春から夏に移り変わる時期。
梅雨に入る直前の今頃は、とても心地よい気候だ。
夜になると少し冷え込むが、それでも過ごしやすいと思えるような温度だ。
ところで、春になると出てくるものがいくつかある。新芽、虫、人が思い浮かべるのはそれぞれだ。
が、多くの人が思い浮かべるのが不審者、変質者といった類だろう。春先に学校で注意喚起するぐらいに、彼らは風物詩として有名人なのだ。
この間、少年を襲った通り魔も例外ではない。
さて、その少年はというと、こちらもクラスではちょっとした有名人になっていた。
通り魔に殺されかけた、そこを青年に助けてもらった、警察からの事情聴取、野次馬からの面白半分の視線。更にその青年は今噂の『雑誌の人』なのでは、と。全ての話が少年を含めた中学生にとって、とても刺激的なものに思えた。
もちろん、自分の目で見たものしか信じない、という人が一定数いるのも確かだ。たまたまだろう、そんな話が本当な訳はない、と笑い飛ばす者がほとんどだった。それだけ信憑性に欠けている話なのだから。
しかし、あの時一緒に雑誌を広げていたメンバーは反対に大きく盛り上がった。オカルトが本物だったことに対する形容し難い興奮、出会えなかったことを後悔する者。自分はそれに遭遇出来なかった、と地団駄を踏んで悔しがるほどだった。
少年はその時の状況、青年のことについて事細かく、彼らに説明した。
通り魔に遭った時、頭が真っ白になったこと。
暗い夜道では、避難訓練よりも体が動かないこと。
もうダメだ、と思い合言葉を叫んだ瞬間、無風だったはずなのにいきなり風が吹いたこと。
目を開けたら自分の前に別の人が立っていたこと。
その青年が男を退治してくれたこと。
人間離れした風貌だったこと、など。
3人は目を輝かせながら、自分たちにとって未知の体験を臨場感たっぷりに語る少年の話に聴き入っていた。
なぜ彼に何も聞かなかったのか、と少し責められはしたが、「聞く必要がなかった」とだけ少年は説明した。
他の少年たちは納得がいかなかったようだが、彼には優しい風が青年だったという確信がある。
それだけで十分だと考えていたのだ。
同時に、日本のごく僅かな地域ではあるが噂になっている人に、自分だけが会うことが出来た、という優越感があったのも確かだ。
そして、当然ながら疑問も湧き上がった。
そもそもあの合言葉はどうやって作られたのか、誰がいつ使って雑誌に載るに至ったのか。分からないことだらけではあるが、ただの中学生にはそれを調べる術がない。
結局、その話はクラスの皆や他校の友達などに口づてで広まるに留まった。
彼はそういう認識でいた。
だが、彼は気づいていなかった。
小さい町では、噂が広まるのがとても早いということ。それこそ、オカルト雑誌など普段読まない人にまで広がるのだ。もちろん、悪いことでは無いのだが。
しばらく、この町に隣接する市町村にも噂が流れることになった。
ここは町外れにある、所謂廃墟だ。
赤で塗られた外壁は所々塗装が剥げ、蔦が絡んでいる。庭も手入れがされておらず草が生い茂り、日中でもどこか薄暗い、いかにもといった感じの廃墟。
取り壊される訳でもなければ、改修される訳でもない、何故か存在感が感じられる、どこにでもある家屋跡。
大抵の人は不気味がって近づこうとはしない。訪れるとしても肝試し、あるいは金品目的の輩ぐらいなものだろう。
しかし、この家は廃墟であって、廃墟ではない。
家の2階、階段を登って右手に見える部屋。
まだ人が住んでいた頃、寝室として使われていたであろう一室。明るい黄緑色の壁紙は少し煤けて暗い色になり、鏡台などはそのまま放置されている。その部屋の窓のすぐ横に配置されたダブルベッド。その上に、一人の青年が寝転がっていた。
もちろん、彼の家ではない。
世間一般的に言えば、不法侵入に該当するだろう。しかし、勝手に廃墟ないし廃屋に棲みついているのは日本国内で彼だけ、という訳でもないのだ。
そんな彼は、普段我が物顔でこの家を使っている。廃墟であるため電気も水道も通っていないが、彼は気にしていない。寝るため、あるいは雨風を凌いで暇を潰すためのみに使用しているのだから。
夢から覚め、気持ちよさそうに起きた青年。起きたあとしばらくはベッドが恋しくなるものだが、彼にはそのような様子は見られない。
まだ少し強い日差しを浴びながら、上体を起こし、壁にもたれ掛かる。太陽に照らされて、彼の白髪がキラキラと光る。眩しさに紫色の目を細めながら、今度は窓際よりずっと仄暗い部屋の中に視線を移し、少しばかりぼーっとする。
寝ている間に侵入した者はいないようだ。
無論、気配がなかったのだからいる訳がない。
青年はそう考えながら、一人で寝るには少し大きめのベッドから立ちあがり、壁にかけてあった明るい茶色のベストを羽織る。
そう、彼こそ『雑誌の人』である。
『噂の中心』こと少年がいる町から東へ進んだ隣町。
名を紅葉町という。
大きいわけでもなく、地域のつながりが少しばかり濃い感じの中規模の町。最近オープンしたショッピングモールが賑わいをみせ、商店街もそれなりに人が行き交う、そんな町。
この町の郊外に建つ、少し年季の入ったアパート。
1、2階合わせて8室の、小さい建物だ。
その一室から絶えず漏れる呻き声は外に響くことなく、近隣の音にかき消されてしまっている。
カーテンを締め切り、暗い室内。
物が散乱したリビング。
中央には、二人の人影。
一人は首を締められ、苦しそうな呻き声をあげながら必死にもがく高校生の男。
茶髪に端正な顔立ちの彼。しかし今は苦痛に顔を歪めている。
もう一人は彼に跨り、首に手をかける彼の母親。
酸欠になり、意識朦朧。今にも事切れそうな彼は、力が込められる母親の手を必死に剥がそうとしている。
ばたつかせた足が、痣になるほどの勢いで何度も何度も当たっている。にも関わらず力を緩めず、高校男子にも勝る程の力でギリギリと締めている母親。
「あんたさえっ……!!あんたさえいなければっ!!あの人は!!私をっ!!」
狂ったように叫びながら、手に力を込める。
彼は思った。母はおろか、自分も助からないだろうと。
同時に、こんな状況でさえ母を案じる自分はなんて愚かなのだろう、と。
目の前が暗くなってきた彼の脳内に、走馬灯のように昼間学校で聞いた話が蘇る。
「合言葉を言えば助けに来てくれるんだって!!」
聞いた時は単なる噂話だろうと、内心馬鹿にしていた。
――でも。
このまま殺されるのだと悟った彼は、非情な運命への当てつけのつもりで、しかし僅かな望みをかけて、声を絞り出し、呟いた。
「….10or11」
と。
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