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受話器が折れるほど握りしめる。そこにアーニャが手を添えた。
「コンクリさんの縁結びがなかったらミューズも生まれなかったわ」
「ちくしょうめ!わかった。俺に何が出来る?」
二つ返事する日向。コンクリ女の作戦はこうだ。壁の街で随一の音楽出版社がある。高額納税者でロビー活動もしている。経営者は岳父の甥だ。そこにパート雇用されたい。
「なるほど。だいたいわかった。俺はそこで音楽をやる。それに音楽をやっていた時はコンクリ女には何もしてやれなかったんだ。アーニャは彼女を守れるか」
「元カノさんでもあるし、複雑なモチベーションだわ」アーニャは支援に及び腰だ。日向はアーニャを励ます。「あの女じゃない。音楽とミューズのためだ」「守るけど、あんまり無茶しちゃって」アーニャは日向に寄ると、「「私が、俺が守る」」互いの声が被ったのだ。
日向が譲るようなジェスチャーをするとアーニャは力強く頷く。日向とアーニャはお互いに思いやった。2人で力を合わせた後、アーニャは「あんたならコンクリ女の思いに応えてくれる」と言った。
あの女を盲信する気はないが監視役と工作員は必要ではないか。
アーニャは音楽出版社に入りたがったが経営難という事には気づかなかった。日向はそれを知りながらアーニャとコンクリ女を手放したいと思わない。アーニャは日向にとって特別な存在だ。
男の抒情もコンクリ女に委ねられる。アーニャの情情も音楽出版社に委ねられる。アーニャはそのためにコンクリ女を失う心配はない。日向はどこでも行くことができる頼りない存在だ。
アーニャの思いが日向の思いを変えることは絶対にない。 コンクリ女の人生のことはアーニャに任せるしかない。結局のところ女子の内密な関係は部外者である日向にとって届かない部分だ。「わかった。お前のやり方に任せる。ただし、しくじるな」日向はしぶしぶ承諾した。
「ありがとう。任せて」アーニャは微笑んだ。
壁の街で進む邪悪な陰謀を潰すためアーニャは会社に就職した。御曹司の親族ジャスパー氏の経営は杜撰に見えて巧妙なからくりが仕掛けてあった。箸にも棒にも掛からぬストリートミュージシャンや地下アイドルを育成目的で大勢抱えている。それを大物ミュージシャンのヒット曲で補填するも収支はギリギリ赤字となっており、そこに街の文化振興予算が注がれ倒産を免れていた。街にはファンキー鉄板溶かしに挑む音楽家が壁向こうから押し寄せる。
流入するモノは楽器やバンドだけではない。
違法なブツが蔓延っていた。コンクリ女の夫セメントと岳父のカッチーニ・コワルスキー代議士はマッチポンプを利用して一儲けを企んだ。壁に税関を設けて不法な取引を厳しく取り締まる。そしてお目こぼしを管理して私腹を肥やす考えだ。面従腹背である。コワルスキー議員は事実上のマフィアを公認する音楽健全法案を提出した。
アーニャはサポートミュージシャンとしてセメントに取り入った。権謀術数はレコーディングスタジオで渦巻く。アーニャが情報収集を担い始めてからコンクリ女に対するDVは減った。
「それでいい。大人しくしてろ」コワルスキー議員が圧力をかけた。アーニャはピアノを弾き、作詞をし、作曲をしたが、編曲はしなかった。セメントが「どうしてなんだ」と聞くと「私、自分の作った曲は自分で歌いたいの」と答えた。「じゃあ、なんのために俺と組んだんだ」と聞くと「私の歌を聴くためでしょ」と返された。ほどなくコワルスキー夫婦の離婚調停が成立した。コンクリ女が夫のDV被害届を取り下げる代わりに口止め料がわりにいくばくかの金を受け取った。
アーニャはアーニャでコンクリ女との関係を気にしていたのだろう。
ミューズを保育所に迎えに行った帰り、アーニャが謝ってきた。「気にするな。俺達はもう家族じゃないか」日向が言うとアーニャは「そうね」と微笑むと日向に抱きついた。アーニャはコンクリ女と定期的に連絡を取っていた。日向は「あまり沼にはまるな」と釘を刺す。ある日、アーニャは「あの人、結婚したいらしいわよ」と報告した。日向は驚くと同時に安堵する自分に気付いた。そして思ったのだ。
この感情は何だろうと。アーニャが言った通りコンクリ女が結婚することになった。相手は同じレコード会社の社員だ。凡庸で野心もない人畜無害で面白味のない人物だ。セメントが手配したのだ。ただし、彼は仕事のできる男だった。
結婚式当日、日向は式場にいた。アーニャは来ていない。日向は受付係をしていた。日向はアーニャに手紙を渡した。「コンクリ女へ」と書かれた封筒だった。アーニャは会場の外で待機した。会場のドアが開くと、そこにはタキシード姿のコンクリ女がいた。彼女は日向の手紙を読むと泣き崩れた。アーニャはマイクを片手に舞台に上がった。「皆さん、今日はコンクリ女さんの結婚式です。新郎新婦はご存知の通り同じ職場で出会ったそうです。
