬口元が緩んだだけの乃亜の「笑顔」を、詩乃が涙するほど大切に受け止めた――その描写がとても美しくて。一恵さんが「今は確かに大切にしている」と認めたのも、長く見てきた人だからこその重みがありますね。綾咲さんの冷たい視線はまだ解けないけど、この小さな積み重ねがいつか届きますように。