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瑠璃マリコ
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苡 咒 。
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「はい。どうぞ」
差し出されたタオルを受け取ると、ポタポタと雫が落ちる髪を無造作に拭き、雨に濡れたコートをハンガーに掛け、彼に手渡す。
「ワンピースはあまり濡れてないようで良かった。そこのソファで待っていてください。何か飲み物を持って来ますから」
部屋から出て行く彼を見送り、小さなため息を溢す。
何やってんだろ、私。
三十歳の誕生日に彼氏に振られたからって、自棄になって他人様に迷惑をかけて、本当に馬鹿みたい。
見知らぬ男に連れられて来たのは繁華街の路地裏にある一軒のBARだった。従業員専用の裏口から入り、バックヤードの休憩室へと来た訳だが……
扉を開ける音に項垂れていた顔を上げると、目の前に置かれたのは湯気が立つマグカップだった。
「ホットミルクですけど飲めますか?」
コクンと頷き、マグカップを手に取り口をつければ甘いミルクの味と温かさが口内に広がり、仄かなブランデーの香りが鼻腔をくすぐる。冷え切った身体にしみ渡る温かさが、傷ついた心まで癒やしてくれるようだ。
「少し落ち着いたら帰った方がいい。タクシー呼びますので声をかけてください。店内のカウンターで軽く飲んでますので」
「まっ、待って! お願い。一人にしないで」
面倒臭い女だと自分でも思う。自棄になって迷惑をかけて、なのに見知らぬ男の優しさにすがろうとしている。
「……分かりました。少し店内で飲みますか? 今の時間なら、ほとんど客もいないですし、一人でいるより気がまぎれるでしょ」
彼の優しさが、ただただ嬉しかった。
♢
優しいジャズが流れる店内は、適度に照明が落とされたテーブル席とバーテンダーが立つカウンター席に別れていた。カウンター席とテーブル席は、クリスタルで出来たカーテンのオブジェで仕切られ、個々の空間として独立した造りになっている。
イチャつくカップルで埋め尽くされたテーブル席が見えない造りは、カウンターの端に座る今の私には有り難かった。
「何飲みますか?」
隣に座った彼に問いかけられるが、何も浮かばない。
「とにかく酔いたいの。強いお酒がいいわ」
「やめた方がいい。ヤケ酒なんて悪酔いをするだけだ」
「貴方には関係ないでしょ。そうねウィスキーをロックでちょうだい」
親切にしてくれた人にも悪態しかつけない自分が嫌になる。
「……ごめんなさい」
「いえ……」
それっきり沈黙が落ちる私達を気遣ってか、一杯のショートグラスが目の前に差し出された。
「メリーウィドーです」
バーテンダーに声をかけられ、昔の事を想い出す。
そういえば元彼とも馴染みのバーによく通った。蘊蓄を話したがる彼から、よくカクテル言葉を教えてもらったっけ。
お酒が好きだった彼に近づきたくて、色々とカクテル言葉を調べて覚えたものだ。
苦い想い出に変わるのなんて一瞬よね。
メリー・ウィドー
もう一度素敵な恋をか……
この先、恋なんて出来るのだろうか?
ショートグラスに入った赤いカクテルが心に刺さった矢から流れる血のようで胸がズキズキと痛む。
もう恋なんてしない。
一気に煽ったカクテルの味は、わからない。ただ焼けつくような喉の痛みが一瞬でも心の痛みを消し去ってくれる。
「クリスマスイブにヤケ酒に走る女の話なんて聞きたくもないと思う。だけど、ダメかな? 聞いてくれるだけでいいの」
「貴方が話して楽になるなら話せばいい。俺は聞く事しか出来ないけど……」
彼の優しさが心にしみる。
隣に座りグラスを傾ける名も知らぬ彼の表情は、わからない。
面倒くさい女だって呆れているかもしれない。でも、彼とは、もう二度と会わない。
だから、今だけは甘えさせて……
「私ね、クリスマスイブが誕生日なんだ。本当、昔から良い思い出なんてないけど、今日は最悪だったの。レストランでディナーをして、彼と一緒にホテルに泊まって……でもね、別れちゃった。彼ね、若い女と浮気してたんだ。十年も付き合って、やっと三十歳の誕生日にプロポーズしてくれる気になったんだって思っていたのに。人生で最高の誕生日になるって、本気で思ってたのよ。まさか、誕生日当日に浮気相手と一緒に別れを告げに来るなんて、思わないじゃない」
ひと筋涙が頬を伝う。
別れを告げられた時は泣けなかったのに、なんで今更涙が出てくるのだろうか。
後から後から流れ出した涙に耐えきれず、カウンターに突っ伏した私は嗚咽を堪えるのに必死だった。
「彼が浮気性だって、ずっと気づいてたのに。女の影があった事なんて一度や二度じゃ無いのにね。でも、信じたかった。初めての彼で、何もかも、彼が初めてで。全ての想い出が愛しくて……」
十年間の想い出が走馬灯のように脳裏を流れていく。
真っ赤な顔をして告白してくれた日。
公園デートの帰り道、初めてキスをした。優しく触れるだけのキスが物足りなくて抱きついてしまったこと。
彼の家での初めてのお泊まり。緊張でガチガチの私を気遣い、何もせず抱き締めて眠ってくれたこと。
二人で過ごす初めてのクリスマス。誕生日プレゼントにダイヤのネックレスを贈ってくれた。『頑張っちゃった』と笑う彼が愛しくて堪らなかった。
喧嘩も沢山した。何回も彼が信じられなくなった。何度も別れようと思った。
でも別れられなかった。
本気で愛していたから……
「……っ!?」
肩を震わせ泣き続ける私の頭に置かれた温もり。
「泣きたいだけ、泣けばいい」
ただ一言告げられた言葉が心に染みた。
心に突き刺さった矢が、涙と一緒に流れていく。
見知らぬ彼がくれた言葉は、冷え切った心に差し込んだ温かな光だった。
コメント
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第3話、読み終えました。雨の夜、見知らぬバーの店主が差し出したホットミルクと、カクテル「メリーウィドー」の対比が胸に沁みました。十年もの恋を失った痛みを、彼が「泣きたいだけ、泣けばいい」と受け止める場面、あの温かさと距離感の描き方が本当に繊細で。主人公の心の矢が少しずつ溶けていくような感覚、共感しながら読ませていただきました。続きが気になります🍀