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朝の光はまだ薄く、倉庫の中に差し込むそれは冷たい鉄のように硬質だった。アマリリスは壁際に立ち、手元の装備を確かめていた。革のベルト、短剣、銃。そして机の上には小さな黒いトランシーバーが置かれている。無骨な機械音を一度だけ確認してから、彼はそれを腰のポーチに差し込んだ。背後から聞こえるのは、エルクスの声。
「アマリリス、また一人で行くつもりか?」
振り向かずに彼は答える。
「索敵だ。今のところ大きな動きはない。でも…あの気配は消えてない。誰かが見てる。」
エルクスは短く息を吐き、腕を組んだ。
「だからこそ、単独行動は危険だと言ってる。」
だがアマリリスはもう、壁際の影に足を踏み出していた。キヨミが小さく苦笑する。
「エルクスは心配性だよ。」
ミアは黙って手を振るだけ。トランシーバー越しに通信する準備を整えながら、アマリリスは扉の前に立った。金属製の扉が軋む音を立てて開き、外の風が一気に流れ込む。倉庫の外は朝靄が漂い、道路の端には昨夜の戦闘の痕跡がまだ残っている。焼け焦げた壁、散乱した神秘の粉の結晶片。それらを踏みしめながら、アマリリスは小さく呟いた。
「…今日は、静かすぎるんだ。」
そう言い残しアマリリスは倉庫の外に出た。
彼女の足取りは軽やかだが、視線は鋭く周囲を捉えている。街の境界線を抜けると、途端に空気の密度が変わる。風が止まり、鳥の声すらない。街の外れは朝のざわめきから切り離されたように静かだった。舗装の割れた道を踏みしめるたび、砂埃がわずかに舞う。アマリリスは足を止め、空気の流れを読むように一度深く息を吸い込んだ。
遠くで工事の音が微かに響くが、この一帯だけは音が沈んでいた。何かがおかしい。風の流れが不自然に偏っている。銃に触れた指が、自然とホルスターの上で止まった。わずかな金属のこすれるような響きが耳の奥に届く。アマリリスは体を低くして、視線を路地裏へ向けた。その奥、影の中に一人のタコが立っていた。
穏やかな表情。どこかの商人のような軽い服装。手には小さな木箱を提げている。アマリリスは声をかけた。
「……何をしてる。」
その声にタコがゆっくり振り返る。笑っていた。だがその笑みには温度がなかった。
「ああ、すみません。ちょっと配達を。」
淡々とした声だった。しかしてアマリリスこの声を自らとは重ねなかった。アマリリスはその足を一歩踏み出す。
「この辺は配送ルートじゃないはずだ。」
タコはため息を吐いたその瞬間、空気が裂けた。木箱が地面に落ちるより早く、タコがマントを翻した瞬間、閃光のような衝撃が彼の目の前を通過した。アスファルトが抉れ、粉塵が舞う。アマリリスは反射的に身を翻し、物陰に滑り込んだ。壁に焼け焦げた跡。目測では……銃弾だ。アマリリスは静かにホルスターの留め具を外す。金属の冷たさが掌に馴染む。
「……チーターか。」
呟いた瞬間、再び衝撃音。見えない弾丸が空気を裂いて通過し、背後の壁を穿った。視線を巡らせる。タコ、いや弾丸のチーターは笑っていた。まるで試しているような、底の見えない眼。アマリリスは遮蔽物から身を乗り出し、狙いを定める。
トリガーに触れる指は正確だ。呼吸を整え、一瞬の静寂の中で時間が伸びたように感じた。そして発砲。閃光が走る。だが弾丸のチーターの姿はすでに消えていた。次の瞬間、背後。風が動く。アマリリスは咄嗟に振り返り、蹴りで間合いを取る。空中で何かが閃き、彼の髪の一部が切れた。反射速度が異常だ。相手は攻撃を「見てから」避けている。
