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のまめ
31
スタジオに入った瞬間、いつもの匂いが鼻をついた。アンプの熱と、少しだけ埃っぽい空気。
「狭いっすね」
広瀬くんはそう言いながら、奥のスタンドににギターを立てかけた。
四人用のスタジオ。
ドラムセットが奥にあって、ベースとギターのアンプが壁沿いに並んでいる。
マイクスタンドを立てると、もう余白はほとんどなかった。
ドラムとベースは、私の同級生だ。
「コピバンやるんだけどさ」
そう言っただけで、二人とも少し考えてから頷いた。
「楽しそうじゃん」
「いいよ、空いてるし」
それだけだった。
「ドラムとベース、同級生が来てくれるって」
そう伝えると、広瀬くんは一瞬だけ私を見て、
「じゃあ四人ですね」
と、いつもの調子で言った。
でも、そのあとすぐに視線をアンプに戻すのが、なぜか引っかかった。
機材を準備しながら、広瀬くんは自然に奈央奈央の近くに立った。
最初からそこに決めていたみたいに。
「奈央さん、立ち位置ここで」
示された場所は、思っていたより近い。
「……近くない?」
そう言うと、広瀬くんは一瞬だけ考える素振りをしてから、
「俺、この距離のほうがやりやすいんで」
と言った。
“音が”とも、“マイクが”とも言わない。
ただ、それだけ。
理由になっているのか分からない言い方に、奈央は何も返せなくなる。
曲が始まる。
ドラムのカウントに合わせて、ギターが鳴る。
広瀬くんの音は安定していて、迷いがない。
歌い出すと、少しだけ入りが遅れた。
「あっ……」
と言いかけた瞬間、
「大丈夫です」
広瀬くんは、こちらを見て言った。
「次、俺見るんで。合わせましょ」
それだけで、目線が絡む。
視線を外す暇もなく、次のフレーズが来た。
間奏に入ったとき、広瀬くんが一歩、近づいた。
音を確認するには必要ない距離。
肩と肩の間が、ほとんど残っていない。
「マイク、ちょっと角度下げた方が歌いやすいです」
低い声が、耳のすぐ横で響いた。
「……うん」
返事をした自分の声が、変に近く聞こえて、心臓が跳ねる。
広瀬くんは、マイクスタンドを調整しながら、
一歩も下がらなかった。
わざと、なのか。
そう考えた瞬間、頭を振る。
そんなわけ、ない。
練習が終わる。
「いい感じですね」
ギターを外しながら、広瀬くんはそう言った。
その表情はいつも通りで、特別なことなんて何もなかったみたいだった。
でも、距離だけが、戻らない。
スタジオを出たあとも、
奈央の頭の中には、あの近さだけが残っていた。
理由は分からない。
意味も、きっとない。
それでも、
広瀬くんが“そこに立つことを選んだ”気がしてしまって、
胸の奥が静かにざわついていた。