「さぞ戸惑われている事と思いますが
先ずはそちらの粥を
冷めない内にどうぞ
お召し上がりください」
時也は
穏やかな声でそう促した。
「後ほど⋯僕が説明いたしますね」
優しく微笑むその顔に
レイチェルは一瞬
ほっと息を吐きかけた。
だが⋯
「と、時也さん!」
その言葉が
まるで堰を切ったように
レイチェルの記憶が呼び戻される。
「待ってください!
私、私⋯⋯さっき、お店で⋯⋯」
声が震え
喉が詰まる。
「女性のお客様を⋯⋯
こ、殺⋯⋯して⋯っ!」
最後の言葉は
喉の奥で掠れた。
恐ろしい記憶が
まざまざと蘇る。
ナイフの手応え
肉を断つ感触
弾けるように飛び散った鮮血⋯⋯
「⋯⋯っ」
両耳に心臓の鼓動が響いていた。
(夢じゃない⋯⋯
あれは、夢じゃない⋯っ)
何も言えず
レイチェルはただ震えた。
だが、時也は⋯
「ご心配なさらず⋯⋯」
声は
相変わらず穏やかだった。
「彼女なら
彼処にずっと居て
貴女を案じていましたよ」
「え⋯⋯?」
時也が指差した先
レイチェルは恐る恐る
その方向へ目を向けた。
視線の先
そこに彼女は⋯居た。
椅子に優雅に腰掛け
まるで等身大の
アンティークドールのように
微動だにしない。
黄金の睫毛を伏せたその顔は
血の気のない白磁の肌に
絹のような金髪が
柔らかく垂れていた。
(⋯い、⋯生きてる⋯⋯?)
目の前の光景が
信じられなかった。
あれだけの事をしたのに⋯
何度も何度も
ナイフを突き刺し
鮮血に塗れたはずなのに。
血の痕は一滴も⋯無い。
彼女の首元も
肌も
何処にも
傷跡ひとつ見当たらなかった。
まるで
最初から
何も無かったかのように。
「⋯⋯っ」
レイチェルの呼吸が
困惑に浅く早くなる。
その瞬間
ゆっくりと
彼女の黄金の睫毛が持ち上がり
深紅の瞳が現れた。
その瞳と⋯視線が絡んだ。
無表情。
怒りも
憎しみも
恐怖も
何ひとつ感じられない。
ただ⋯ただ
無機質な静けさだけが
深紅の瞳に宿っていた。
(⋯⋯なんで⋯あんな事を、したのに⋯⋯)
視線が離せない。
冷たい汗が背筋を伝い
指先まで酷く冷たくなっていく。
その時
時也の手が
そっとレイチェルの背に触れた。
「大丈夫ですよ」
彼の声は変わらず穏やかで
背を摩る手は驚く程に温かかった。
「先ずは⋯⋯粥をどうぞ。
お話は、その後で⋯⋯ね?」
その柔らかな声に
レイチェルは
漸く呼吸が落ち着きを取り戻し
僅かに力が抜けた。
恐る恐るスプーンを手に取り
粥に口をつける。
とろりとした米が
ほんのりとした塩味と共に
喉を滑っていく。
生姜と出汁の香りが
ほのかに立ち上り
冷え切った身体を
じんわりと温めた。
その温かさに
胸の奥が少しだけ緩んでいく。
だが⋯
すぐに背筋が強張った。
彼女の視線が
ずっと此方に向けられていた。
何の感情も感じ取れない
その無表情の双眸が
余計に恐ろしかった。
(うぅ⋯⋯味がしない⋯)
粥の温かさも
優しい味わいも
緊張で何も感じなかった。
それでも
レイチェルは手を止める事無く
何とか最後まで食べ終えた。
スプーンを置くと
不思議な程に
息が楽になっているのに気が付いた。
(お腹いっぱいに⋯⋯なったから?)
張り詰めていた胸の痛みが
少しだけ和らいでいる。
「では⋯⋯ご説明いたします」
時也が
そっと口を開いた。
その声も笑顔も
どこまでも柔らかい。
けれど⋯
その優しさの裏に
刹那の悲しみが
滲んでいるように思えた。
「彼女の名前は
アリア・ミッシェリーナ。
僕の妻であり
不死鳥という神をその身に宿す
魔女の一族の末裔です」
「⋯⋯不死鳥⋯魔女⋯⋯?」
耳にした言葉の一つ一つが
現実味の無い響きだった。
レイチェルの頭は
理解が追い付かず
徐々に思考が混乱していく。
(⋯⋯何を⋯言ってるの?)
