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本当ならば誰彼憚ることなく愛していると伝えたい、己の総てと引き替えにしても良いと思える、使い古されているが真実である魂の片割れとも呼べる恋人がいる事はある意味幸福であり、また皮肉な思いから見てみれば不幸なことでもある。
そんな事を最近よく考え込むようになったと自嘲したウーヴェは、クリニックを閉めるまで後少し時間があった為、リアが持参した手作りスコーンと紅茶で疲れた心身に栄養を送り届けていた。
「……あら、雪……。もうちょっと保ってくれれば良いのに」
一人掛けのソファにゆったりと腰掛け、絶妙のタイミングでカップに移した紅茶の芳醇な香りを楽しんでいた彼女が嫌だと声を挙げた為、背後の二重窓を振り仰いで眼鏡の下の双眸を僅かに細める。
「本当だな……帰るときには気をつけてな、リア」
「ありがとう。せっかくの新しいブーツなのに」
「それは残念だな」
「本当に」
今日の診察は終了しましたと先程重厚な木のドアに札をぶら下げに行った為、二人の気分は既にここの開業医とその秘書ではなく異性の友人になっていて、雪が降り始めた外界について残念だと呟き合っていた。
そんなある意味貴重な時間を美味しい紅茶と、手作りだったり時には買い求めたスイーツだったりするが、甘い物で脳の疲労を回復させてくれるリアの心遣いが嬉しくて、ウーヴェがお気に入りのカフェで提供されている茶葉をリアにプレゼントしたこともあった。
紆余曲折を経てスタッフと友人としても付き合っている彼女と二人、雪についての苦情を言いながら紅茶を飲んでいたその時、終了の札がぶら下がっている木の扉が勢い良く開く音が響き、二人が顔を見合わせて双方ともに目を瞠る。
いつか何処かで経験したような空気感に彼女が口を開こうとしたが、それよりも早くに診察室のドアを破る勢いでノックされ、どう答えるべきかを思案したウーヴェが額を押さえて深く溜息を吐く。
ここのクリニックを訪れる人間でこんなにも激しい-と言うよりは文字通りドアを壊しかねない勢いでノックをする人間は限られていて、しかもその限られた人間は滅多にノックをする事など無かった為、今度は一体何事が起きるのかと不安を抱いてしまう。
「……どうぞ」
深々と溜息を吐いたウーヴェが力なく答えるとノックの激しさとは裏腹な静けさでドアが開き、陽気な子供顔負けの笑みを浮かべた男が足取りも軽く入ってくる。
「ハロ、オーヴェ!」
「……もう仕事は終わったのか?」
最愛のと言っても過言ではない恋人だが、この陽気さを通り越した騒々しさだけは中々受け入れる事が出来ないと額を押さえて溜息を吐いた後、仕方がない、これも愛する恋人の個性なのだと己を納得させて笑みを浮かべる。
「お疲れ様、リオン」
「今日も一日頑張りましたー! リアもお疲れさん」
だからどうか自分を誉めてくれと文字通り子供の顔で胸を張るリオンについ吹き出してしまえば、何だよと不機嫌そうな声で片目を閉じるが、口元に浮かんでいるのは間違い無く笑みだった為、本当にお疲れさんとついつい甘い声を出してしまう。
こんな彼を幼馴染みや大学の友人達が見れば絶叫するか意識を吹っ飛ばすかするだろうが、幸か不幸か今ここにいる第三者はと言えば二人が付き合い出した頃からずっと見守っている彼女だった為、ただただ小さな溜息を吐いて二人の遣り取りを胸に納めていた。
「雪降ってるけどそろそろ上がりそうだぜ」
「本当?」
リオンの言葉にリアが壁に掛けてある時計を見れば終業時間まで後少しだった為、どうかそれに間に合うように止んでくれと肩を竦めてリオンの為に紅茶の用意を始める。
「リア、その紅茶はリオンのものか?」
「ええ。スコーンもまだあるし……食べてくれるかしら、リオン」
私の手作りだけどと苦笑したリアだが、不意に大きな身体に抱き竦められて息を呑む。
「!?」
「ダンケ、リア!! 言われなくても食う!!」
「……リオン」
