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スタジオに入った瞬間、いつもの匂いが鼻をついた。アンプの熱と、少しだけ埃っぽい空気。
「狭いっすね」
広瀬くんはそう言いながら、奥のスタンドににギターを立てかけた。
四人用のスタジオ。
ドラムセットが奥にあって、ベースとギターのアンプが壁沿いに並んでいる。
マイクスタンドを立てると、もう余白はほとんどなかった。
ドラムとベースは、私の同級生だ。
「コピバンやるんだけどさ」
そう言っただけで、二人とも少し考えてから頷いた。
「楽しそうじゃん」
「いいよ、空いてるし」
それだけだった。
「ドラムとベース、同級生が来てくれるって」
そう伝えると、広瀬くんは一瞬だけ私を見て、
「じゃあ四人ですね」
と、いつもの調子で言った。
でも、そのあとすぐに視線をアンプに戻すのが、なぜか引っかかった。
機材を準備しながら、広瀬くんは自然に奈央奈央の近くに立った。
最初からそこに決めていたみたいに。
「奈央さん、立ち位置ここで」
示された場所は、思っていたより近い。
「……近くない?」
そう言うと、広瀬くんは一瞬だけ考える素振りをしてから、
「俺、この距離のほうがやりやすいんで」
と言った。
“音が”とも、“マイクが”とも言わない。
ただ、それだけ。
理由になっているのか分からない言い方に、奈央は何も返せなくなる。
曲が始まる。
ドラムのカウントに合わせて、ギターが鳴る。
広瀬くんの音は安定していて、迷いがない。
歌い出すと、少しだけ入りが遅れた。
「あっ……」
と言いかけた瞬間、
「大丈夫です」
広瀬くんは、こちらを見て言った。
「次、俺見るんで。合わせましょ」
それだけで、目線が絡む。
視線を外す暇もなく、次のフレーズが来た。
間奏に入ったとき、広瀬くんが一歩、近づいた。
音を確認するには必要ない距離。
肩と肩の間が、ほとんど残っていない。
「マイク、ちょっと角度下げた方が歌いやすいです」
低い声が、耳のすぐ横で響いた。
「……うん」
返事をした自分の声が、変に近く聞こえて、心臓が跳ねる。
広瀬くんは、マイクスタンドを調整しながら、
一歩も下がらなかった。
わざと、なのか。
そう考えた瞬間、頭を振る。
そんなわけ、ない。
練習が終わる。
「いい感じですね」
ギターを外しながら、広瀬くんはそう言った。
その表情はいつも通りで、特別なことなんて何もなかったみたいだった。
でも、距離だけが、戻らない。
スタジオを出たあとも、
奈央の頭の中には、あの近さだけが残っていた。
理由は分からない。
意味も、きっとない。
それでも、
広瀬くんが“そこに立つことを選んだ”気がしてしまって、
胸の奥が静かにざわついていた。