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塾のバッグを背負った美幸は、東山病院の正面玄関を抜け、総合受付カウンターに立ち寄った。
学校が終わり、塾が始まるまでの合間の時間、沙羅に会いに来たのだ。
そして、今日からお泊まり予定の藤井と待ち合わせをしている。
手には、お泊りセットが入ったバッグを持ち、まあまあ大荷物の状態。
「すみません。603号室の佐藤沙羅のお見舞いに来ました」
受付カウンターで面会受付票に記入すると、受付カードが渡される。
「ありがとうございました」と受け取って、バッグを持ち直した。すると、バッグに付けていたネズミーランドのキーホルダー型ぬいぐるみが、コロコロと逃げて行く。
「あっ!」と思った瞬間には、たまたま通り掛かった人の足に当たり、コーンと蹴られた形になってしまった。
美幸から逃げだした人形は、スルスルと床の上を滑り、やがて、大きな手に拾い上げられた。
「これ、君の?」
背の高い男性、切れ長の瞳が優しく弧を描く。
コクンとうなずいた美幸が、おずおずと手のひらを広げて差し出すと、ぬいぐるみがちょこんと乗せられた。
美幸は、ぱぁっと笑顔を見せる。
「ありがとうございます。お兄さんもお見舞いに来たんですか?」
診察の受付が終わったこの時間、今から受付に来るのはお見舞い客ばかりだ。
だから、美幸はそう思って訊いたのだが、男性は寂しそうに微笑んだ。
「君もお見舞いに来たの?」
「はい、お母さんが昨日倒れて……。でも、重い病気じゃなかったみたいで検査が終わったら退院できるかも知れないんです」
美幸の言葉に男性はホッと息を吐き出した。
「そう、お母さんが重い病気じゃなくて良かったね」
「はい、本当によかった。あ、エレベーター来てる!わたし、行きますね。ありがとうございました」
美幸は男性に手を振り、エレベーターに飛び乗るとドアが閉まった。
エレベーターのドアが閉まり、美幸を見送った慶太は、体の力が抜けたように待合の長椅子に腰を下ろした。
病院に来ても会える保証もないのに、少しでも沙羅の病状を知りたくて足を運んだ。
そこで、偶然出会った小さな人形の持ち主は、沙羅の面影を宿す少女だった。
「あの子が、沙羅の娘なんだ」
思いがけない出会いに、慶太の心は高揚した。
今まで、おぼろげだった家族の形が、色づき鮮明になっていく。
「重い病気じゃなくて良かった」
朝に会った時、沙羅の様子を見た限りでは、顔色は青白く、薬が効いているせいだと言っていたが、会話も途切れ途切れで、安心できる状態ではなかった。
正直いって、心配で持って来た仕事も手に付かなかったのだ。
それが、重い病気でないと聞いて、安堵から緊張が解けた。
「良かった……」
どれくらい、長椅子に座って居たのだろうか、窓から見える空が夕暮れに変わっていた。
チンと高い音がして、エレベーターの扉が開く。
そこから、降りて来た美幸が声を上げる。
「あっ、さっき人形を拾ってくれたお兄さんだ」
その声に慶太が顔を向けた。
美幸の横に居る藤井が慶太に気づき、訝し気に眉をひそめる。
「どうして、高良さんが|東山病院《ここ》に居るのかしら?」
先月、行われたHotel coucher de soleilでのパーティーで慶太が婚約者と噂される女性を連れていたのを知っている藤井は、慶太へ怪訝な視線を送る。
藤井の様子から、慶太は沙羅が自分と付き合っているのを言っていないのだと思い、ウソは言わずにしゃべれる範囲を話す事にした。
「佐藤沙羅さんとは、高校の頃の同級生だったんです。それで、この夏に偶然金沢で再会しました。昨晩、彼女がこの病院に緊急で運ばれたと田辺から聞き、金沢から駆けつけました。彼女からは、藤井さんがご親戚だと伺っています」
聡い藤井は、それだけで沙羅と慶太の関係を察し、諦めたように細く息を吐き出した。
「沙羅さんが、会いたいと思って居たのは貴方だったのね」
それを聞いて、美幸が不思議そうに首を傾げる。
「紀美子さん。このお兄さん、お母さんのお友達なの?」
「そうみたいね。このお兄さん、お母さんに会いに金沢から来たみたいなの。美幸ちゃんは、お母さんに会わせてもいいと思う?」
