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床を打つ機械音と鎖の金属音が遠ざかる中、導線の網が微かに脈打ち、結晶の脈動が増していく。アークの身体は固定具にしっかりと縛られているが、そこに繋がれた細い金属の指先が皮膚を冷たく撫でるたび、皮膚の下に眠っていた光が微かに瞬く。だが今回、光は外側へではなく内側へ流れていく。
目に見える「神秘」が体の表皮や筋肉の隙間、脈打つ血管の縁にうっすらと滞っている様子は若い者には珍しくないが、アークにとってそれらは単なる外殻に過ぎない。増幅室の装置は、その外殻から直接に、体の深部へと触手を伸ばすように設計されている。冷たい導線が肩から胸の奥へ、肋の間を伝い、腸の表面を這い、最終的に頭蓋と脊髄の付け根で一つに集束する。
神秘は光の粒子というよりは、粘度を持った冷たい液体のように、骨格の彫刻を伝って滑り込む。だがここが重要だ。今回の強化は単に外に吸い出す工程ではない。神秘はアークの身体を移動し、位置を変えることで働き方を変える。
装置はまず皮膚表層に滞留した「安定の層」を静かに解きほぐし、次にそれを内向きの流路へと誘導する。流れは孵化する電流のように静かに始まり、やがて節目を越えると勢いを増す。チーターはその始まりを、冷えのように感じたのだと言うだろう。手先から胸にかけて、薄い氷が張るような、あるいは身体の中の空間が一度縮むような感覚。だが同時に、思考は奇妙に研ぎ澄まされる。
神秘が外縁から内核へと寄せられると、周縁の鈍い雑音がそぎ落とされ、観測可能なものと観測されざるものの境界が鋭くなる。導線の脈動に合わせ、神秘は筋や神経の走行に沿って流れ、時折微細な火花となって神経節を刺激する。その刺激は痛みに似ているが、痛みが脳を攫うような占有をせず、むしろ瞬間ごとに鮮明な像を数枚ノートに書き付けさせるような冷徹さを持っていた。
チーターは目を閉じていたが、視界の裏側では稲妻の軌道が瞬き、過去の動作が解像度高く再生される。名前、風の匂い、子供っぽい喧嘩の記憶、あるいはただ今はまだ言葉にしない生の断片、それらを彼は一つずつ心の内に固定していく。なぜなら、装置は神秘を根こそぎ吸い取る設計だが、丸裸にされた理性がそのまま流れ出すことをチーター自身、そしてあの男は望んでいない。だからその速度の制御が要になる。
神秘を引き抜くことは同時に、理性の均衡を保っている無形のクッションも削り取ってしまう危険を孕む。取り出す量と速度、そしてその間に被験者が自我を保てるかどうかは、まるで刃物で櫛を通すかのように繊細な調整を必要とする。補助個体たちの機械の針が震え、数値が刻々と動く。
チーターの体内で、神秘の流れは外側の「抑止」と内側の「潜在力」を同時に撹拌する。抑止はこれまで彼の暴走を未然に抑えてきた錨であり、潜在力はその下で眠っていた獣のような振る舞いそのものである。装置が取るのは、その抑止のうち過剰に余剰な部分だけを端的に外へ逃がすこと、そして残された核に向けて神秘を偏らせることだ。
言い換えれば、彼らはアークの体から「中和剤」にあたる層を慎重に剥ぎ取り、残った核の力が暴発するのではなく、鋭く濃縮されて統御されるよう導こうとしている。流れはやがて脊髄の深部へ到達し、そこからは感覚が歪むほどに速い。電光は神経幹をなぞり、記憶の回路を短く結びつけ、身体に刻まれた動きの履歴が即座に書き換わる。
チーターは歯を噛み、胸の奥で小さな呟きを繰り返す。呟きは単語でもなく祈りでもなく、自分の存在を示す磁石のようなものだ。そこに彼の理性が掛かり、流出を止めるための鍵となる。男はその呟きを確認して一瞬だけ眉を上げる。そう、彼らは理性を保たせるための引き金を被験者自身に握らせる。外から与えられるのではなく、自らが意識を繋ぎ止める。これが、理性を保ったまま神秘を極限まで抜き取る術だ。
引き抜かれる神秘は結晶へと導かれ、そこに溜められる過程で、流れてくる光は濃度を増していく。その流速が一定の閾値を超えたとき、アークの内部では静止と狂気の境界が一瞬だけ波打つ。脳裡に因子のうねりが走り、鳴り止まない囁きが幾重にも聞こえる。
しかしチーターはそのうねりを逆手に取り、囁きのリズムに合わせて自分の筋肉と神経のタイミングを再刻印する。神秘は体を抜けながらも、抜けた軌跡に新しい溝を残す。溝の形は稲妻の走りや、鋭角な動作のスケッチとなり、彼が次に動くべき角度を予め刻み込んでいく。
