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水が、滴る。
ひとしずく、またひとしずく。
どこからともなく──
それは、終わりなき闇に音を刻んでいた。
ぼうっと滲むその音のなかで
櫻塚時也は、静かに瞳を開けた。
視界に広がるのは
どこまでも黒く、果てしない闇。
天もなく、地もなく
方向すらも意味を成さない空間。
だが──
奇妙なことに、己の身体ははっきりと見える
手も、足も、肌も。
指先の震えすら、輪郭を持って明瞭だった。
(⋯⋯夢、か?)
そう思った瞬間
視線を落とした彼の双眸──
鳶色をしたその瞳が、大きく見開かれた。
膝まで沈み込んだ〝液体〟
それは、あまりにも深く
あまりにも濃い紅だった。
血。
その紅の海に
無数の──〝アリア〟が、沈んでいた。
そのどれもが、静止したまま。
虚無を湛えた深紅の瞳を見開き
時也を見上げている。
切り裂かれた喉。
潰された腹部。
砕かれた四肢。
千切られた臓腑。
見渡す限り、死。
それも──愛した者の死、ばかり。
それでも──
時也は動かなかった。
目を伏せ、深く、静かに、ひと息を吸う。
その呼吸に、悲嘆も動揺もない。
やがて、再びゆっくりと
瞼を持ち上げたその目に宿るのは──
何の色もない〝温度を失った光〟
彼は、懐から数枚の護符を取り出す。
紙の角が、血に濡れず淡く輝いている。
その指先に宿った気配だけが
この世界に異物のように浮いていた。
「──急急如律令」
声が、鋭く虚空を裂く。
放たれた護符は
まるで命を得たように空間に張り付き
ぴたり、ぴたりと浮遊した。
あたかも
目に見えぬ〝階〟を描くように──
血の底から、一歩ずつ、彼は登っていく。
踏むたびに護符が震え、紅に滲んだ。
足元に絡みつくように流れていた紅が
わずかに引いて落ちていく。
見上げる空は、なお闇に沈んでいたが
彼の背筋は
寸分の迷いもなく、まっすぐだった。
見渡す限りの〝アリア〟の遺骸。
どの顔も、どの身体も
彼の記憶に焼きついた彼女ではなかった。
所詮は幻。
寄せ集められた、哀れな模造品に過ぎない。
だからこそ──彼の心は、痛まなかった。
「⋯⋯芸に、品がありませんね」
低く、冷えた声が落ちる。
血を映すようなその声音は
まるで断罪の鐘のように重く響いた。
時也は振り返らない。
背後に広がる地獄は
彼の影さえも染め上げたが──
それすらも、彼の輪郭を崩せなかった。
「こんな程度で⋯⋯
僕の心が、揺らぐとでも?」
その言葉は、誰に向けたものでもない。
ただ、どこかにいるはずの
〝仕掛け人〟への宣告。
鳶色の瞳が、見えぬ上空を鋭く睨み上げる。
目の前の地獄を、あっさりと踏み越えてなお
彼の意思は、寸分も翳らなかった。
愛する者が
どれだけ死の幻に穢されようとも──
それで、折れるような信仰ではなかった。
彼の心は、ただひとりのために
地獄をも焼き尽くす刃であった。
⸻
ザバリ──と
血の水面が、重く割れた。
鈍い音とともに
ひとつの〝身体〟がゆらりと起き上がる。
深紅に濡れた長い金髪。
その先から、どろりとした液体が糸を引き
膝まで沈んだ海を撫でる。
肩口から覗く骨。
引き裂かれた腹部から、ぶら下がる臓腑。
それでも──その女は〝彼女〟だった。
アリアの貌。
アリアの瞳。
アリアの──声。
「⋯⋯とき⋯⋯や⋯⋯」
歪んだ、震える声。
けれど、その呼びかけは
どこまでも甘やかで
どこまでも寂しげだった。
「⋯⋯わたしと⋯⋯共に⋯⋯
死んで、くれ⋯⋯」
その指が、ゆっくりと伸びる。
臓腑の雫を零しながら
不完全な肉体が、護符の階を這い上がる。
それでも、その手は──
確かに〝求めて〟いた。
時也は、静かにその手を取る。
「⋯⋯ええ。もちろんですよ」
その声音は、柔らかかった。
まるで
冬の夜にふと差し出された毛布のように。
優しく、何も否定せず──
ただ、受け入れていた。
「⋯⋯貴女が、そう望まれるのならば」
彼女の身体を、抱き留める。
欠けた身体を、潰れた声を
何ひとつ拒まず、腕に包んだ。
「⋯⋯貴女に
〝人としての死〟を与えるのが──僕の役目」
その瞬間、静かに、護符たちが光を灯す。
ふわり。
紙が踊るように宙を舞い
彼女の周囲をぐるりと囲んだ。
──音もなく、枝が生える。
護符の中央から突き出したそれは
桜の樹の枝。
だが、それは──死を孕んだ凶器。
──ドドッ!
鋭く、執拗に。
それらの枝が、アリアの身体を幾つも
次々と鋭く貫いていく。
血の滴る枝先に
真紅の桜がふわりふわりと咲き乱れた。
まるで、その死を讃える花のように。
無数の〝彼女〟を模した屍の中で
この偽物が最後の一輪として
咲き尽くされる。
そして──
時也は、声の色を変えた。
「⋯⋯お前如きが〝妻〟の姿を騙り
その願いを口にするとは⋯⋯
これはまた随分と、面の皮が厚いですね?」
低く、ぞっとするほど滑らかに
言葉が滴る。
口調は丁寧なまま。
だが、声にこもる殺意は
氷のように清冽と澄み切っていた。
「ええ、本当に⋯⋯
見事な芸当ですよ。不死鳥」
時也の鳶色の瞳が
黒く染まった闇の上空を、ふと見上げる。
「そろそろ
〝影絵ごっこ〟はお終いにしては如何です?
お前の気紛れと悪趣味には⋯⋯
辟易していますので」
血に濡れた枝の間で
なおもアリアの姿をした〝それ〟が
断末魔のように身を痙攣させていた。
時也は、そこに情すら向けず
ただ、にこりと微笑む。
「⋯⋯まあ〝神〟ともなれば
魂の演技力も相当なものですね。
けれど──お前の〝愛〟の真似は
滑稽すぎて、笑えますよ」
ぶわり──⋯
真紅の花弁が
枝から落ちて、次々に舞った。
「⋯⋯さあ、不死鳥。
この〝悪趣味な幻劇〟に幕を引きましょう。
舞台は整いました。
お前の嘘と業と、傲慢の総決算──
存分に披露していただきましょうか」
闇が、わずかに震える。
──見えぬ何かが、そこに〝居る〟
時也は、構わず一歩を踏み出した。
血の海を背に、紅の花を従えて──
ただ、彼は進む。
その先に
確かに存在する〝神殺し〟のために。