テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
薄いカーテンの隙間から差し込む光は、あまりにも穏やかだった。
昨夜まで戦場にいたとは思えないほど、静かだった。
すちが最初に目を覚ましたのは、そんな昼だった。
「……ん……」
重たい瞼をゆっくりと開く。
身体を起こそうとして――やめた。
腕の中に、みことがいる。
それに気づいた瞬間、すちの表情がほんの少しだけ緩んだ。
「……みこと」
眠っている。
そう思った。
昨日まで、ずっと目を覚ますことを願っていた。
そしてようやく目を開けてくれた。
「ただいま」と言ってくれた。
その声を思い出すだけで、胸の奥が温かくなる。
「……よかった」
すちは小さく呟いた。
「ちゃんと、いる……」
そして、そっと頬へ手を伸ばす。
「みこと、朝だよ」
頬に触れた。
――冷たい。
「……え?」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
風が涼しいから冷たいのだろう。
そう思おうとした。
「みこと?」
もう一度呼ぶ。
返事はない。
「……みこと、起きて」
肩をそっと揺らす。
「昼になったよ」
それでも、みことは目を開けなかった。
すちは困ったように笑った。
「いっぱい寝たのに……まだ眠いの?」
返事はない。
「……疲れてたんだね」
そう言いながら、すちはみことの顔を見つめる。
眠っているように見えた。
あまりにも静かで、穏やかで。
だからこそ、すちはまだ理解できなかった。
「みこと」
名前を呼ぶ。
「ねえ、起きてよ」
いつものように呼びかける。
「お腹空いたら、何か食べようか。治療の後だから、消化にいいものにしよう」
「……それとも、もう少し寝る?」
自分の声だけが、静かな部屋に響く。
すちは微笑もうとした。
けれど、その笑顔は少しずつ崩れていった。
「みこと……?」
胸の奥に、嫌な感覚が広がっていく。
すちはみことの手を握り直した。
けれど、その手から返ってくるものはなかった。
そのときになってようやく、違う静けさに気づいた。
「……違う」
小さく呟く。
「違うよね……?」
頭の中で、必死に否定する。
治療はした。
#らんこさ
クッキー
6,086
なぎ
11,462
1,706
みことは目を覚ました。
自分に「ただいま」と言ってくれた。
だから。
だから、こんなことになるはずがない。
「ねえ、みこと」
声が震え始める。
「帰ってきたって言ったじゃん」
返事はない。
「ただいまって……言ってくれたじゃん」
みことの頬へ、震える手を添える。
「俺、おかえりって言ったよね……?」
その言葉を口にした瞬間、昨日の光景が鮮明に蘇った。
みことの弱々しい笑顔。
そして、自分に向けられた「ただいま」。
「……そうだよね」
すちは何度も頷いた。
「だから、大丈夫だよね」
自分に言い聞かせるように。
「みことは寝てるだけ」
けれど、その声にはもう確信がなかった。
治療師たちが慌ただしく部屋へ入ってきたのは、その直後だった。
みことの様子を確認した治療師が、言葉を失う。
すちはその表情を見た。
それだけで、何かがおかしいと分かってしまった。
「……何?」
答えを聞きたくない。
それでも、尋ねるしかなかった。
「……みことは?」
治療師はしばらく黙ったあと、静かに告げた。
戦場で受けた魔法による負傷だけではなかった。
身体に受けた傷の一部に、遅効性の毒が仕込まれていた。
治療を受けている間にも、気づかないうちに毒が身体へ回っていたのだ。
そして――
みことは、眠るように息を引き取っていた。
「……嘘」
すちの口から、かすかな声が漏れた。
「違う」
首を横に振る。
「そんなわけない」
生きていた。
ついさっきまで、腕の中にいた。
「だって……」
言葉が続かない。
すちはみことを見る。
眠っているような顔。
けれど、もう声を返してくれることはない。
「……みこと」
もう一度名前を呼ぶ。
今度は、声がひどく小さかった。
「起きてよ」
「ねえ……」
すちは笑おうとした。
「俺、ここにいるよ」
いつものように。
安心させるように。
「だから、起きて……」
それでも、みことは動かなかった。
すちの目から、涙が一粒落ちた。
頬を伝い、みことの手の上へ落ちる。
「……っ」
それを見た瞬間。
何かが完全に壊れた。