アマリリスの眼が鋭く細まる。彼はすぐに位置を変え、銃口を地面へ向けたまま呟いた。
「その速さ……弾丸そのものってわけか。」
チーターは一歩前に出る。地面がひび割れる。
「見事ですね。あの距離から私を捉えようとしたのは初めてだ。」
声に僅かな愉悦が混じる。アマリリスは答えない。指先が再び引き金を撫で、次弾を放つ。反動と同時に動く。煙の向こう、視界の隅で何かが光った。弾丸のチーターが腕を振ると、空気が弾けた。彼の攻撃はただの高速移動ではない。周囲の圧を利用して衝撃波を生む。視界が揺らぎ、アマリリスの外套が裂ける。咄嗟に地面へ滑り込み、片膝で体勢を立て直す。呼吸が荒くなるが、目は死んでいなかった。
「どうして逃げない?」
チーターが問う。
「逃げる理由がない。獲物を逃す方が面倒だ。」
アマリリスの声は静かで、しかし底に火があった。再び銃口が閃く。連続射撃。弾丸が空気を裂き、相手の足元を貫く。チーターの足が止まる。だが致命傷ではない。数秒の沈黙。風が止まる。アマリリスはその隙を狙って距離を詰めた。
ホルスターに銃を構える。刹那、互いの影がぶつかり合い、火花が散った。鉄同士のぶつかり合いとは思えない音が路地に響く。チーターの口元が歪む。
「やはり面白い……あなたが『不正者狩り』の一人、ですか。」
低く丁寧な声が、雨上がりの舗装路を撫でた。
「……誰が言ったか知らねぇが、その名前を軽々しく出すな。」
アマリリスは手元のブラスターをゆっくりと構える。相手の姿勢に油断がない。どころか、周囲の壁に不自然な光沢が一瞬、走った。
「警戒が早いですね。けれど……あなたの反応速度は計算済みです。」
言い終えると同時に、地面のアスファルトがわずかに盛り上がり――そこから銃口が咲くように現れた。パンッ、と乾いた破裂音。アマリリスは反射的に横へ跳び、肩口をかすめた弾が壁に突き刺さる。その瞬間、今度は壁面からもう一つ、銃口が突き出された。
「壁と床、どちらも射線なので、悪しからず。」
弾丸のチーターの声は静かで、それが余計に神経を削る。アマリリスは歯を食いしばり、脳内で距離と角度を計算する。周囲に点在するのは古びたコンクリの建物と、鉄柵の崩れた通路。射線を遮るものが少ない。
「……この街の地面が味方ってか。厄介な能力だな。」
彼の独り言に、バレルは小さく頷いた。
「能力とは、本来そうあるべきです。世界を利用し、支配するために。」
その言葉と共に、三つの銃口が同時に床面からせり上がる。アマリリスは即座に前転、弾丸が空気を裂いて背後を抉る。反撃の弾丸が放たれるが、バレルはまるで重力を無視したように壁を蹴って跳ね上がり、着地と同時に別の壁面へ手をついた。その触れた箇所から、再び銃口が生まれる。彼の体が触れた面すべてが、殺意の出口に変わっていく。
「どこを撃つ?」
「どこでも、です。」
アマリリスの背後で弾丸が爆ぜ、路地の壁が砕け散る。粉塵が立ち上り、アマリリスは咄嗟に蹴りを入れ、粉塵を故意に巻き上げる。視界を遮ると同時に、チーターの射線の確認を阻害する狙いだ。チーターの声が霧の中から響く。
「隠れるのは賢明です。しかし……」
その足元の石畳の隙間から、光が滲み出る。弾丸の光。アマリリスはすぐに跳び上がり、着地と同時に手榴弾サイズの閃光弾を投げた。閃光が路地を白く塗りつぶす。チーターが一瞬だけ目を細める。そのわずかな間に、アマリリスは壁を蹴って距離を詰めた。ナイフの切先をチーターの胸元へ突きつける。
「……詰めが甘いな。」
「いえいえ……。」
