テラーノベル
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ゆっくりと、静かに──
意識の底から這い上がるようにして
レイチェルは瞼を開いた。
目に映ったのは、見知らぬ天井だった。
それは木目の温もりを感じさせる
板張りの天井。
決して古びている訳ではない。
だが
年季の重みが醸す落ち着いた色合いと
丁寧に塗られた木の表情が
どこか心を鎮める。
──けれど。
自分の知るどの天井とも、違っていた。
そのことに気付くまで、しばしの間
レイチェルはただ瞬きを繰り返していた。
(ここは⋯⋯どこ?)
まるで深い湖の底から浮かび上がるように
ゆっくりと意識が覚醒していく。
次第に、身体の感覚も戻ってくる。
それは、鉛のように重く──
全身に泥が纏わりついたかのような
酷い倦怠感だった。
喉の奥が渇き、胃がきしみ
肺の奥までがじわりと重い。
それでもどうにか、腕を動かす。
指先に力を込め
シーツを少しずつ下へと引いた──
その瞬間。
〝──ズブッ〟
音が、記憶の奥底から響いた。
指先に蘇る、柔らかな抵抗と
生温かい血の感触。
肉が刃を受け入れた時の、あの嫌な沈み──
刃が沈むたびに伝わる振動。
ぬるりと滑る温度。
それは
たった一度ではなかった。
何度も、何度も。
何かに取り憑かれたように
繰り返し、振り下ろした──
(やめて⋯⋯やめて⋯⋯)
自らの記憶に、レイチェルは震えながら
両手を恐る恐るシーツの上へと晒す。
けれど──
そこに血はなかった。
爪の間にも、皺の奥にも
赤い痕跡ひとつ残っていない。
(夢?──いや、でも⋯⋯)
あの感触は夢にしては
あまりに生々しすぎる。
刃の重み、温もり
血が弧を描いて飛び散る鮮烈な光景──
どれもが、五感に焼きついて離れなかった
眩暈が、ぐらりと頭を揺らす。
吐き気を堪えるように視線を落とした先
手首に通された白い袖が、目に入った。
それは──
自分のものではない服。
白く、長めの袖に
見たことのない刺繍が縫い付けられている。
その僅かな違和感が
決定的な実感となって
レイチェルの胸を締めつけた。
(やっぱり⋯⋯夢じゃなかった⋯⋯)
さらに胃が軋むように痛む。
喉が焼けつくように渇く。
鉛のような身体に必死に力を込め
どうにか起き上がろうとする。
「⋯⋯ぅ⋯⋯っ」
掠れた声が喉から漏れた。
背中に力を込め、腕で上体を支え──
ようやく、半身を起こしたその瞬間だった。
ベッドの脇、木製の椅子に──
包帯を巻いた、小さな男の子が
静かにうずくまっていた。
銀の髪が、額にふんわりとかかり
幼い寝顔を覆っている。
その姿に──息を呑んだ。
(⋯⋯あの子⋯⋯)
飴をくれた、あの子だった。
ただ、それだけは
記憶の混濁の中でも確信できた。
だが、どうして彼がこの場所にいて
自分はここで目を覚ましたのか──
まるで分からない。
──彼は、誰?
──ここは、どこ?
──あの光景は、何だったの?
疑問が、波のように胸に押し寄せる。
何か、取り返しのつかない出来事が
確かに起こった気がする。
そしてそれを思い出してしまえば
もう元には戻れない。
だから、レイチェルは何も言えず
ただ、眠る男の子の寝息に耳を澄ませた。
その時だった──
「⋯⋯起きられましたか。良かった⋯⋯」
ふいに届いた声に
レイチェルは肩を跳ねさせた。
小さな身体が、ゆっくりと顔を上げ──
山吹色の瞳が
真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「勝手に着替えをさせまして
申し訳ございません」
凛とした、穏やかな声音。
その口調は
見た目にそぐわぬ威厳を孕んでいた。
「え⋯⋯」
戸惑いと驚きが声になる。
言葉を探していたその時
コンコン──と
扉を叩く音が静かに室内へと響いた。
「⋯⋯失礼しますね」
柔らかな声と共に、扉が静かに開く。
そこに現れたのは──
藍色の着物に身を包み
黒褐色の髪を品よく束ねた男性。
──喫茶店の店主だった。
盆を手にしたその姿は
どこか神聖で、凛としていて
そして、どこまでも優しかった。
鳶色の瞳が柔らかく細められ
そっと微笑む。
盆の上には、湯気を立てる料理。
柔らかな粥の香りが
重苦しかったレイチェルの胃を静かに撫でた
「お目覚めですか?
ご気分は、いかがでしょうか」
静かに、穏やかに。
男性はサイドテーブルに盆を置き
椅子を引いてベッドの傍らに座る。
微笑はまるで
寒い日に差し込む陽光のようだった。
「⋯⋯あの、ここは?
私は⋯⋯なんで⋯⋯?」
掠れた声で必死に問う。
だが彼は、その問いに答える代わりに
唇へ人差し指を添え──
静かに、微笑んだ。
その仕草に、言葉は自然と喉で止まった。
彼が何を語らずとも──
その瞳が、すべてを知っている。
不思議と、そう感じられた。
「まずは、自己紹介からいたしましょう」
深く、静かに。
その声は
まるで水面に落ちる一滴のように
心へと沁み渡る。
「僕は、櫻塚 時也⋯⋯と、申します」
丁寧に、深々と頭を下げたその姿に
思わずレイチェルも
同じように頭を下げていた。
「⋯⋯あ、レイチェル⋯⋯
レイチェル・カメレリス⋯⋯です」
自分の名前を声にすることで──
ようやく、自分が
〝ここにいる〟と実感できた。
──櫻塚 時也。
その名は、何処か異国の響きを孕みながら
どの言語にも属さない。
けれど、不思議と記憶に残る音だった。
ただ、それだけの名乗りで。
それまで纏わりついていた恐怖と不安が
少しだけ──
薄らいだ気がした。
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交錯する記憶、絡み合う運命。 語られた真実は、あまりにも残酷だった。 絶望の炎に呑まれた魂たち。 少女は知らぬ間に、数百年を越える哀しみの輪に巻き込まれていた──。