TellerNovel

テラーノベル

アプリでサクサク楽しめる

テラーノベル(Teller Novel)

タイトル、作家名、タグで検索

ストーリーを書く

シェアするシェアする
報告する

「ライエル様⋯⋯

起きてくださいませ、ライエル様」


穏やかな声が

まだ夜の気配を残す空気に溶け込んだ。


誰かがそっとカーテンを引く音。


冷たい朝の光が

ほんのわずかに部屋を照らす。


──孤児院の、宿直室。


石造りの重たい建物の一室

分厚いカーテンと

遮音扉に守られたその空間の中で

ライエルは、ふわりと瞼を開けた。


「⋯⋯ん⋯⋯おはよう、ございます⋯⋯」


枕元に立つメイドたちの顔を

ぼんやりと見上げながら答える。


視線がゆっくりと壁掛けの時計へと向かう。


──時刻は、午前六時。


「⋯⋯あれ⋯⋯

今日は、いつもより早い⋯⋯?」


ライエルの起床時間は、 アラインのために

毎朝七時まで眠ることが〝ルール〟だった。


「ご入浴のご用意が整っております

ライエル様」


静かな声が続く。


「⋯⋯入浴⋯⋯?

あのアラインが

昨夜に済ませていないなんて、珍し──⋯」


そう呟いて身を起こしかけたその時──


ライエルの全身が、硬直した。


視界に映ったのは

──乾ききった、濃い赤。


血塗れのシーツ。

濃褐色に染まった神父服の裾。


指先、髪、首筋──

あらゆるところに

血の痕が斑にこびりついていた。


「⋯⋯ッ──!?」


声を上げかけた唇を

そっと、メイドの一人が人差し指で塞ぐ。


「⋯⋯大丈夫でございます、ライエル様。

ご安心を⋯⋯

子供たちは、まだ誰も目覚めておりません」


その言葉は

慰めというより、警告に近かった。


ー声を上げれば、誰かが気付くー

ーそうなれば、もっと面倒なことになるー


ライエルは息を呑み、口を閉ざしたまま頷く。


「⋯⋯わかりました⋯⋯」


血塗れの身体をそのままシーツで覆い

震えそうになる膝に力を込め

足をベッドから下ろす。


アラインの仕業だ。


そう──疑う余地もない。


ならば後ほど、静かに彼の精神領域に入り

昨夜の〝記録〟を確認しなければならない。


(⋯⋯アライン。

君が私に〝闘い方〟を教えるというのなら

私は君に〝優しさ〟と〝倫理〟を

教えなければならない)