「……みこと」
涙が次々に溢れてくる。
声を出そうとしても、喉が震えるだけだった。
「……っ、……」
何度名前を呼んでも、返事はない。
「ただいま」と笑ってくれたみことはもういない。
すちは俯いた。
肩が小さく震える。
それでも、声を上げて泣くことすらできなかった。
ただ、みことの手を握ったまま。
その温もりを探すように。
何度も、何度も指を絡める。
「…っ………っ!」
声にならない。
涙だけが止めどなく頬を伝う。
すちはその場に崩れるように俯いた。
帰ってきてくれたことを喜んでいた。
もう大丈夫だと思った。
これからは、ゆっくり休めばいい。
また笑ってくれる。
また話せる。
そう信じていた。
なのに。
目覚めたら、その未来はどこにもなくなっていた。
すちは最後まで、みことの手を離さなかった。
声を上げることもできず。
ただ静かに涙を流しながら。
そこにいるはずのない温もりを、いつまでも探し続けていた。
葬儀は、あまりにもあっけなく終わった。
あれほど長く感じた戦場での日々も。
みことが帰ってくるのを待ち続けた夜も。
目を覚ましてくれた朝も。
そして、その後に告げられた別れも。
すべてが、夢だったかのように過ぎていった。
人々が何かを話している。
慰めの言葉をかけてくれている。
すちは、それを聞いていたはずだった。
けれど、何を言われたのか、ほとんど覚えていない。
ただ、ぼんやりと頷いて。
ぼんやりと時間を過ごして。
気づけば、すべてが終わっていた。
帰る場所だけが、残った。
「……ただいま」
誰もいない部屋に向かって、すちは呟いた。
返事はない。
当然だった。
それなのに、すちはしばらく玄関に立ったまま動けなかった。
以前なら、ここから少し歩けば、みことの声が聞こえてきた。
『おかえり』
その一言を聞くだけで、一日の疲れが消えていくような気がした。
けれど今は、何も聞こえない。
静かだった。
静かすぎた。
「……」
すちは靴を脱いで、家の中へ入った。
何も変わっていない。
机も。
椅子も。
窓から見える景色も。
みことが使っていたものも。
全部、そこにある。
なのに。
みことだけがいない。
その事実が、ひどく不自然だった。
翌朝。
すちはいつもの時間に目を覚ました。
眠った気がしない。
身体は重かった。
それでも、習慣のようにベッドから起き上がる。
台所へ向かい、ぼんやりと朝食を作る。
パンを焼いて。
スープを温めて。
それから、皿を二枚並べた。
テーブルに置いた瞬間。
すちの手が止まった。
「……あ」
目の前には、二人分の朝食。
いつもの光景だった。
いつもなら、みことが少し眠そうな顔をしながら席につく。
「いただきます」
そう言って笑って。
食事をしながら、その日の予定を話して。
そんな朝が、ずっと続くと思っていた。
「……」
すちは椅子に座る。
向かい側の椅子を見る。
誰もいない。
「……みこと」
呼んでみる。
返事はない。
しばらくして、すちはゆっくりと二枚目の皿を片付けた。
それだけのことなのに、胸が苦しくなった。
別の日には、もっとひどかった。
朝、目を覚ました瞬間。
すちは、ふと思った。
――全部、夢だったんじゃないか。
悪い夢を見ていただけなのではないか。
そう考えてしまった。
「……みこと」
ベッドから飛び起きる。
そのまま、みことの部屋へ向かった。
「みこと、朝だよ」
扉を開ける。
誰もいない。
「……あれ?」
すちは部屋を見渡した。
ベッド。
机。
棚。
そこにあるものは、何一つ変わっていない。
だからこそ、余計に期待してしまう。
「みこと?」
ベッドの傍まで歩いていく。
掛け布団を見つめる。
もしかしたら、まだ眠っているだけなのではないか。
そう思ってしまう。
「……起きてよ」
小さく呟く。
当然、返事はない。
そのたびに、現実を突きつけられた。
それでも心は理解してくれなかった。
みことがいない。
それだけのことが、どうしても現実として受け入れられない。
そんな日々が続いた。
何をしても、心のどこかが空っぽだった。
食事をしても。
眠っても。
仕事をしても。
誰かと話していても。
胸の奥に、大きな穴が開いている。
その穴から、大切な何かが永遠にこぼれ落ちてしまったような感覚。
身体の半分を失った。
そんな言葉が、一番近かった。
そしてある夜。
すちは、みことの部屋に入った。
明かりをつける。
静かな部屋。