バレルの足先がかすかに壁面に触れる。そこに銃口が浮かび上がり、アマリリスの脇腹へ向けて火花を散らした。至近距離。アマリリスは反射で体をひねり、撃たれる瞬間に銃を斜め下に突き出した。光弾が銃口ごと地面を吹き飛ばす。爆風に二人とも巻き込まれ、煙と瓦礫が散る。
「はぁ……やっぱ、楽じゃねぇな……。」
アマリリスは荒い息を吐きながら立ち上がる。バレルも肩で息をしながら、壊れた壁を背に立っていた。
「なるほど。さすが狩人。久しぶりの戦闘でしたが……。撃たれても、即座に環境を読んで潰すとは。」
「お前もな……反応速度が尋常じゃねぇ…。」
二人の間にまた沈黙。雨上がりの水たまりが二人の影を歪める。
「私の能力を知って知った所でどうする事もできない…。」
アマリリスは無言で銃を向ける。その照準は周囲の壁。トリガーを引く。閃光が走り、次の瞬間、バレルの射線が消えた。周囲の壁と床が一斉に崩れ、銃口を生み出す「面」そのものが破壊されたのだ。
アマリリスはすぐさま踏み込み、発砲。しかしバレルはその瞬間、微笑んだ。
「ふふ……やはり面白い。あなたのような狩人がこの街にいるとは…。」
背後の残骸に手をつけ、最後の銃口を生成する。だがそれは撃つためではなく、爆煙を巻き上げて逃走するための陽動だった。煙の中でバレルの声だけが響く。
「またお会いしましょう。不正者狩りの方。」
煙が晴れたときには、彼の姿はどこにもなかった。アマリリスは銃を降ろしホルスターに入れ、静かに息を吐く。
「……くそ、逃がしたか。」
その声だけが、ひどく陽光に照らされた。
アマリリスは狭い路地を抜けながら、瞳を細める。陽の光が反射して視界が滲む。コンクリートの壁は照り返しで熱を帯び、風も生温い。数時間前の戦いから、もうずっと走り続けている気がした。弾丸のチーターの気配を追い、街の端から端までを駆け回った。屋上に上り、市場を抜け、地下鉄の入口を覗き、工場跡にも足を踏み入れた。
だが、どこにもいない。まるで地面に溶けるように消えた。アマリリスは足を止め、呼吸を整える。額の汗を手の甲で拭いながら、舌打ちをする。まるで空気そのものが敵に変わったようだ。すべての音が遠く、世界が薄い膜を張ったように感じられた。人通りの多い通りへ出ても、違和感は消えない。
誰もがただの日常を過ごしているように見えて、その中にひとり、異質な存在が混じっている気がして仕方なかった。頭の奥で、あの低い声がまだ響いている。
やはり面白い……あなたが『不正者狩り』の一人、ですか。
あの余裕の笑み、正確すぎる銃撃。地面を踏むたび、記憶が蘇る。あの瞬間、確かに自分は狙われた。目に見えない射線を読まれていた。今もどこかで、照準を合わせられている気がする。アマリリスは軽く首を回し、周囲を見回した。建物の影、電線の上、看板の裏。どこにも不自然な気配はない。けれど、「いない」と断定する自信もない。
もし本当にあれが分裂体を作れるタイプの能力者なら、すでに別の場所に逃げている可能性もある。いや、逃げたのではなく、「最初から追わせていた」のかもしれない。そう思うと、喉の奥が乾く。拳を強く握る。指先に力が入る。悔しさよりも、妙な違和感が心に残っていた。あれほどの実力があるなら、なぜ自分を殺さなかったのか。ただ逃げただけとは思えない。狩りのつもりで挑んだはずが、気づけば“試されていた”ような感覚だけが残っている。アマリリスは空を見上げた。
昼の太陽が真上にあり、白く燃えている。照りつける光に目を細めながら、呟いた。
「……あの野郎…!」
