ぬるり──と。
闇の奥
沈黙の底から湧き上がるように
炎が立ち昇った。
粘性を帯びたそれは
まるで
怨嗟を練り潰したかのような重たさを孕み
辺りの空気をじくじくと焼き腐らせながら
ゆらりとその輪郭を顕にする。
それは
形なきものにして、絶対の存在。
不死鳥
【キィオオォオオオォォオオォオッッ!!】
──咆哮。
刹那、空間が割れた。
鼓膜を超えて魂に響く咆哮が
闇の天蓋を打ち破り
その全てを焼き尽くす意思とともに
暗闇の世界に顕現する。
闇の奥から現れたその姿は
〝神〟と呼ぶにはあまりに醜く
〝獣〟と呼ぶにはあまりに禍々しい。
千年分の咒と怨嗟と絶望が
幾重にも織り重なり
炎の羽根と爛れた羽衣を形作る。
その目は、光を喰らった空洞。
すでに感情すら超越したような
飢えと渇望だけを宿していた。
だが──
その前に立つ男は、静かだった。
血に濡れた護符が
足元でぱさりと音を立てる。
時也は、その一枚を拾い上げると
口元に微笑を浮かべたまま、囁いた。
「あぁ⋯⋯本当に、醜い姿ですね」
その言葉は、讃美ではない。
断罪に似た皮肉の調べ。
「千年⋯⋯その年月を費やしてなお
お前が辿り着いた姿が、それですか。
呪いと怨嗟を錬成し続けた果てが、その──
〝泥塗れの炎〟とは」
返すように、不死鳥が吠える。
あらゆる方向から
唸るような焔のうねりが空間を満たし
焼け落ちた闇の地から
再び無数の〝アリア〟が現れる。
千切れた身体。
潰れた眼窩。
歪んだ声。
「と⋯⋯きやぁ」
「いっしょに⋯⋯しんで⋯⋯」
「わたしを、おいていくな⋯⋯」
無数の幻影が、時也の身体に絡みつく。
腕に。脚に。首に。
彼を止めようとするそれらは
まるで未練と悔恨の形をしていた。
だが
時也はその場から一歩も動かず、ただ──
「──無駄ですよ」
護符と、桜の花弁が浮かぶ。
一枚、また一枚と
空間に浮かび上がるそれらは
まるで見えぬ手に操られたように
時也を中心に環を描く。
そして。
ザ──ッ!
響く音とともに
護符から突き出た〝桜の枝〟が
次々に模造品のアリアを穿ち抜いていく。
刃のような花弁の奔流が
その胸を。頭を。腹を。
無慈悲に切り刻んでいく。
──花が咲く。
刺し貫いた枝の先で
ぽたり、ぽたりと真紅の花弁が開き
舞う花弁の奔流へと合流していく。
散り際に似た、その鮮烈な美。
そして
それらを無言で見送りながら──
時也は、動く。
護符が、新たに階を作りあげた。
音もなく
空中に築かれていく〝光の階段〟
それを踏みしめ、時也は迷いなく駆け上がる
上へ。
炎へ。
神へ。
不死鳥の炎の両翼が広がり
熱の波が空間を灼いていく中
なおも、次々とアリアが現れ
時也を追従するように飛翔し
血を撒き、哀しみを囁く。
だが──
時也の眼差しは、氷のようだった。
護符が描く桜の枝が
彼の周囲に次々と咲き乱れ
その一振りごとに、幻影を斬り払っていく。
一切の情を交えず。
一滴の涙も落とさず。
「⋯⋯聴こえますよ、不死鳥」
時也は、声に微笑を乗せる。
けれど、その言葉の裏には
確かな〝刃〟があった。
「お前の心の声が。
焦っているんでしょう?