いつかも言ったがそれ以上リアを困らせるなと苦笑混じりに伝えたウーヴェは、紅茶の用意が出来たのなら今日はもう上がってくれても良いと頷き、目元を僅かに赤くした彼女に労いの言葉を掛ける。
「……お疲れ様でした、ドクター・ウーヴェ」
「フラウ・オルガもお疲れ様。また明日もよろしく頼む」
彼女がここに勤め始めて暫くしてからの恒例の遣り取りを済ませ、慌てて出て行く背中を見送ったウーヴェだが、彼女がもう一度診察室に顔を出し、使ったカップなどはそのままシンクに残しておいてと言い残して笑顔で帰宅するのを見送ると、嬉しそうにスコーンにかぶりつこうとしている恋人の耳を軽く引っ張る。
「ぃてて! 何するんだよ、オーヴェっ!」
「――あまりリアに抱きつくな」
彼女には付き合って間もない彼氏がいるんだぞと彼女の幸せを思う心に無意識の嫉妬を込めて睨めば青い眼が一瞬だけ見開かれたかと思うと、次いで不気味なことこの上ない、まるでアドヴェントに食べるシュトレンの様な形に細められてしまい、嫌な気配を感じてリオンから離れようとするが、その寸前に伸ばされた手がしっかりと腕を掴んだ為に逃げることが出来なくなってしまう。
「オーヴェ」
「……何だっ」
「大丈夫だって」
「だから何がだっ」
砂糖のまぶされていないシュトレンが奇妙な笑い声を上げている、そんな様を彷彿とさせる不気味なことこの上ない笑い声を上げるリオンを思いっきり不審人物を見る目つきで睨んだウーヴェは、ぬっと伸ばされた腕が己の身体に巻き付いた事に目を瞠り、止めろ暑苦しいと裏腹に叫んでみるが、はいはいと軽くあしらわれてしまって眉間に皺を刻む。
「リアはイイ匂いがするけどさ……」
お前は匂いも味も最高だと事もあろうに首筋を舐めながら囁かれてしまい、瞬間脳味噌を真っ白にしてしまったウーヴェは、次第に沸き上がる羞恥と怒りとで顔を赤くする。
「あ、照れてる」
「――誰が照れているんだって? なぁ、リオン・フーベルト?」
「……げ」
調子に乗りすぎたとリオンが気付いた時には既に遅く、覗き込んだ顔にはこんな時でさえもつい見惚れてしまうそれはそれは綺麗な笑みが浮かんでいて、あははと乾いた笑い声を上げたリオンは、次の瞬間には恥も外聞もなくごめんなさいと叫んでウーヴェの肩に額を押しつける。
「なぁ、リーオ。誰が照れているんだって?」
どうか教えてくれないか、俺の太陽。
にこりと信じられない程綺麗な笑みを浮かべてリオンのシャツの胸元を握りしめたウーヴェに、ごめんなさい調子に乗りましたと反省した素振りのリオンが叫ぶが、それでもまだ気が収まらないのか胸元を掴んだ腕を引き寄せた為、リオンも釣られてウーヴェに近付いてしまうが、本当に本当に、目の覚めるような綺麗な笑顔につい見惚れたリオンは、ああ、この笑顔を見ながらだったら死んでも良いと、思わず心の一番奥底で眠っている思いを口に乗せてウーヴェの顔から笑みを掻き消させてしまう。
「オーヴェ?」
「……何でも……ない……」
その一言で己の失態-先程までの笑って済ませられるようなそれではなく、文字通りの失態を悟ると同時にウーヴェの身体に腕を回し、リアにしたものとは比べられない強さと優しさで抱き寄せる。
「オーヴェ。ごめん。今の言葉は取り消す」
だから許してくれと許しを請い、どうか頼むと真摯に願えば背中に回った腕に力がこもり、ぎゅっとブルゾンを握られたことに気付いて安堵の溜息を零す。
「ごめん」
コツンと額と額を重ね合わせてもう一度謝罪をしたリオンは、無言で頷く白い髪に口付けた後頬にもキスをし、そのまま一人掛けのソファへと移動すると、俯いたままのウーヴェを足の上に座らせて顔中にキスの雨を降らせる。
「……リオン、くすぐったい……っ」
頬や鼻の頭、唇の端や眉間などに何度もキスを繰り返していると、ようやくウーヴェの声に明るさが戻った事に気付いたリオンがあからさまに溜息を吐き、ウーヴェの唇にそっとキスをする。
「……ん」
「オーヴェ、それ、食わせてくれよ」
「……は?」
「――はい」
