「ライエル様⋯⋯
起きてくださいませ、ライエル様」
穏やかな声が
まだ夜の気配を残す空気に溶け込んだ。
誰かがそっとカーテンを引く音。
冷たい朝の光が
ほんのわずかに部屋を照らす。
──孤児院の、宿直室。
石造りの重たい建物の一室
分厚いカーテンと
遮音扉に守られたその空間の中で
ライエルは、ふわりと瞼を開けた。
「⋯⋯ん⋯⋯おはよう、ございます⋯⋯」
枕元に立つメイドたちの顔を
ぼんやりと見上げながら答える。
視線がゆっくりと壁掛けの時計へと向かう。
──時刻は、午前六時。
「⋯⋯あれ⋯⋯
今日は、いつもより早い⋯⋯?」
ライエルの起床時間は、 アラインのために
毎朝七時まで眠ることが〝ルール〟だった。
「ご入浴のご用意が整っております
ライエル様」
静かな声が続く。
「⋯⋯入浴⋯⋯?
あのアラインが
昨夜に済ませていないなんて、珍し──⋯」
そう呟いて身を起こしかけたその時──
ライエルの全身が、硬直した。
視界に映ったのは
──乾ききった、濃い赤。
血塗れのシーツ。
濃褐色に染まった神父服の裾。
指先、髪、首筋──
あらゆるところに
血の痕が斑にこびりついていた。
「⋯⋯ッ──!?」
声を上げかけた唇を
そっと、メイドの一人が人差し指で塞ぐ。
「⋯⋯大丈夫でございます、ライエル様。
ご安心を⋯⋯
子供たちは、まだ誰も目覚めておりません」
その言葉は
慰めというより、警告に近かった。
ー声を上げれば、誰かが気付くー
ーそうなれば、もっと面倒なことになるー
ライエルは息を呑み、口を閉ざしたまま頷く。
「⋯⋯わかりました⋯⋯」
血塗れの身体をそのままシーツで覆い
震えそうになる膝に力を込め
足をベッドから下ろす。
アラインの仕業だ。
そう──疑う余地もない。
ならば後ほど、静かに彼の精神領域に入り
昨夜の〝記録〟を確認しなければならない。
(⋯⋯アライン。
君が私に〝闘い方〟を教えるというのなら
私は君に〝優しさ〟と〝倫理〟を
教えなければならない)
震える指先を押さえつけながら
ライエルは無言のまま
メイドたちの案内に従って
バスルームへと向かった。
⸻
バスルームの扉を開けた瞬間
心地よい湯気と香料の優しい香りが
ふわりと肌を撫でた。
石造りの浴室は、既に完璧に整えられていた。
湯船には花弁が浮かべられ
タイルには踏み心地の良いマット。
洗面には
アライン愛用の櫛やクリームが
整然と並べられている。
──だが
「⋯⋯あの⋯⋯
さすがに、入浴は⋯⋯ひとりで」
戸を閉めようとしたその瞬間
当然のように
二人のメイドが一緒に入ってこようとした。
「申し訳ございません、ライエル様。
ですが⋯⋯アライン様に〝お仕えの仕方〟が
至らなかったと判断されれば⋯⋯」
言外の意味は、痛いほどわかった。
アラインは、些細なことにも徹底している。
特に、彼の
〝ライエルの身体に関するこだわり〟は
手入れにまで及んでいる。
彼の身体は〝芸術〟でなければならない。
それを乱すことは
侮辱と捉えられる可能性がある。
「⋯⋯そう、ですか⋯⋯」
ライエルは、ひとつ深く息を吸った。
そして、小さく苦笑しながら──
肩を落とした。
「では⋯⋯せめて、タオルをください。
⋯⋯あまり見ないでくださいね?」
「⋯⋯かしこまりました、ライエル様」
一糸纏わぬ白い背中が
静かに湯気の中へと沈んでいく。
血の跡は、石鹸と湯と
メイドたちの静かな手によって
少しずつ洗い流されていった。
だが、その〝記憶〟だけは──
決して、簡単には拭えないものだった。
湯気が静かに立ち昇る浴室のなかで
ライエルは浴槽の縁に身を預け
目を閉じていた。