苛立ちとも悔しさともつかない声だった。昼の喧騒が遠くで響く。車の音、子どもの笑い声、店の呼び込み。それらが現実感を持たず、どこか別の世界の音のように聞こえる。結局、どれだけ探しても成果はない。何も掴めず、何も残らない。アマリリスは仕方なく倉庫へ戻ることを決めた。靴底がアスファルトを叩くたび、熱が伝わる。息が熱く、喉の奥が焼けるようだった。道の端を歩きながら、何度も背後を振り返る。そのたびに誰もいない。だが、誰もいないことが余計に不安を煽った。
何もないことが、最も不自然だった。倉庫街に入ると、空気の質が変わった。静かで、風の通りが悪い。油と鉄の匂いが強くなり、遠くで金属の軋む音が響く。あの重い鉄扉が見えてきた時、ようやく少しだけ気が緩んだ。昼の光を反射して鈍く光るその扉が、まるで現実への帰還地点のように感じられた。手を伸ばす前に、アマリリスはふと立ち止まる。何かを感じた。視線。ビルの屋上、クレーンの影、積まれたコンテナの隙間。ほんの一瞬、何かが動いた気がした。息を殺し、数秒、目を凝らす。
しかし、見えるのは熱で歪む空気だけだった。アマリリスは小さく息を吐き、扉に手をかけた。軋む音と共に、薄暗い倉庫の中から、涼しい空気が流れ出てくる。中には既にエルクスとミアの姿があった。二人とも作業台の前で何かを整理している。アマリリスの姿を見て、エルクスが顔を上げる。
「戻ったか。」
「ああ。」
その一言に、すべての意味が込められていた。ミアが少し眉をひそめる。
「見つからなかったの?」
「……いや、いたさ。ただ、いなくなった。街から消えたように。」
アマリリスは短く答え、壁際の椅子に腰を下ろす。鉄の椅子が音を立てた。しばらくの沈黙。風の音も届かない倉庫の中で、時計の針の音だけが響いた。アマリリスはふと、外の明るさを見た。昼の光が扉の隙間から射し込み、埃が浮かんでいる。その埃のひとつひとつさえ、何かの視線のように感じる。彼は低く呟く。
「……まだ、この街にいる。」
誰に言うでもなく、ただ確信のように。
スロスはまた当てどなく街を彷徨っていた。午後の光が建物の側面を斜めに削り取り、薄く埃の舞う空気が路地を満たす。彼女の歩みは目的を欠いた無造作さを装っているが、その目は休むことなく周囲を探り続ける。人々の生活音、遠くで鳴る電車の低い唸り、路地の奥から届く忘れられたラジオの断片的なメロディー、普通なら雑音となるそれらを、スロスはひとつの地図として脳内に編み上げてゆく。
幼い顔立ちに似合わぬ冷静さで彼女は地面の小さな痕跡を拾い、濡れた舗道に残る靴跡の向きや、壁についた擦れ跡の高さから「最近ここを通った者」の数を推定する。狩るべき対象が出入りした痕跡は、彼女にとってはただの合図に過ぎない。合図があれば刃は自然に反応する。刃を抜くための言い訳は不要だからだ。路地の角を曲がると、薄暗がりに低くうごめく影が見えた。
普通の視力では判別しにくいほどに朧げなその輪郭は、スロスにはすぐに「標的」として認識された。彼女は瞬きをして視界を細くし、影の微かな鼓動を聴き取るようにして立ち止まる。呼吸は浅く、刻一刻と変わる気配の中で彼女の身体は静かに構えを取った。ナイフは腰の鞘にしっかりと収まったまま、その存在だけが冷たく示される。刃を抜く音を立てる必要はない。動きは瞬発的でありながら無駄がなく、刃先が短く出るその一連の所作は、長年の習慣のように自然だった。
