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美希みなみ
「ねえ、飯付き合ってくれない?」
「え?」
にこにこと笑うその人に、私はぽかんとしてしまう。
それはさっきまで壇上で話していた人で、まさかその人が私なんかに声をかけてくれるとは思わなかった。
呆然としていたのだろう。その人はくすりと笑うと言葉を続けた。
「俺の話、すごく熱心に聞いてくれてたよね?」
「ああ、はい! すごく勉強になりました」
今日、私は地域の医療関係者の研修会に参加していた。
目の前の人は、この地域の大学病院の准教授である大林優弥先生。
三十二歳という若さで准教授という肩書、そして豊富な知識。整った容姿に、身長も一八〇センチ近いだろう。
そんな完璧な人に声をかけられれば、私が驚くのも仕方がない。
今まで勉強と仕事一筋で男の人に免疫のない私は、二十四歳にもなって恥ずかしいが、これだけで顔が真っ赤かもしれない。
「名前は?」
「あ、櫻町柚葉です」
キュッと唇を噛んで答えれば、爽やかな笑い声が聞こえた。
「柚ちゃん。俺さ、結構真面目に話したら腹減ったんだよね。付き合ってよ。もっと話してあげられるし」
八歳年上の優弥さんはとても大人で、話題も豊富で、とても楽しかった。
だから、その日、いとも簡単に心を許してしまった。
しかし、それからの優弥さんとの関係はとても順調だった。お互い忙しいこともあり、なかなか会えなかったが、優弥さんに時間ができれば私の家に来て、ご飯を食べて眠る。そんな日が四年以上続いた。
もちろん付き合っているつもりだったし、彼はいつも「可愛い」「好きだ」と甘い言葉をかけてくれていた。
そこまで回想して、私は小さく息を吐いた。目の前には、雨でにじむ東京のネオン。
やはり雨が降っていて、じっとりと汗ばんでいる自分に気づく。
湿度のせいか、嫌なことを思い出したからか、自分でもわからない。
しかし、十か月前、あっさりと彼は大病院のお嬢様と結婚した。
最後の日、いつも通り身体を重ね、幸せな朝を迎えたその日、彼はさらりと言ったのだ。
「柚ちゃん、俺、結婚するから」
あの朝、結婚するのは私だと疑っていなかった自分は、どれだけ愚かだったのだろう。
その後に続いた彼の言葉に、私は何も言えなかった。
「だから、ごめん。幸せになって」
謝罪をされて初めて、相手が自分ではないことを知った。
シャツをいつも通り着て、爽やかな笑みでスーツのジャケットを羽織ると、振り返ることなく私の部屋から出て行った。
それ以降、何度か連絡をしたが、着信拒否でもされたのだろう。
連絡がつくことはなかった。そして風の噂で、彼が結婚したことを知った。
職場のみんなには、長く付き合っている彼がいることだけを話していた。
『俺たちのことは同業者も多いから内緒な』
そんな言葉をバカみたいに真面目に守っていた自分が滑稽だった。ただ知られたくなかっただけなのに。
他の病院で同業者であれば、学会や緊急の呼び出しなどと言えば納得もするし、疑われないことがわかっていたのだろう。
私自身、まったくと言っていいほど疑っていなかった。
しかし、後になって思えば、会っていたのは多くて月に一度、下手したら二か月会わないことなどしょっちゅうだった。
大人すぎる彼に、悩みを打ち明けることなどできなかったし、甘えることもできず、いつも緊張していた気もする。
今思えば、年月だけは重ねたが、本当の付き合いだったのか、初めての彼でよくわからなかった。
ただ、都合よく使われていたと気づけば、驚くほど急激に気持ちは冷めていった。
彼に対してというより、こんな年月をあんな男に費やした自分に腹が立ったし、悲しかった。
そして……。
あることを引き金に、私はうまく眠れなくなった。
眠れないことは、夜勤もある看護師には致命的だった。日中、逆転してでも休みのときに眠らなければいけないのに、うまく眠れない。
しばらく休暇を取ることにしたが、一気に何か糸が切れてしまった。
そこで私は辞めることも考えたが、一度外来勤務に変わってはどうかと説得され、今に至る。
きちんと日中で仕事が終わることもあり、だんだんとペースが戻ってきて、今は毎日たくさん来る親御さんや子どもたちの対応にも慣れてきた。
一人の子を担当するわけではない分、昔のように気持ちを持っていかれることも少ない。
しかし、今日の結衣くんみたいな昔の患者さんの話を聞くと、今の自分では何もできないことに歯がゆさも感じる。
自分自身がぐちゃぐちゃになっていくのがわかる。
いったい私はどうしたいというのだろう。
このまま千堂さんとの関係を進めるのであれば、さっき拒否するべきではなかったのかもしれない。
望んでいた医療現場から離れ、結婚できる。
そのはずなのに。
そこまで回想したところで、タクシーが止まったことに気づいた。
お金を払ってタクシーを降りたところで、アルコールのせいかめまいがして座り込む。
傘など持っておらず、容赦なく雨が叩きつけた。