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「ふ、ふ、ふふふ──
触れられてしまいましたわっっっ!!」
廊下に響く、裏返った悲鳴。
それは
メイド控え室の扉が閉まるや否やの
出来事だった。
ライエルの入浴と着替えを終え
部屋を下がったメイドたちは
ようやく安堵の息をつく暇を得た──
が、その内の一人のメイドが
その場に力尽きたように膝を折り
廊下にへたり込んでしまった。
「ふふっ。
アビゲイルは
ライエル様の大ファンだものね?」
明るく笑いながら背中を撫でた同僚の言葉に
アビゲイルと呼ばれたその少女は
自分の両手で〝触れられた〟箇所を
胸にぎゅっと抱きしめ
陶酔した面持ちで、頷いた。
「えぇ、それはもうっ⋯⋯!
両親を事故で亡くして
世の中すべてが灰色に見えていたあの時──
あのお方は
わたくしを見てくださったんです⋯⋯っ!
面接で、ひと目で採用してくださって!」
瞳には、既にうっすらと涙の膜。
けれど、それは悲しみではない。
限りなく純粋な、崇敬と感激の輝きだった。
「住み込みで働かせていただけて⋯⋯
朝な夕なに
あのご尊顔を拝めるなんて⋯⋯!
あの⋯⋯絵に描いたような、完璧な美⋯⋯!
これを〝尊い〟と言わず
何と言いましょうかっ!!」
「⋯⋯あははっ、アビィってさ
ライエル様が
〝実在する初めての推し〟なんだっけ?」
肩を揺らしながら隣で笑った
もう一人のメイドが
冗談めかして問いかける。
けれど
アビゲイルは
まるでからかわれていることにも
気付かぬ様子で──
「ええっ、そうですともっ!!」
と、即答し、力強く首を縦に振った。
「フィクションのキャラに
夢中だった頃のわたくしが
いかに未熟だったか⋯⋯!
ライエル様のお姿を拝したその瞬間
世界の解像度が変わりましたもの⋯⋯!」
熱弁を振るいながら
彼女は床にぺたりと座り込んだまま
先ほどかすかに触れられた指に
その一瞬の温もりを思い出しながら
胸の前でそっと手を組んだ。
──湯気の中で揺れた
白磁のように滑らかな背中。
──水滴が頬を伝った瞬間の
儚い美。
──タオル越しに伝わった
微かな指先の震え。
それら全てが、今や彼女の胸の中に
宝物のようにしまい込まれていた。
その時──
「アビィ、こっち。
資料の整理、まだ終わってないわよ?」
扉の向こうから覗いた別のメイドの声が
現実を引き戻す。
「はっ⋯⋯はいっ!!
今、すぐに参りますわ!!」
ばっと立ち上がったものの
ふらつく足取りは
まるで夢から覚めきれないままの
人形のようだった。
(ライエル様⋯⋯
今朝のお姿は、まるで⋯⋯)
心の中で呟きながら
遠いものを見るような眼差しを
廊下の先に向ける。
──血に塗れた神父服。
それを見て、驚愕し、唇を震わせた
あの美しい顔。
「⋯⋯アライン様の所業に
驚かれるお顔もお美しかったですが⋯⋯
あの、お身体に血が⋯⋯
可哀想でしたわね⋯⋯」
そっと呟き、息を飲む。
自分には何もできない。
ただ、祈ることしかできない。
それでも──
この手で拭えたこと
少しでも癒せたことを信じて。
アビゲイルは、再び整った制服の裾をつまみ
控え室へと歩を進めた。
──記憶を改竄されたわけでもない。
──抑圧されたわけでもない。
ただ、純粋に。
〝美しさ〟と〝優しさ〟に
心を奪われた少女がここにひとり──
その微笑みは、誰よりも真っ直ぐな
〝信仰〟の形をしていた。