だが
時也の声は不思議と耳に馴染み
その穏やかな語り口が
混乱をほんの少しだけ和らげていた。
「不死鳥は本来⋯光の神なのですが」
時也は続けた。
「その強すぎる光ゆえに
また生じる闇も
濃くなってしまいます⋯
闇に魅入られた不死鳥は
500年程前⋯
魔女狩りを引き起こしました」
「⋯⋯魔女狩り?」
レイチェルは
乾いた声で呟いた。
「不死鳥は教会の人間を唆し
魔女を襲わせ
憎しみの連鎖を広げようとしたのです」
時也の言葉が
遠い昔の出来事を語るように
ゆっくりと紡がれていく。
「ですが⋯⋯
魔女達は人間の扱う炎では死なない」
「⋯⋯え?」
「魔女とは
貴女のような能力を持った者達の事です」
「⋯⋯私の、ような⋯?」
その言葉に
レイチェルはハッとした。
「魔女とは⋯
本来は人と変わらぬ存在です。
けれど、貴女のように
特別な力を持つがゆえ
忌み嫌われ⋯⋯迫害されたのです」
「⋯それじゃあ⋯⋯」
「人間達は⋯
そんな魔女達を殺す為
彼女⋯⋯アリアさんに目を付けたのです」
「⋯⋯アリアさんに?」
レイチェルの瞳が揺らいだ。
「アリアさんの一族を捕らえ
人質にし
彼女自らの手で
不死鳥の業火を用いて
魔女達を殺させたのです」
「⋯⋯っ!」
胸が苦しくなった。
あの美しい女性が
そんな過去を抱えているなんて⋯
「⋯⋯同胞を手に掛けた彼女の絶望は
深いものでした」
時也の声が
より低く
静かな響きを帯びる。
「その絶望に⋯
不死鳥は味をしめてしまったのです」
「絶望の⋯味?」
「ええ⋯⋯
不死鳥は⋯彼女の苦しみと悲しみが
深ければ深い程
より強く燃え上がるのです」
レイチェルの手が
無意識にシーツを握り締めた。
「不死鳥は
アリアさんの絶望を
さらに深める為
教会に秘密裏に炎を授け
今度は彼女の一族までをも
殺させました」
「⋯⋯酷い⋯っ」
「殺された魔女達は⋯⋯
どれ程の無念を抱えた事でしょう。
信頼していた筈の彼女に
焼き尽くされたのですから⋯⋯」
「⋯⋯っ」
レイチェルの喉が詰まる。
「あの日
魔女達が焼かれた時
その魂は不死鳥の業火に⋯⋯
呪われました」
「⋯⋯呪い⋯」
「不死鳥の業火で焼かれた魂は
転生しても尚
怨みに苛まれ続けるのです。
転生者達は
何も知らないまま
アリアさんを憎み
報復の衝動に駆られてしまう⋯⋯」
「⋯⋯だから、私⋯」
あの時
ナイフを振り下ろしながら
喉を突いて吐き出された言葉。
「何故です⋯⋯何故っ!
私達を、裏切ったのですかっっっ!!」
自分でも理解できなかった
その言葉の意味が
漸く繋がった。
「⋯⋯だから決して
貴女は自分を責めては⋯いけませんよ?」
優しく背を摩る時也の手が
温かく感じた。
「でも⋯⋯」
「貴女の心が⋯
望んだ訳では無いのです。
魂に刻まれた苦しみが
無意識に貴女を
追い詰めたのですから」
そう言って
時也は小さく息をついた。
「不死鳥は本来
光の神として存在するべく
500年に一度
魔女の手により討たれ
産まれ直し
闇を祓わねばなりません」
「⋯⋯産まれ直し?」
「はい。
僕は⋯その為に⋯⋯」
時也の瞳が
何処か遠くを見るように
細められた。
「⋯⋯彼女を
不死鳥の呪縛から解放する為に
現代の魔女の転生者を
集めているのです」
レイチェルは
その言葉の意味を咀嚼できないまま
時也の顔を見つめた。
その柔らかな笑顔の裏に
哀しみの色が混じっていた。
「⋯⋯⋯」
胸が重苦しい。
言葉にできない痛みが
じわりと広がっていくのを感じながら
レイチェルはただ
彼の瞳を見つめ続けた。