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「『誰だ、お前』……って、本気で言うてたんやな、甚爾くん」
自室の姿見の前で、直哉は自嘲気味に呟いた。鏡に映る自分は、丁寧に髪を染め、仕立ての良い着物を纏い、誰もが羨む「禪院家のエリート」の姿をしている。しかし、あの人にとっては、路傍の石ころとなんら変わりない存在なのだ。忘れてやがった。自分がどれほどあの夏の日の思い出を抱きしめて生きてきたか、あの男は知りもしない。怒りと、それ以上の虚しさが胸の奥でドロドロと渦巻く。いっそすべてを嫌いになれたら楽なのに、直哉の心はますます甚爾という太陽に囚われていく。
「忘れてるなら、思い出させてやる。嫌でも俺を、刻み込んでやるわ」
数日後、直哉は再び甚爾の目撃情報を頼りに、呪術師たちの寄り付かない薄汚れた歓楽街へと足を運んだ。エリートである自分が歩くには相応しくない、泥と酒の匂いが染み付いた路地裏。その奥にある賭博場から、大きな背中がのっそりと出てくるのが見えた。「甚爾くん」凛とした声で呼び止めると、甚爾はあからさまに面倒くさそうな顔をして足を止めた。手には、勝ち金を毟り取られた後の空っぽの財布が握られている。
「……あ? またお前か。禪院の坊ちゃんが、こんな掃き溜めに何の用だ。小遣いでも恵んでくれんのか?」
「……これ、使い。あんた、また負けたんやろ」
直哉は懐から、ため息が出るほど高額な札束を無造作に差し出した。甚爾は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに口元を不敵に歪め、躊躇なくその金を受け取った。
「ハッ、いいパトロン様だ。で、何が望みだ? 呪霊でも殺してほしいか?」
「そんなん、自分でできるわ。……俺の、名前を呼んで」
「あ?」
「直哉や。俺の名前は、禪院直哉。……次会う時までに、ちゃんと覚えとき」
甚爾は札束をポケットに押し込むと、直哉の必死な瞳を面白そうに、しかしどこまでも冷淡に見つめた。そして、ふっと鼻で笑う。「悪ぃな、直哉様。俺は金にしか興味がねぇんだ。お前の名前を覚えたところで、一文の得にもならねぇよ」
甚爾の手が、直哉の顎を乱暴に持ち上げた。顔は近い。その呼吸が触れるほどの距離なのに、甚爾の瞳には「直哉」という人間がこれっぽっちも映っていなかった。ただの都合の良い金蔓(かねづる)を見る目だ。甚爾はそのまま手を離し、直哉の肩をわざとぶつけるようにして、夜の街へと消えていった。顎に残る、手荒な感触。そして、嘲笑うように一度だけ呼ばれた「直哉様」という冷たい響き。
「……あはは、ほんま、最低の男や」
直哉はその場にへたり込み、顔を覆って笑った。笑うしかなかった。涙が指の隙間から溢れ、汚れた地面に落ちていく。金を払わなければ名前すら呼んでもらえない。魂の繋がりなんてどこにもない。それでも、たとえ歪んだ形であっても、あの人の視界に一瞬でも入ることができたなら、自分は喜んで財布にでも、泥靴にでもなってやる。庭のひまわりは、もうすぐ終わる夏の陽射しを浴びて、狂おしいほどに頭を垂れていた。ただ一方的に焦がれ、すり減っていく直哉の心を知る由もなく、その黄色い花びらはただ静かに、夜の闇に沈んでいくのだった。
コメント
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うわあ……これはなかなか心抉られる話でしたね。直哉の「金を払わなきゃ名前すら呼んでもらえない」という自己認識の痛々しさと、それでも「歪んだ形でも視界に入れたなら」とすり減っていく執着の描写が、ひまわりのイメージと重なって切なかったです。甚爾の「金にしか興味がねぇ」という台詞の冷たさも、直哉の心の叫びが真逆に跳ね返される感じがして、もう……。ラストの、涙を地面に落としながら笑うしかない直哉の姿が目に焼き付きました。続きが気になります。
#禪院甚爾
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