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「征樹兄ちゃんが適当すぎなんだ」
頭を撫でられながらの悪態になど、さしたる効果はない。
征樹に応えた様子がないのは当然であろう。
「アンケートもだが、その異様な睫毛の漫画は何なんだ?」
「や、やめてよ。これはモブ子さんたちのレポートで……」
頬が熱くなるのが分かって蓮は大袈裟に首を振った。
ごめんよ、モブ子さんたち。
君たちの渾身のレポートを見られて恥ずかしいなんて思ってしまって。
「そんなのサッと見て適当に点数をつけりゃいいだろ」
「だ、だめだよ! モブ子さんたちが一生懸命に描いてくれたものなんだから。中身はよく分からないけれど、熱量だけはひしひしと伝わるんだから」
正直にいうと生徒たちの提出物に点数なんてつけたくない。
「だってみんな百点満点の一等賞なんだから」
ふふっ、と笑いながら征樹の頭くしゃくしゃ攻撃はさらにひどくなる。
「仕方がないなぁ、お前は」
アンケートは引き取るよと言ってくれたのは、従兄としての恩情であったのだろう。
何をするにも人の倍ほど時間のかかる親戚の子を、年上の従兄は子どものころからいつも助けてくれていた。
「あ、あり……ありが……」
小さな声は、スーツの後姿には届くまい。
大学生だった蓮にBL学という存在を教えてくれたのは、当時講師として日本中世史を担当していた征樹だった。
従兄はそんなことは覚えちゃいないのだろう。
たまに遭遇すれば蓮をからかって行ってしまう。
ときには厄介な用事を押しつけられることも。
なのに頼りにしてしまうのも、蓮としては致し方のないことなのだ。
「よいしょ」
冊子を抱え直す蓮。
ぐしゃぐしゃに乱された頭を、できることなら直したい。
お洒落に疎いといっても、お年ごろなのだ。
いつもの寝癖ならまだしも、ボサボサ頭で校内を闊歩するのは躊躇われた。
しかしモブ子らのレポートがズシリと存在を主張する。
表紙に描かれた「肩幅」と「睫毛」を、これ以上人目には晒したくない──彼女たちのためにも。
仕方がない。
鳥の巣のような頭をそのままに、蓮は渡り廊下の端に寄った。
「うーん、みっともないなぁ。女学生さんたちの視線が痛いよ……」
うつむいてしまったのは、くすくすと笑う声が自分に向けられていると感じたからだ。
だから気付かなかったのだ。
萎れたネモフィラの花畑の横をそろりと近付く足音に。
「あの、先生……」
背中に注がれたのは小さな声だ。
少し掠れているのはなぜだろう。
「お、小野くん?」
振り向きかけた肩を、しかし押しとどめるようにそっと触れる手。
「そのままでいてください。こっちを向かないで」
「う、うん。わかったよ……」
梗一郎がこちらに来てくれた。
無視されていたわけじゃなかったんだと浮き立つ気持ちが一気に凍える。
彼はやはりあのときのことを後悔しているのだろう。
蓮は梗一郎に背を向けたまま、口の端をニッと吊り上げた。
「モ、モブ子さんたちは今日の講座も面白かったって言ってくれたよ。小野くんも次回は講座を聞きにおいでよ」
「先生、風邪はどうですか?」
「えっ、ああ、もうすっかり。おかげさまで」
「そうですか。それはよかったです。それなら、このまえ行きそびれた展覧か……」
「そうそう。もう腐戯画展に行くよう無理に勧めたりしないからね。小野くん忙しいんだから」
「先生?」
蓮の口調は硬く、梗一郎の声はしわがれている。
互いに目を見て話せばまた違うのだろうが、背中越しではよそよそしさは増すばかりだ。
「その、俺はこのへんで。レポートを見なきゃならないから」
ずり落ちそうになる冊子を膝で支え、蓮はよろよろと進みだす。
よしよし、うまくやれた。
このあいだのことに触れずに、講座に来るようにちゃんと言えた。
先生らしかったぞ、俺──なんて思いながら。
このまま背中越しに先生らしい威厳を伝えつつ、去っていければ合格である。
しかし、哀しいかな。
威厳が伝わった様子などない。
梗一郎の気配が背後に迫る。
うつむいた瞬間、彼の姿は視野の端に侵入し、やがてためらいがちに隣りに並んだ。
「持ちますよ、レポート。先生、倒れそうだから」
「い、いいよ。いらないよ。俺が一人で持たなきゃ。だって、俺はしっかり者の先生なんだから」
問答無用といった態度で冊子を半分奪い取りながらも、梗一郎は戸惑ったように言葉を濁した。
「先生、その……さっきの人は」
「えっ、何だって?」
何でもないです、という梗一郎の声が小さく掠れているのはマスクのせいだろうか。
「今日もバイトが長引いて、先生の講座に間に合いませんでした。すみません」
「バイトだったのかい? そんなの全然いいんだよ」
荷物が軽くなったためか、蓮の足取りは軽い。
「もう俺の検定講座には来てくれないのかなって思ってたから」
「なんでそんなことを?」
周囲に視線を走らせてから、蓮はわざとらしく声をひそめる。
「君がキス魔だってことは秘密にしておいてあげるよ。だから気にしなくていいからね」
「は?」
したり顔。
そしてこの笑顔。
少々鬱陶しいはずだが、梗一郎の表情はマスクのせいで窺い知れない。
僅かに目元が少々引きつったのが分かったか。
「……僕はキス魔じゃないです」
「えっ、そうなのかい?」
信じられないというように視線を蓮に向けて、梗一郎は呆然と呟く。
「ついでにいうと、先生はしっかり者じゃないです」
「ええっ、そうなのかい?」
教員棟の蓮の部屋に入りレポートを机の上に置くと、梗一郎はもう一度言った。
「僕はキス魔じゃないし、先生はしっかり者じゃないです」
とりわけ後半部分がショックだったか、蓮が「ぐうっ」と息を呑む。
「や、やっぱり俺は服もちゃんとしてないし。寝ぐせだってついてるし……」
梗一郎は静かに首を振ってみせた。
「今日は先生には声をかけずに帰るつもりだったのに。今だって向かい合わないようにと気を付けて……」
「えっ、何で?」
黙ってマスクを指さす梗一郎。
「何だい? 風邪でも引いたかい?」
そこで蓮は「あっ!」と声をあげた。
「まさかあのとき……」
ペタペタと己の顔を触ったのは、額が、頬が熱くてたまらないからだ。
「俺がその……伝染しちゃったってことかい?」
「お、おそらく……」
気のせいだろうか。
梗一郎の目元も少々赤いような。
「ごめんよ……」
シュンとする蓮に、梗一郎は慌てて手を振ってみせた。
「いや、あれは僕が悪かったというか。その……」
一瞬の沈黙が、随分と長く感じられる。
不意に梗一郎の手がのびた。
「あっ、何す……」
ぽんぽんと頭を撫でられ、蓮が抗議するかのように口をとがらせた。
「もぅ! 頭がグチャグチャになっちゃうじゃないか」
「あいつにグチャグチャにされたところを、僕が直してるんです」
マスクがなかったらいいのにと蓮は唇を噛む。
梗一郎が今どんな顔をしているのか、見たくてたまらないのに。
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