やがて外に吸い出され尽くしたかに見える瞬間、その「抜けた空間」は力の刃を研ぐための鍛冶場のように静かに熱を持ち始める。以前は神秘に押さえつけられていた内側の震えが、制御された振幅として戻ってくる。チーターは息を整える。筋肉が以前より軽く、しかし確実に強くなっていることを感じる。
雷の出所はもう外側の神秘ではない。彼の意思が直接的にそこを掴み、形を与えられる。痛みは残るが、それはもはや支配されるものではなく、彼が使いこなすための触覚だ。結晶に満ちた光が収束していく中、男の扇の影が一度ゆらりと動き、冷たい声が落ちる。
「良い。耐えた。だが忘れるな、理性を保て。ただ力が増しただけではすべてを得たことにはならん。使い方を誤れば、その力はお前を食らう。」
アークは小さく笑い、声を返す。
「食われるなら先に食ってやる。俺は吠えるだけの犬じゃねぇからな。」
胸の奥で残された僅かな神秘が再配分され、彼の意思に従って編まれ直される。導線のモニターが安定域を示し、装置の針はゆっくりと戻る。アークは立ち上がり、筋の動き一つで稲妻を掌に収める。光はもはや彼を支配せず、彼が光を支配する。深く吸い込み、アークは外の空気の匂いを確かめた。
増幅によって削がれたものは確かにある。穏やかな余剰や、無為の時間の流れ。しかし代わりに得たのは、理性が留まる刃だった。男は暗がりから一歩前に出て、扇をくるりと回しながら低く言った。
「お前に名をやろう。アークだ。その一瞬の輝き。覚えておけ、それが今のお前だ。」
アークはゆっくりと顔を上げ、疲れたように笑う。
「アーク……悪くねぇ名前だな。忘れねぇよ。」
彼は笑った。アークは雷を遊ばせるように小さな閃光を吐き、答えた。それに男も呼応する。
「行け。街で暴れろ。電力を奪い、神秘を乱せ。バレルと合流し、混乱を拡げろ。それが最初の仕事だ。」
アークは一言も返さず、ただ肩を回し、指先から微かな稲妻を散らして笑う。
「了解だ。」
男の瞳が細まり、微笑む。
地下の空間に静かな笑いが広がり、導線の青白い脈動がゆっくりと落ち着いていった。
昼の人波から離れるように、アークは男の示すした方向へと自然に身体を傾けた。交差点の喧騒が背中を押し、日差しがアスファルトを焼く音がするような昼下がりであっても、アークはあくまで自然を装う。
あるタコが首を振ることなく、低い声で「こちらへ」と一言だけ囁いたのを合図に、アークはすぐそばの細い路地へ滑り込む。路地の入口には古い自転車置き場があり、広告の剥がれた掲示板が風に揺れるが、人通りの多い通りから一歩入るだけで空気はたちまち変わり、人の視線は薄くなる。
だがアークは背後に立ち返ることなく路地を進む。その歩調は雑踏のリズムとは違い、互いの呼吸を乱さぬようにゆっくりで、だが確実に距離を縮める。タコの靴音は軽く、アークのそれは低く重い。アークの体表を走る微かな電流が、路地の静けさの中でささやかな羽音のように聞こえる。
二匹は路地の奥、視界が建物の壁に遮られ、人の目から完全に外れる地点で立ち止まる。そこはごく短い抜け道で、壁に掛かった古い排気口から小さな風が噴き出し、紙屑を震わせていた。タコは一瞬周囲を見回し、視界の外の軒先や窓の反射まで目を配る。誰かがこちらを覗いていないか、通りすがりに振り返る者がいないか、彼は静かに確認する。
アークもそれに合わせて視線を動かす。彼の瞳は鋭く、街の音の一つひとつから異常を読み取ろうとする。互いに声を落とすことは当然だが、口調も言葉の選び方も慎重だ。タコ、バレルはポケットから小さなハンカチを取り出して手のひらにかけ、指先で軽く包むように物音を立てない仕草を見せる。アークは腕を組み替え、体の内側で電気の昂ぶりを抑えるように力を抜く。その間にも路地の先を一台の配送車がゆっくり過ぎ、エンジンの低い振動が二人の背後で消えていった。バレルはゆっくりと前屈みになり、唇をほんの僅か動かして言った。
「ここなら声を出しても届かない。話す内容は簡潔に。上の指示は厳格だが、細かい運用は現場判断に任されている。君は稲妻としての振る舞いを最大化する。私は、その隙間を利用して倉庫を狙う。合図は……」
口を開けば危うく人の耳に届きかねない距離だと二人とも判断したのか、バレルは急に手の平を軽くアークの腕に当て、目線で「言葉は慎重に」と合図する。アークは小さく頷いてから、声をさらに押し殺すようにして、しかし確実な口調で答えた。
「合図は空が裂けた瞬間だ。俺が大きく放電する、電線がチカチカする、そうしたらそっちの動きだ。だが混乱の規模は制御しろ。目的は恐怖の拡散であって、無差別の虐殺ではない。……その程度なら理解してるな?」
バレルは杓子に構えたように笑みを浮かべ、静かに言葉を返した。