震える指先を押さえつけながら

ライエルは無言のまま

メイドたちの案内に従って

バスルームへと向かった。



バスルームの扉を開けた瞬間

心地よい湯気と香料の優しい香りが

ふわりと肌を撫でた。


石造りの浴室は、既に完璧に整えられていた。


湯船には花弁が浮かべられ

タイルには踏み心地の良いマット。


洗面には

アライン愛用の櫛やクリームが

整然と並べられている。


──だが


「⋯⋯あの⋯⋯

さすがに、入浴は⋯⋯ひとりで」


戸を閉めようとしたその瞬間

当然のように

二人のメイドが一緒に入ってこようとした。


「申し訳ございません、ライエル様。

ですが⋯⋯アライン様に〝お仕えの仕方〟が

至らなかったと判断されれば⋯⋯」


言外の意味は、痛いほどわかった。


アラインは、些細なことにも徹底している。


特に、彼の

〝ライエルの身体に関するこだわり〟は

手入れにまで及んでいる。


彼の身体は〝芸術〟でなければならない。


それを乱すことは

侮辱と捉えられる可能性がある。


「⋯⋯そう、ですか⋯⋯」


ライエルは、ひとつ深く息を吸った。


そして、小さく苦笑しながら──

肩を落とした。


「では⋯⋯せめて、タオルをください。

⋯⋯あまり見ないでくださいね?」


「⋯⋯かしこまりました、ライエル様」


一糸纏わぬ白い背中が

静かに湯気の中へと沈んでいく。


血の跡は、石鹸と湯と

メイドたちの静かな手によって

少しずつ洗い流されていった。


だが、その〝記憶〟だけは──


決して、簡単には拭えないものだった。


湯気が静かに立ち昇る浴室のなかで

ライエルは浴槽の縁に身を預け

目を閉じていた。


浴槽の湯はぬるめに調整され

体温よりわずかに高い温もりが

彼の細い体を優しく包み込んでいる。


その首筋に

ひと房ひと房を分けるように

メイドの指が触れ

丁寧にコンディショナーを馴染ませていく。


爪を立てることなく、けれどしっかりと

地肌をほぐすような指使いは、プロの手だ。


「痛みはございませんか?」


小さな問いに

ライエルは軽く首を横に振った。


静かな音楽すら流れないこの空間には

時折跳ねる湯の音と

髪を撫でる手の動きだけが響いていた。


だが──


ライエルの意識は

すでに〝ここ〟にはなかった。


彼の精神は

静かに〝深層〟へと潜っていた。


精神世界の水面は

彼の内に広がる広大な鏡の湖。


その湖面に、淡く青白い光が走るたび──

昨夜、アラインがこの身体で成した

行動の〝記憶〟が浮かび上がる。


〝Owl Night〟


血と臓腑、哀れな絶叫と冷笑。


男の身体が床に沈み

踏みにじられる光景も──


淡々と、感情のない幻灯のように。


ライエルの瞳は閉じたままだが

その睫毛がほんのわずかに震えた。


(⋯⋯殺してしまったのですか)


記憶に音はない。

彼の心の声も、届かない。


だが、それでも──

アラインが〝何をしようとしているか〟は

何となくわかった。


孤児院の人員不足。


記憶を書き換えられていない古参の

不穏な動き。


統率の乱れを正すために

〝ライエル〟という存在を

強く焼き付ける必要があった。


そして

再び炊き出しでのような事件を

起こさぬために

人身売買のギャングの一部を

〝壊す〟という選択を取ったのだ。


(──増えるメンバーに

本物の居場所と職を与えようとしている)


アラインは今

裏ではなく〝表〟に出ようとしている。


実業家として

ノーブル・ウィルを成り立たせ

部下たちを社会に通用する存在として

育てようとしているのだ。


⋯⋯それは、確かに素晴らしい。


けれど──⋯


(⋯⋯その手法は〝正しさ〟ではない)


恐怖で押さえつけ、暴力で沈黙させ

反抗を許さず、血を流させることで──


秩序を保とうとしている。


それは〝抑止〟ではなく〝制圧〟だ。


ライエルはゆっくりと小さく息を吸った。


髪に触れる手は変わらず丁寧で

湯気に混じるラベンダーの香りが

心を和らげる。


(⋯⋯君は、優しさを知らなかった)


アラインの背に刻まれた深い傷痕──


あの醜悪な焼け爪の跡。


その存在だけで

誰もが彼を化け物として扱い

誰一人として

あの孤児院で抱き締めようとした者は

いなかった。


彼にとって、人と人との関係とは

常に〝支配される〟か〝支配する〟か

そのどちらかしかなかった。


誰かを信じて

手を伸ばすという〝行為〟自体を──

彼は生まれて一度も教えられていないのだ。


ならば、倫理を説く言葉など

彼にとっては

意味のない音にしか聞こえない。


〝知らない〟ものを〝実践しろ〟と

言うことは

海を知らぬ者に舟を漕げというようなもの。


──なら


(⋯⋯まずは、私が。

私が彼に〝優しさ〟を示さなければ)


彼に教えられた剣筋のように

私もまた、彼に〝心〟を伝えよう。


牙を剥く理由が失われるほどに

抱き締めたくなる〝温もり〟を

まずはこの手から与えていかなければ。


(君の刃が

もう誰かを傷つけなくて良いように)


ライエルは静かに目を開けた。


「⋯⋯ありがとう。

とても、気持ちよかったです」


メイドたちが、うやうやしく頭を下げる。

だが彼女達の動きより早く

ライエルの手がそっと彼女達の手を取った。


「貴女たちもどうか⋯⋯無理はなさらずに」


その手は、優しくも儚い。


けれど確かに

誰かを守りたいと願う人の手だった。


彼はまだ、傷つく世界に──

優しさを諦めていない。

紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜

作品ページ作品ページ
次の話を読む

この作品はいかがでしたか?

624

コメント

0

👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!

チャット小説はテラーノベルアプリをインストール
テラーノベルのスクリーンショット
テラーノベル

電車の中でも寝る前のベッドの中でもサクサク快適に。
もっと読みたい!がどんどんみつかる。
「読んで」「書いて」毎日が楽しくなる小説アプリをダウンロードしよう。

Apple StoreGoogle Play Store
本棚

ホーム

本棚

検索

ストーリーを書く
本棚

通知

本棚

本棚