コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「さぞ戸惑われている事と思いますが
先ずはそちらの粥を
冷めない内にどうぞ
お召し上がりください」
時也は
穏やかな声でそう促した。
「後ほど⋯僕が説明いたしますね」
優しく微笑むその顔に
レイチェルは一瞬
ほっと息を吐きかけた。
だが⋯
「と、時也さん!」
その言葉が
まるで堰を切ったように
レイチェルの記憶が呼び戻される。
「待ってください!
私、私⋯⋯さっき、お店で⋯⋯」
声が震え
喉が詰まる。
「女性のお客様を⋯⋯こ、殺⋯⋯して⋯っ」
最後の言葉は
喉の奥で掠れた。
恐ろしい記憶が
まざまざと蘇る。
ナイフの手応え
肉を断つ感触
弾けるように飛び散った鮮血⋯⋯
「⋯⋯っ」
両耳に心臓の鼓動が響いていた。
(夢じゃない⋯⋯
あれは、夢じゃなかった⋯)
何も言えず
レイチェルはただ震えた。
だが、時也は⋯
「ご心配なさらず⋯⋯」
声は
相変わらず穏やかだった。
「彼女なら
彼処にずっと居て
貴女を案じていましたよ」
「え⋯⋯?」
時也が指差した先
レイチェルは恐る恐る
その方向へ目を向けた。
視線の先
そこに彼女は⋯居た。
椅子に優雅に腰掛け
まるで等身大の
アンティークドールのように
微動だにしない。
黄金の睫毛を伏せたその顔は
血の気のない白磁の肌に
絹のような金髪が柔らかく垂れていた。
(⋯⋯生きてる⋯⋯?)
目の前の光景が
信じられなかった。
あれだけの事をしたのに⋯
何度も何度も
ナイフを突き刺し
鮮血に塗れたはずなのに。
血の痕は一滴も⋯無い。
彼女の首元も
肌も
何処にも
傷跡ひとつ 見当たらなかった。
まるで
最初から何も無かったかのように。
「⋯⋯っ」
レイチェルの呼吸が
困惑に浅く早くなる。
その瞬間
ゆっくりと
彼女の黄金の睫毛が持ち上がり
深紅の瞳が現れた。
その瞳と⋯視線が絡んだ。
無表情。
怒りも
憎しみも
恐怖も
何ひとつ感じられない。
ただ⋯ただ
無機質な静けさだけが
深紅の瞳に宿っていた。
(⋯⋯なんで⋯あんな事を、したのに⋯⋯)
視線が離せない。
冷たい汗が背筋を伝い
指先まで酷く冷たくなっていく。
その時
時也の手が
そっとレイチェルの背に触れた。
「大丈夫ですよ」
彼の声は変わらず穏やかで
背を摩る手は驚く程に温かかった。
「先ずは⋯⋯粥をどうぞ。
お話は、その後で⋯⋯ね?」
その柔らかな声に
レイチェルは
漸く呼吸が落ち着きを取り戻し
僅かに力が抜けた。
恐る恐るスプーンを手に取り
粥に口をつける。
とろりとした米が
ほんのりとした塩味と共に
喉を滑っていく。
生姜と出汁の香りが
ほのかに立ち上り
冷え切った身体を
じんわりと温めた。
その温かさに
胸の奥が少しだけ緩んでいく。
だが⋯
すぐに背筋が強張った。
彼女の視線が
ずっと此方に向けられていた。
何の感情も感じ取れない
その無表情の双眸が
余計に恐ろしかった。
(うぅ⋯⋯味がしない⋯)
粥の温かさも
優しい味わいも
緊張で何も感じなかった。
それでも
レイチェルは手を止める事無く
何とか最後まで食べ終えた。
スプーンを置くと
不思議な程に
息が楽になっているのに気が付いた。
(お腹いっぱいに⋯⋯なったから?)
張り詰めていた胸の痛みが
少しだけ和らいでいる。
「では⋯⋯ご説明いたします。」
時也が
そっと口を開いた。
その声も笑顔も
どこまでも柔らかい。
けれど⋯
その優しさの裏に
刹那の悲しみが滲んでいるように思えた。