「もちろんです。私たちの目的は被害を最大化することではなく、彼らをおびき出し、組織全体の反応を観測することです。狩人の動向を誘発し、拠点の位置や動線を確定させる。目に余る被害は……上が許さないでしょう。」
二匹の言葉は互いに釣り合っていた。アークの「稲妻」は直感的で破壊的だが、バレルの「弾丸」は精密で計算的だ。路地の影に入った二人の輪郭は、昼の光の下でなお不穏な影を落とす。バレルは懐から小さなメモ帳を取り出し、そっとアークの前に差し出す。
そこには簡潔なマップと数字、そして矢印が手早く描かれている。道筋、警備の想定、監視カメラの位置、周辺の人の流れ、隠密に動ける小道。アークは指先でマップ上の一点を示し、そこが不正者狩りの拠点だろうかと短く問いかける。バレルはゆっくりと首を振って否定した。
「倉庫は複数存在する。彼らが拠点を持つのはそのうちの一つだが、正確な位置はまだ確定していない。だが、彼らの行動範囲、補給線、夜間の移動ルートは一定の傾向がある。君が南区で電撃を起こすと、彼らは嗅覚のように反応するはずです。市民の救助に入るか、逆に防衛に回るか、出方が分かれる。その分裂を見れば拠点の位置が浮かび上がる。」
アークは軽く笑ったが、その笑みは強張っている。
「つまり、俺が騒いでおいて奴らが反応したらお前が突っ込む、と。分かった。だが俺一人でやれるのか?」
バレルは視線を外さずに答えた。
「あなたは稲妻だ。見せ方次第で街全体が反応する。私が拠点を突く時、君が狙われるかどうかは私の情報が成功したか否かの証だ。成功すれば君の力の証明になる。しかし、失敗したら、私たちは手を引く。それが上の方針です。」
アークは肩をすくめて、静かに「わかった」とだけ言った。二人はさらに細かな運用について擦り合わせる。アークは放電の規模、放電が最も効果的に見える時間帯、電波や通信への影響、それによる市民の避難パターンを説明する。バレルはそれをメモしつつ、倉庫への侵入ルート、警備の回避方法、退路、補給手段を淡々と付け加える。どの言葉も冷静で無駄がなく、互いに危険の切り分けを行っていく。
ふとした拍子にバレルは、
「狩人たちがどの程度まで自重するかが鍵だ。」
と呟いた。アークは目を細めて
「奴らの手口はばらばらだ。銃で制圧するやつ、刃で近接を得意とするやつ、精神を揺さぶるやつ。連中は経験則で動かない。だが、集団で動けばミスも出る。」
と答える。バレルはそれを聞き、
「ならば手は複数必要だ。稲妻で視線を奪い、弾丸で切り崩し、もう一手で残滓を掃く。」
と整理した。その言葉は計略の骨格を示すに十分だった。路地の奥で、やや湿ったコンクリートの匂いが二人の鼻をくすぐる。バレルは軽く息を吸い、街路樹の揺れる音と屋根の上の小さな風切り音を聴き取る。
「市民の反応は計画に組み込む必要がある。」
とバレルは続ける。
「パニックの発生地点、逃走経路、そして警察や公的機関の介入時間。これらは想定線として私たちの表に載せる。あなたが電気を放つことで、最初の数分は通信が不安定になる。私が動くのはその瞬間の静寂だ。」
アークは濃い影の中で片方の拳を軽く握って放し、指先で地面の小石を弾いた。
「分かった。俺のやることは分かる。だが……もし狩人が拠点を守っていたら?」
バレルは目を細め、答えは即座だった。
「拠点に直接突入するのは避ける。私が殺しを行うわけではない。むしろ情報を奪い、混乱を拡大して引き出す。だが、戦闘になったら私も撃つ。任務は任務です。」
その口調は淡々としているが、決意は冷たいほど強い。アークは唇を噛み、やがてゆっくりと笑った。
「冷たいな、お前は。だが同時に……いい。俺らのやり方で行こう。」
バレルは軽く頷き、近くの壁に自分の肩を寄せて、一瞬だけ目を閉じる。外を行き交う群衆の笑い声や足音が、まるで別の世界の音のように遠く感じられる。視線を上げると、路地の入口に戻っていく人影がちらりと見える。二人は互いにもう一度確認の意味で短い言葉を交わし、そして離れた。
アークは歩を大きく取って通りへ戻る。胸の内で電気の熱が高まり、指先が微かに痺れるように感じる。バレルはしなやかに人波に紛れていき、背中越しに短く手を挙げる。二人は互いに顔を見合わせず、それでも互いの背中から伝わるものを確かめ合っているようだった。彼らが離れると路地には静寂が戻る。しかしその静寂はすでに別種のものだ。
そこにはこれから起きる混乱の設計図が残り、日常の喧騒の中に埋もれることのない冷たい痕跡が刻まれていた。人々は知らない。だがこの街の片隅で、二つの力が静かに手を取り合い、ひとつの大きな歯車を回し始めたのだ。