リオンが笑みを浮かべながらそっと左手を差し出した為、やや躊躇いを覚えた顔で恋人を見たウーヴェは、何を求めているのかを察すると同時に左手を掴んで手の甲を頬に宛がい、食わせてくれと言われたスコーンを片手で食べやすい大きさにちぎっていく。
「ほら」
「あー」
子供ならば間違い無く誉められるであろう食べっぷりを目の当たりにし、己の感情が急浮上と急降下を繰り返したことでくらくらと眩暈を覚え、頬に宛がった左手の掌に口を寄せ、悔しさを晴らすようにぺろりと舐める。
「腹減った?」
問われた言葉に籠もる本音を見抜き、どうだろうなと曖昧に返した後、もう一人でも食べられるだろうと立ち上がろうとするが、いつの間にかしっかりと腰に腕を回されていて立ち上がる事が出来なかった。
「リオン」
離してくれと名を呼ぶことで伝えてみるが、言わなければ分かりませんと悪意のない顔で笑われてしまい、眼鏡の下で碧の目を左右に揺らす。
ここに入ってきたときのような騒々しさ、今のように無邪気に笑う顔、そしてさっきのようにウーヴェの表情から己の失態を悟るとすぐさまそれを謝罪し、己が与えた傷を癒すようにキスをする、そのどれもがリオンという一人の男に収斂するのだが、ころころと表情を良く変える人間とは何処かで一線を画している、ウーヴェにはそんな気がするのだ。
彼のことを良く知らない人からすればまるで別人の様な態度を取る事もしばしばあるが、その根本を見てみたいといつからか考えるようにもなった。
何度か垣間見た事のある恋人の本性。それはきっと、誰の手にも負えない程の激しさだろう。
それをもし見せられたとすればどうなるか。
思考の流れに任せてつらつらと考えてて眼鏡が奪われたことに気付かずにいたせいで視界が陰った直後、呼吸困難を引き起こすようなキスをされたことに目を瞠る。
「……ん……っ……」
「オーヴェ」
考え事をするのも構わないしお前のその顔も好きだが俺を独りにするなと意味の深いことを真摯な声で告げたリオンは、不意打ちのようなキスに目元を赤くして肩で呼吸をするウーヴェの頬をぺろりと舐め、もう一度キスをする事を教えるように目尻に口を寄せて合図をすると、ウーヴェの瞼が自然と下がる。
今度はお互いの意識がお互いに向いている中でキスをし、満足そうな吐息が二人の間に零れ落ちた後、リオンが額を軽く触れ合わせる。
「そろそろ帰ろうぜ、オーヴェ。雪も止んだみたいだ」
「ああ」
この後どうするとウーヴェが奪われた眼鏡を取り返しながら問えば、天井を上目遣いで見つめたリオンがどこかで飯を食って帰ると笑い、ウーヴェも小さく笑みを浮かべる。
「そうだな」
そうして満足した事を示す笑みを浮かべて立ち上がり、大きく伸びをするリオンを細めた目で見つめたウーヴェは、最後に無意識に見せたような、独りを恐れる表情を胸の奥にそっと忍ばせ、大丈夫だと言葉で伝えてみる。
「ん? 何が?」
「何でもない」
首を傾げるリオンの前髪をさらりと指先で流した後、戸締まりをするから待っていてくれと言い残し、待合室で待っている為に診察室を出て行く背中を笑みを浮かべて見つめる。
短い時間に見せられたいくつもの顔に被さるように最後に見えた笑顔が重なり、魂の片割れとも呼べる恋人をもつ不幸について恋人がやってくる直前まで考えていた事も思い出してしまい、拳を口元に宛がって苦笑する。
それでもやはり、魂という見えない深い場所で繋がることの出来る存在は何よりも大切で愛おしい。
見せられる顔がどんなものであれ総て見届けてみたいという思いも芽生え、幸と不幸を隔てる紙一重の思いに自嘲し、手早く片付けを終える。
「……お待たせ、リオン」
「うん。早く帰ろうぜ、オーヴェ」
診察室のドアを閉め、カウチソファで寝そべっていたリオンの前に立ったウーヴェは、ふわりと自分にだけ見せるような笑みを浮かべて起き上がる彼が、結局何を言おうともまた言われようとも愛しているのだと数え切れない程の再確認をし、甘える様に伸ばされた手を取って軽く引き寄せるのだった。