浴槽の湯はぬるめに調整され
体温よりわずかに高い温もりが
彼の細い体を優しく包み込んでいる。
その首筋に
ひと房ひと房を分けるように
メイドの指が触れ
丁寧にコンディショナーを馴染ませていく。
爪を立てることなく、けれどしっかりと
地肌をほぐすような指使いは、プロの手だ。
「痛みはございませんか?」
小さな問いに
ライエルは軽く首を横に振った。
静かな音楽すら流れないこの空間には
時折跳ねる湯の音と
髪を撫でる手の動きだけが響いていた。
だが──
ライエルの意識は
すでに〝ここ〟にはなかった。
彼の精神は
静かに〝深層〟へと潜っていた。
精神世界の水面は
彼の内に広がる広大な鏡の湖。
その湖面に、淡く青白い光が走るたび──
昨夜、アラインがこの身体で成した
行動の〝記憶〟が浮かび上がる。
〝Owl Night〟
血と臓腑、哀れな絶叫と冷笑。
男の身体が床に沈み
踏みにじられる光景も──
淡々と、感情のない幻灯のように。
ライエルの瞳は閉じたままだが
その睫毛がほんのわずかに震えた。
(⋯⋯殺してしまったのですか)
記憶に音はない。
彼の心の声も、届かない。
だが、それでも──
アラインが〝何をしようとしているか〟は
何となくわかった。
孤児院の人員不足。
記憶を書き換えられていない古参の
不穏な動き。
統率の乱れを正すために
〝ライエル〟という存在を
強く焼き付ける必要があった。
そして
再び炊き出しでのような事件を
起こさぬために
人身売買のギャングの一部を
〝壊す〟という選択を取ったのだ。
(──増えるメンバーに
本物の居場所と職を与えようとしている)
アラインは今
裏ではなく〝表〟に出ようとしている。
実業家として
ノーブル・ウィルを成り立たせ
部下たちを社会に通用する存在として
育てようとしているのだ。
⋯⋯それは、確かに素晴らしい。
けれど──⋯
(⋯⋯その手法は〝正しさ〟ではない)
恐怖で押さえつけ、暴力で沈黙させ
反抗を許さず、血を流させることで──
秩序を保とうとしている。
それは〝抑止〟ではなく〝制圧〟だ。
ライエルはゆっくりと小さく息を吸った。
髪に触れる手は変わらず丁寧で
湯気に混じるラベンダーの香りが
心を和らげる。
(⋯⋯君は、優しさを知らなかった)
アラインの背に刻まれた深い傷痕──
あの醜悪な焼け爪の跡。
その存在だけで
誰もが彼を化け物として扱い
誰一人として
あの孤児院で抱き締めようとした者は
いなかった。
彼にとって、人と人との関係とは
常に〝支配される〟か〝支配する〟か
そのどちらかしかなかった。
誰かを信じて
手を伸ばすという〝行為〟自体を──
彼は生まれて一度も教えられていないのだ。
ならば、倫理を説く言葉など
彼にとっては
意味のない音にしか聞こえない。
〝知らない〟ものを〝実践しろ〟と
言うことは
海を知らぬ者に舟を漕げというようなもの。
──なら
(⋯⋯まずは、私が。
私が彼に〝優しさ〟を示さなければ)
彼に教えられた剣筋のように
私もまた、彼に〝心〟を伝えよう。
牙を剥く理由が失われるほどに
抱き締めたくなる〝温もり〟を
まずはこの手から与えていかなければ。
(君の刃が
もう誰かを傷つけなくて良いように)
ライエルは静かに目を開けた。
「⋯⋯ありがとう。
とても、気持ちよかったです」
メイドたちが、恭しく頭を下げる。
だが彼女達の動きより早く
ライエルの手がそっと彼女達の手を取った。
「貴女たちもどうか⋯⋯無理はなさらずに」
その手は、優しくも儚い。
けれど確かに
誰かを守りたいと願う人の手だった。
彼はまだ、傷つく世界に──
優しさを諦めていない。