すれ違うような角度で、刃が短く滑り、その先にあった影は足を止め、やがて動かなくなった。倒れるのではない、ただ動きが消えるのだ。血の匂いも叫び声も伴わない静けさが残り、スロスはそのまま歩を進める。彼女にとってそれは日常の断片であり、感情の起伏を生む出来事ではない。だがその冷淡な反復の中にだけ、わずかな安心が宿ることを彼女自身が認めている。時折、視界の端で別の影が瞬きをする。小さな集団だ。見捨てられ、親元と離れたようにふらふらと動くそれらは、どれも力が均されていて、だが数が揃えば侮れない。スロスは一呼吸置き、相手の動線を見極める。蹴りや斬撃を交えた大胆な演出はしない。
彼女の攻撃は短く、正確だ。相手が振り向く僅かな間に、刃は関節部を狙って入る。倒すというよりは動きを断つ、という表現が正確かもしれない。動きが止まるたびに、路地には小さな静寂が積み重なっていく。それらを確認するかのように、スロスはわずかに身体を傾ける。倒れた影の数を数える習慣はないが、頭の中には自然に数が刻まれる。狩りを続けること自体が、彼女の生体リズムを調整している。
古い慣れがその動きに宿っているのを、たまに街行く誰かが目撃しても、それは単なる「妙な男の子」か「風変わりな少女」程度にしか受け取られないだろう。スロスは周囲の視線を気にしない。彼女が気にするのはただ、歪んだものを正すことだけだ。路地を抜けて、人通りの少ない裏通りに出ると、街灯の黄色い光と淡い夕陽が混じって不思議な色合いが生まれていた。彼女は立ち止まり、空を見上げる。雲は薄く、風は冷たい。過去の記憶が時々視界に忍び寄るが、スロスはそれをじっと受け流す。
感情は干からびているように見えるが、その中にひとつだけ消えない小さな核がある。かつての家族のこと、狂わされた日常のこと、それらは彼女の言葉にはならないが、刃先の先には確かに刻まれている。だが今日は思い出に浸る時間ではない。彼女は再び歩き出す。狩りの対象は街のどこかに潜んでいる。噂や掲示板、テレビの断片が示す方向性はある程度つかめているが、スロスはそれらに頼り切らない。
足で探し、鼻で嗅ぎ、耳で探る。路地の奥で、床に散らばった小さな砕けたガラス片が光を反射している。その散乱の仕方から、最近そこを通った者が駆け足だったことが分かる。スロスは足を止めずに斬り込みの距離を取り、たちどころに刃を振るう。相手の反撃の隙をつくのではなく、最初の一撃で動きを封じる。生々しい叫びは上がらない。静かな抵抗の所為で時折薄い呻きが漏れることがあるが、スロスはそれを受け止める余裕も興味もない。
ただ、刃が仕事を終えたことを確認すると、彼女は次へと向かう。通りすがりの窓からは商店街のざわめきが聞こえる。イカタコは夕食の支度をし、子どもは宿題をし、テレビの中ではいつもの顔がニュースを読み上げている。だがスロスの世界はそこから少し外れている。彼女にとって街の営みは景色の一部であり、歪んだ存在をただ一つずつ整えてゆくためのキャンバスだ。
時折、彼女は後ろ手に回してナイフの柄を撫でる。刃の冷たさが残る感触は、彼女が生の存在を感じるための手段でもある。そうして歩いているうちに、角を曲がった先で小さな広場が見えた。影はまばらで、古い噴水は水音を落としている。そこに立ち止まったスロスは、ふと自分がこの街で何を求めているのかを問い直す。仲間か、それともただの静けさか。それを測る術はないが、彼女はただ歩き続けることしか知らない。刃はいつでもすぐ手に届くところにあり、街の影が彼女を呼べば、彼女はまた動くだけだ。
夜が更ける前、スロスは最後にもう一か所だけ周囲を確かめ、背筋を伸ばして歩き去った。その背中は、冷えた空気の中で小さく震えて見えたかもしれないが、それは誰にも気付かれないまま闇に溶けていった。