レイチェルが
ゆっくりと瞼を開いた。
目の前に広がるのは
見知らぬ天井。
木目の温もりが感じられる
板張りの天井は
古びている訳ではないが
落ち着いた色合いをしていた。
それが
自分の知る
どの部屋の天井とも
違う事に気付くまで
暫くの時間が掛かった。
ーここは⋯⋯どこ⋯?ー
意識が覚醒していくにつれ
身体の感覚が戻ってくる。
鉛のように重く
まるで全身に
泥が纏わり付いているかのように
気怠い。
それでも
どうにか腕を動かし
シーツをゆっくりと引き下げる。
その瞬間⋯
指先に伝わった
ナイフが肉を貫いた時の
生々しい感触が蘇った。
ーズブ⋯ッ
嫌な音と
突き刺した瞬間の気味の悪い柔らかさ
そして、指にまで感じた
生温かい血の感触。
それは
たった一度の動作では無かった。
何度も、何度も、振り下ろした
繰り返しの感触が
波のように蘇る。
「⋯⋯っ!」
息が詰まる。
レイチェルは震える指を
恐る恐るシーツの上に晒した。
血は⋯付いていなかった。
爪の隙間も
指の皺の間も
まるで普段と変わらない。
あの凄惨な光景が
何もかも夢だったのではないか
とさえ思えた。
けれど
記憶は余りにも鮮明すぎた。
あの温かさ
あの感触
鮮血が弧を描いて飛び散る様子⋯
どれもが生々しすぎる。
(⋯⋯夢、じゃない⋯⋯?どっちなの⋯)
だが
その現実を確かめるように
自分の手を凝視しても
血の跡ひとつ見つからない。
意識が混乱し
強い目眩に襲われた。
ふと目を下ろすと
自分の手が通されている
袖口の布地が目に入る。
ー自分のもの⋯ではないー
シンプルな白いシャツ。
袖は少し長めで
見慣れない刺繍があしらわれていた。
その一瞬で
レイチェルの心を
冷たい不安が支配していく。
(⋯⋯やっぱり
夢じゃないのかもしれない⋯⋯)
胃が軋むように痛み
喉が焼けるように渇く。
鉛のように重い身体に力を込め
どうにか起き上がろうとした。
「⋯⋯ぅ⋯⋯っ」
喉から漏れた声は
酷く掠れていた。
背中に力を入れ
腕を突っ張り
漸く身体を起こす。
その瞬間
ベッドの脇に蹲る
小さな影が目に入った。
「⋯⋯っ!」
思わず息を呑んだ。
ベッドのすぐ脇
木製の椅子に座り
ベッドの端に突っ伏すようにして
包帯を巻いた小さな男の子が
寝息を立てていた。
幼く
柔らかな銀色の髪が
さらりと額に掛かり
穏やかな寝顔が覗いている。
(⋯⋯あの子だ!)
飴をくれた
あの包帯を巻いた男の子。
瞬時に
それだけは理解できた。
けれども
どうして自分が
この場所で目を覚ましたのか
その理由は分からなかった。
レイチェルは
恐る恐る男の子の顔を見つめた。
ー彼は何の為に、此処に居るのだろう?ー
ー自分はどうして
ここに寝かされていたのだろう?ー
ーあの血塗れの光景は
いったい何だったのだろう?ー
次々と湧き上がる疑問が
胸の奥に鈍い痛みとなって広がった。
何処かで
酷く恐ろしい答えが待っている気がして
レイチェルは息を殺し
ただ男の子の
静かな寝息を聞いていた。
レイチェルが
混乱に沈む頭を整理しようとしていた
その時だった。
「⋯⋯起きられましたか。良かった⋯」
突然の声に
レイチェルは
びくりと肩を跳ね上げた。
ベッド脇で突っ伏していた男の子が
顔を上げ
山吹色の大きな瞳を真っ直ぐに
此方へ向けていた。
「勝手に着替えをさせまして
申し訳ございません」
穏やかな声⋯
だが、その話しぶりは
見た目の年齢には
まるでそぐわない。
その幼い顔から
発せられたとは思えない程
威厳に満ちた
落ち着いた口調だった。
「え⋯⋯?」
思わず声を漏らし
何かを問おうとしたその時
突然、 室内に
「コンコン」とノックの音が響いた。
「⋯⋯失礼しますね」
控えめな声と共に
扉が静かに開いた。
其処に立っていたのは
喫茶店の店主
藍色の着物を纏い
黒褐色の長い髪を
品良く束ねた男性だった。
彼の鳶色の瞳は
レイチェルが店で見た時と同じ
穏やかに細められていた。
彼の手には
湯気がふんわりと立ち昇る
盆があった。
盆の上には
胃に優しそうな
淡い香りのする料理が並べられている。
温かい粥の柔らかな香りに
ずっと重苦しかったレイチェルの胃が
小さく鳴いた。
「お目覚めですか?
ご気分は、いかがでしょうか」
店主は優しく声を掛けながら
盆をサイドテーブルに置き
そっと椅子を
ベッドに近付けて腰掛けた。
彼の笑顔は柔らかく
まるで冬の日に差し込む
暖かな陽射しのようだった。
「⋯⋯あの、ここは?」
掠れた声が喉の奥から漏れた。
「私は⋯⋯なんで⋯?」
混乱と不安が
言葉を上手く繋げさせてくれない。
だが
その問いかけに
店主は優しく微笑み
静かに自分の唇に指を添えた。
「⋯⋯」
静寂を促す仕草に
レイチェルの声は自然と止まった。
不思議な感覚だった。
彼が何を語らずとも
ーその瞳が、全てを知っているー
そんな錯覚に陥る。
まるで心の奥底を
覗かれているかのような
奇妙な感覚だった。
「まずは、自己紹介からいたしましょう」
静かに
だが確かに届くその声は
何処か心に響いた。
「僕は、櫻塚 時也⋯ と、申します。」
そう名乗ると店主
時也は
穏やかな所作で深々と頭を下げた。
レイチェルは
その礼儀正しさに戸惑いつつも
思わず同じように
深くお辞儀を返した。
「⋯⋯あ、レイチェル⋯⋯
レイチェル・カメレリス⋯です」
自分の名を名乗ったのは
どれくらいぶりだろう。
声にする事で
自分が確かに〝此処に居る〟と
実感できた気がした。
それにしても
彼の名は妙に耳に残った。
ー櫻塚 時也ー
何処か異国の響きを持ちながら
どの言語にも属さないような
奇妙な響きだった。
何処の国のものかも分からない
初めて聞く発音
なのに⋯不思議と覚えやすい。
名を名乗っただけなのに
先程まで感じていた恐怖や不安が
ほんの僅かだが
和らいだ気がした。
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