しかし、それだけではありません。かつて、彼女、コンクリ女さんはバンドを組んでいました。ドラム、ベース、キーボード、ボーカルの女性4人組のロックバンドでした。しかし、そのバンドは解散してしまいました。原因は音楽性の違いでした。その後、コンクリ女さんは、ミュージシャンを諦め、作曲家になりました。しかし、作曲家として成功することもなく、失意に暮れていました。そんな時、彼女の前に一人の男性が現れました。彼はコンクリ女さんが作った曲に惚れ込み、プロデューサーを名乗り出たのです。コンクリ女さんはその申し出を受け、二人で一緒に夢を追いかけることになりました。しかし、その道は長く険しいものでした。それでも二人は歩みを止めませんでした。
苦難を乗り越えて、ようやくゴールが見えてきました。それは二人の愛の結晶である娘の誕生でした。しかし、娘の出産を機にコンクリ女さんは体調を崩してしまいました。入院生活を余儀なくされ、音楽活動ができなくなってしまいました。娘は母親のいない生活をスタートさせました。しかし、それも長くは続きません。
娘は母親に会える日を待ち望んでいます。娘は毎日のように会いに行きたいと口にします。それを聞いた父親はある決断を下します。それは、娘の願いを聞き届けてあげることでした。こうして、二人は親子水入らずの時間を過ごすことになりました。一方、コンクリ女さんは、体調が良くなり、再び音楽活動ができるようになりました。
そして、音楽活動を再開し、新しい一歩を踏み出そうとしています。今、ここで皆様にお伝えしたいことがあります。実は私達の娘が生まれて間もなくのことです。私は夫と共にとあるライブハウスを訪れました。そこは以前コンクリ女さんが所属していたバンドのライブが行われた場所でした。そこで、私達の目の前には信じられないものが映り込んだのです」アーニャは語り出した。「私達が見たもの、それは、ステージに上がるコンクリ女さんの姿でした。
そう、彼女は戻ってきたのです。私達と同じ場所に立ち、音楽を始めたのです。そう、彼女は帰ってきたのです。私達とまた一緒に歩むために……」アーニャは一呼吸置くと「ここにいる皆さんのおかげです。本当にありがとうございます」と深々と頭を下げた。「これからもコンクリ女さんとカクタス氏の活躍に期待してください」
アーニャが言い終えると拍手が沸き起こった。「コンクリ女さん、おめでとう」「カクタス、果報者だな」「コンクリ女さん、最高!」祝福の声が上がる中、コンクリ女は大粒の涙を流した。
「おい!勝手なことを言うな」会場にコワルスキー親子が駆けこんできた。コンクリが産後鬱になった話は出鱈目だ、再婚をお膳立てしてやった恩義を忘れるな、とセメントが吼えた。「おい、余計なことを言うな」、とカッチーニが燃料を投下した。「だって。父さん。俺との関係をなかったことにするとかねーよ。くそアマ」セメントはさらに墓穴を掘りまくる。言うまでもなく会場は騒然とする。「「噂はやっぱり本当だったのか!」」
SNSにはセメントに対するDVや言論封殺など様々な悪事を揶揄する音楽がアップロードされている。それらはアーニャがジャスパー音楽出版所属の若手ミュージシャンに提供したものだ。主語や目的語をコワルスキー親子に当てはめれば醜聞が成立する仕掛けだ。だからアーニャはアレンジの仕事を一切断りシンガーソングライターに徹していた。ほどなく、セメントは元妻に対するDV容疑、コワルスキー代議員とジャスパーは金脈問題で訴追された。
ジャスパー音楽出版は大きすぎて潰せない。まず所属ミュージシャンの処遇が大変だ。
事業は別の会社に譲渡され当面の間は継続することになった。腐敗一掃に貢献した楽曲は後味の悪さもあってお蔵入りになった。アーニャはめげずに封印作品の埋め合わせしたが日向は面白くない。「マネジメント契約は制約が多いわよ。今のままが自由でいいじゃない」説得しても日向は首を横に振るばかりだ。
ギャラの取り分が減るというのに、何か裏がありそうだ。アーニャには日向が音楽出版社に入りたがる理由を知る権利がある。「カネの問題じゃない。俺はお前やコンクリ女と一緒に演りたいんだ」「サポートじゃ不満?」「前列に立ちたいんだよ」「じゃあ。オーディションに受からなきゃ」
「できりゃ苦労しねえよ」日向はギターを叩きつけた。アーニャはいつか日向と共に音楽出版社に入りたいと思う。この人の音楽性はファンキーより鉄板なロックだ。音楽出版社もアーニャがコンクリ女のもとから離れるよう日向に懇願してきたはずだ。いったい何が悪いのだろう。