「わざわざ遠くから来てくれたなら、お母さんも会いたいと思うよ。あっ、でも、お母さん、お化粧していないから恥ずかしいかな?」
美幸の一言に藤井がプッと吹き出し、場の雰囲気が和む。
「高良さん、美幸ちゃんのお許しが出たから、この病院の面会の許可もらってあげるわ。ちょっと待って居てくださる?」
そう言って、藤井は総合受付のカウンターに行き、事務員さんと何やら話を始めた。
にぎやかだった病室が、美幸と藤井が帰った途端に静かになった。
ベッドに横になった沙羅はテレビを見る気にもなれず、掛け布団に深く潜る。そして、枕の下に手を入れ、そっと名刺を取り出した。
名刺を裏返すと、「連絡待っています」との走り書き。少しクセのある文字が、愛おしい。
「慶太……」
この前のパーティーで、一緒に居た女性と結婚の話が進んでいるとしたら、この先、ふたりの関係はどうなって行くのだろうか……。
慶太は縁談は断ると言っていたけれど、秘書の人まで出て来て身辺整理をしているのだとしたら、縁談が慶太の手に負えないほど、どんどん進んでいるのだろう。
止められない気持ちはどうしたらいいのか、自分でも持て余してしまう。
不倫をしている人をあんなに軽蔑していたのに、もしかしたら、スル側になってしまうのかも知れない。
頭の中で考えても詮無い事だとわかっている。けれど、不安ばかりが先走る。
具合が悪いから思考がネガティブスパイラルに陥っているのか、ネガティブが思考が具合を悪くさせているのか……。
病室の白い天井は、気持ちを後ろ向きにさせる。
「はぁ。なんだかなぁ」
と、ぼやいた所でコンコンとノック音がする。
沙羅は看護師さんが来たのかと思い「はい、どうぞ」と返事をした。
ドアが開き、背の高い人影が動く。
「うそ……」
目の前に慶太が居る事が信じられずに、沙羅は目を見開いたまま、固まってしまう。
けれど、慶太が一歩ずつ近づいて来る度に、沙羅の心臓は早い脈動を繰り返していた。
「沙羅……」
囁くように名前を呼び、慶太の手が、沙羅の体温確かめるようにをそっと頬を包む。
大きな手のひらから伝わる温かみに、沙羅は頬を寄せた。
話したい事がたくさんある。それなのに、胸がいっぱいで言葉が上手く出てこない。
「慶太……。会いたかった」
「具合は?」
「いまは大丈夫。心配かけてごめんなさい」
「ん、吐血したって聞いて驚いた。でも、さっき沙羅のお嬢さん、美幸ちゃんに会って重い病気じゃないって聞いて安心した」
「えっ、美幸に会ったの?」
沙羅は大きく目を見開いた。
慶太は思い出したように、ふわりと切れ長の瞳を細める。
「下の総合受付のところで、美幸ちゃんが人形を落としたのを拾ったんだ。沙羅によく似ていたから、直ぐにわかったよ」
「さっき、キーホルダーの人形が取れちゃったって言っていたのよ。背の高いお兄さんに拾ってもらったって、慶太の事だったのね」
「しっかりして、いい子だね。沙羅が大切に育てているのが伝わってくる。美幸ちゃんのOKが出たから、藤井さんが面会の許可を取ってくれたんだ。その時に、沙羅の事を娘と思っているから、悲しませたら許さないって、クギを刺されたよ」
母親のように心配していると言った言葉の通り、藤井は沙羅の世話を焼き、温かな感情を注いでくれている。
早くに両親を亡くした沙羅にとって、藤井の過保護っぷりは、くすぐったくて、ほんわりとした気持ちにさせられる。
「紀美子さんには、すごく可愛がって頂いているの。……養子縁組の話しもくださって美幸と相談して決めようかと思って」
それを聞いた慶太は、顎に手を当て、考え込むように口を引き結ぶ。
沙羅が、体調を崩し病院に運ばれた時に、藤井も慶太と同じように沙羅を心配し、もどかしい思いを感じたのだろう。そんな思いを経て、藤井は沙羅に養子縁組を提案し、家族になろうとしているのだと思い当たった。
「そうか、沙羅が考えた末に決めた事なら応援するよ」
「うん……」
沙羅は、慶太の言葉にうなずいたものの、一抹の寂しさを感じていた。
藤井との養子縁組を受けたなら、佐藤沙羅から藤井沙羅に苗字が変わる。
婚姻関係ではない苗字の変化を慶太がすんなり受け入れているのは、突き放された気分になってしまう。