苛立っている。
──何かが⋯⋯起きたのですね?」
咆哮が応える。
だが、それは否定ではなかった。
むしろ、怒りと混乱に満ちた、拒絶の吠え。
「⋯⋯やはり。
お前をそうさせる何かが
現実で動いている」
そして──
その眼差しが、鋭く深く、不死鳥を射抜いた
「僕が、それに接触したら⋯⋯
それがお前に何を齎すか
理解しているのでしょう?」
炎が軋む。
神が、脈打つ。
「だから、僕が〝それ〟を見つける前に
〝僕〟を壊したい──
そう考えているんですね?」
時也の唇が、緩やかに綻ぶ。
「⋯⋯ですが──遅かったですね。
お前が焦るということは
もう⋯⋯〝火種〟は点いたということです」
炎を背に、静かに立ち尽くす神の前で
時也の姿は──
一輪の桜のように、冷たく美しかった。
そして、その根に宿るのは
ただ、ひとつの願い。
「アリアさんが⋯⋯僕の妻が
もう、これ以上、泣かなくて済むように──
〝俺〟が今、お前を終わらせてやる」
その瞳に、容赦の色はなかった。
ただ静かに、執行の刻を、待っていた。
不死鳥の両翼が力をこめるように
光りながらチリチリと唸り
対峙する時也の桜吹雪が
さらに鋭さを増して紅く舞い上がる。
──バチン!
瞬間、空間を割くような音と共に
まるで湖面が逆立つように
柔らかくも強靭な光の壁が現れた。
水面のように波打ち
しかし決して崩れぬその結界は
不死鳥が吐き出した熾焔をも
時也が放った桜の刃の嵐をも
両者の間で完璧に遮断する。
「⋯⋯結界⋯⋯!?」
時也の目が、かすかに揺れる。
見覚えのある術式。
幾度となく
彼女の傍で感じてきた〝存在〟──
(⋯⋯まさか)
結界の向こう──
炎の向こうに、確かに感じた。
彼がこの世で、ただ一人
魂の底から〝愛している〟と断言できる存在
冷たくも柔らかく
淡く凛とした──〝あの気配〟
かすかに漂う桜と火の香。
どこか、祈りに似た静謐な気配。
千の記憶がざわめき、万の感情が奔り
魂の全てが渇きを覚える。
「──アリアさん⋯⋯っ!」
時也は、叫ぶようにその名を呼んだ。
伸ばした手が、結界に触れる。
しかし次の瞬間──
白。
視界が、瞬間的に閃光に染まる。
結界の防壁が彼の接触を拒むように弾き
時也の意識は
激しい眩光の中で飲まれていった。
⸻
「⋯⋯ん⋯⋯」
微かに、指先が動く。
睫毛が震え、鳶色の瞳が静かに開かれた。
視界は、天井。
見慣れた白。
乾いた紙の香りと、仄かに漂う白檀の匂い──
「⋯⋯僕の⋯寝室、ですか⋯⋯」
時也は、天井を見つめたまま
ぽつりと呟いた。
白木の梁に差し込む陽の光が
わずかに傾いている。
頭に残る鈍痛と、胸奥に残る微かな焦がれ。
それが
すべてが夢ではなかったことを告げていた。
彼はゆっくりと身体を起こし
布団の端を整えながら、苦笑を浮かべた。
「⋯⋯ふふ。
誘っておいて、追い出すとは⋯⋯
不死鳥らしいですね、本当に」
額に手をやりながら、ゆるく肩を竦める。
まだ、頭の奥がじんじんと熱を持っていた。
まるで火の中に頭を突っ込んだような感覚が
薄く残っている。
ふと目を落とすと
枕元の時計が目に入った。
短針と長針の位置が、現実を告げる。
──約二時間
それだけの間
彼は意識を手放していたことになる。
(⋯⋯心の声を聞いて、気を失うとは⋯⋯)
思わず
胸の奥にざらついた笑みがこみ上げた。
(⋯⋯初めて人を断罪した
あの日以来⋯⋯でしょうか)
かつて、陰陽師として生きた世界。
まだ少年だった自分が
〝真実〟の声に晒され
怒りと嘆きと呪詛と
人の業に押し潰されそうになった
あの初陣。
だが──
時也は首を振った。
その記憶を追い出すように
ゆるく首を横に振る。
(過去のことです。
もう⋯⋯〝あの頃〟の僕ではない)
冷えた手の甲を額に当て、深く息を吸う。
そして
静かに布団を押し退けて、立ち上がった。
この部屋は
〝防音〟のために二重構造の扉と
厚い壁で囲われている。
誰の心の声も、ここまでは届かない。
ここだけが、彼にとって
唯一〝沈黙〟を許された空間だった。
だからこそ、今──
外が、何も聞こえない。
(⋯⋯孤児院の皆さんは
どうされたのでしょうか)
自分が倒れて以降の出来事が
わからないことに
少しの不安を覚えながらも
時也は足を進めた。
部屋の扉に手をかけ、開く。
──視界の向こうには、
未だ知らぬ〝現在〟が、彼を待っていた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!