沙羅は、慶太の考えを知りたくて、顔を見つめた。
視線が絡むと、慶太は苦しそうに眉根を寄せる。
「沙羅、俺からも大切な話しがあるんだ。まず、謝罪をさせて欲しい。昨日、秘書の中山が沙羅に会いに行ったと聞いた。その際に、沙羅を傷つけるような話をして、本当に申し訳ない」
頭を下げる慶太へ、沙羅は手を差し伸べる。
沙羅の細い指先が頬に触れると、慶太はビクッと肩を震わせて顔を上げた。そんな慶太に沙羅は、愁いを帯びた表情を向ける。
「秘書の人が来た時、”ああ、やっぱり”って思った。慶太には言えなかったけれど、昔、慶太のお母様に”然るべき所から花嫁を迎える”と、慶太との付き合いを反対された事があったの。だから、今回も付き合う事を決めた時から反対されるって覚悟していたのに、いざとなったら取り乱してしまって、ダメだなって……。心配させてごめんね」
沙羅の言葉を聞いて、慶太は瞼を閉じた。
昔、沙羅が進路を変えた|理由《わけ》には、やはり自分との交際が原因だった。
不甲斐ない自分に慶太の胸は石を飲み込んだように重くなる。
そっと、瞼を開いた慶太は、頬に添えられた沙羅の手を両手で包み込む。
「謝らないでくれ。昔も今も、俺の力が足りないばかりに、沙羅を悲しませてばかりでごめん」
「ううん。あの時は、子供だったから……。ひとりで抱え込まないで、慶太にちゃんと相談すれば、また違う道が開けたかも知れないのに、自分だけがあきらめればいいんだって、思い込んでダメだよね。だから、今回は慶太から別れを告げられるまで、他の人の言葉に振り回されないようにって、決めていたの」
沙羅の手を握る慶太の手に力が籠る。
「俺が沙羅に別れを告げるなんて絶対に無い。だから、何でも話して欲しい」
沙羅が強い覚悟で、自分と付き合う選択をしてくれていた事に、慶太の心は打ち震える。
だが、自分と一緒に居るために、倒れるほど思い悩んだと思うと慶太は、いたたまれない思いだ。
「うん、慶太を信じてる。今回の秘書さんの件も夜に連絡を入れようと思って居たの。それなのに、倒れてしまって……心配かけてごめんなさい」
謝るのは自分の方だと、慶太はゆっくりと首を横に振った。
「俺の父が余計な事をして、沙羅に嫌な思いをさせたから……本当にごめん。お見合いの件も父には、はっきりと断った。もう沙羅との付き合いに口を挟ませたりしないよ。俺こそ心配させてごめん」
慶太の言葉を聞いて、沙羅は安堵の息を吐きだした。
父親に対して、仕事上の取引先である立華商事のご令嬢との縁談を断り、ふたりの交際を認めさせるのに、どれほどの覚悟を持って話をしたのか。
慶太の自分への想いに沙羅の心は温かな気持ちで満たされる。
「……慶太、ありがとう」
沙羅の手を握っていた慶太の手がスルリと動き、沙羅の顔に掛かっていた髪を梳き撫でつける。
「沙羅、早く良くなって……思いっきり抱きしめたい」
艶のある声で慶太に囁かれ、恥ずかしくなった沙羅は、頬を赤らめながらうつむく。
髪を撫でていた慶太の手が、沙羅の顎先を捉え、顔を上げさせた。
「ここ……病室」
「ん、だから、キスだけ……いい?」
唇が重なり、体温がダイレクトに伝わる。
柔らかくて温かな甘い刺激に、心は軽くなり、未来に対する不安も溶けて行く。
チュッと音を立てて、唇が離れた。
沙羅は、ゆっくりと瞼を開き、慶太の瞳をじっと見つめた。
切れ長の瞳は優しい色で沙羅を見つめ返す。
「沙羅、これからは、お互い隠し事はしないで、なんでも話し合おう。不満でも何でも受け止めるから……聞くよ、いくらでも」
「うん、私もたくさん話しをする。だから、慶太も話して」
相手の事を思い、心配かけないようにとひとりで抱え込み出した答えは、時として、独り善がりになってしまう事がある。
「ん、約束」
そう言って、慶太は沙羅の前に小指を立てた。
その指に沙羅は小指を絡める。
「ふふっ、約束ね」
恋人同士と言えど、他人と他人。
良い事も悪い事も話しをして、問題があれば、ふたりで乗り越える道を探し続けるしかない。それが、遠回りになろうとも、険しい道であろうとも、助け合い進めば、いつか振り返った時に、「あんな事もあったね」と、ふたりの胸に思い出として刻み込まれるはずだ。