机の上には、読みかけだった本。
棚には、みことが集めていた小物。
そして――
「……これ」
机の隅に置かれた、小さなオルゴールが目に入った。
すちはそっと手に取った。
今まで、何度も見ていたはずなのに。
なぜか、その日は強く惹かれた。
蓋を開く。
小さな音が、部屋に流れ始めた。
「……」
すちは息を呑んだ。
その曲を知っていた。
みことがよく口ずさんでいた曲だった。
家事をしているとき。
本を読んでいるとき。
何気ない時間に、みことが小さく歌っていた。
その声が、耳の奥に蘇る。
――すち。
呼ばれた気がした。
すちはオルゴールを見つめた。
そして、蓋の裏側に小さな紙が貼られていることに気づく。
そこには、短い文字が書かれていた。
『すちへ』
「……俺に?」
胸がざわつく。
箱を調べると、中には小さな封筒と、二つのピアスが入っていた。
すちは、しばらく手を伸ばせなかった。
指先が震えている。
まるで、触れてしまえば何かが変わってしまうような気がした。
それでも、震える手で封筒を取り出す。
表には、見慣れた文字。
何度も見てきた。
みことの字だった。
「……」
それだけで、胸がいっぱいになる。
もう見ることができないと思っていた文字。
それが、今、自分の目の前にある。
すちはゆっくりと封筒を開いた。
中から、一枚の手紙を取り出す。
そして、一文字ずつ確かめるように読み始めた。
『すちへ。
いつもそばに居て、治療してくれたり、励ましてくれてありがとう。
すちは僕にとって宝物です。
お礼になるか分からないけど、前にすちに似合いそうなピアスを見つけたから買ってみたよ。
僕と色違いになっちゃうけど、付けてくれたら嬉しいな。
みこと。』
「…………」
最後まで読み終えても、すちは動けなかった。
手紙を持つ指が震える。
「……みこと」
声が掠れた。
宝物。
その言葉が、胸の奥に深く突き刺さった。
みことは、自分にとって何だったのだろう。
大切な人。
守りたい人。
失いたくなかった人。
ずっと傍にいてほしかった人。
そして――。
「……俺は……」
すちは俯いた。
今まで、考えないようにしていた。
みことが大切だった。
だから守りたかった。
だから帰ってきてほしかった。
だから、あの日、みことが目を覚ましたとき、ひどく安心した。
ただ大切なだけだと思っていた。
けれど。
みことがいなくなった今になって、ようやく分かった。
「……好きだったんだ」
声にした瞬間、涙が落ちた。
「俺……みことのこと……好きだったんだ……」
ただの大切な人ではなく。
自分の人生を隣で歩いてほしいと思うほどに。
これから先も、一緒に笑っていたいと思うほどに。
それほどまでに、みことを愛していた。
なのに。
その気持ちを自覚したときには、もう伝えることができない。
「……遅いよ……」
すちの唇が震える。
「なんで……今なんだよ……」
手紙を胸元へ抱きしめる。
涙が次々と落ちていく。
そのとき、机の上に置かれた二つのピアスが目に入った。
小さな、二つの輝き。
みことが自分のために選んでくれたもの。
「……これ、つけてほしかったんだね」
返事はない。
それでも、すちにはみことの声が聞こえるような気がした。
――似合うと思うよ。
――僕とお揃いでも良いかな。
「……みこと……」
すちはピアスをそっと手のひらに乗せた。
涙で視界が滲む。
そして、オルゴールは変わらず音を奏でていた。
みことがよく口ずさんでいた曲。
その旋律だけが、静かな部屋の中を流れている。
すちは手紙を握りしめた。
「……ありがとう……」
声が震える。
「ありがとう、みこと……」
もう返事はない。
それでも、言わずにはいられなかった。
「俺も……もっと早く伝えればよかった……」
涙が溢れる。
「好きだって……大好きだって……」
肩が震える。
すちは俯き、手紙を胸に押し当てた。
そして、とうとう堪えきれなくなった。
「……っ、う……」
声が漏れる。
次第にそれは嗚咽へ変わっていった。
オルゴールの小さな音が部屋に響く。
けれど、その音にかき消されることはなかった。
「みこと……っ……」
すちは声を上げて泣いた。
ずっと我慢していたものを、全部吐き出すように。
失った悲しみも。
伝えられなかった想いも。
もっと一緒にいたかったという願いも。
全部。
オルゴールの音色だけが、そんなすちの泣き声を静かに包んでいた。
まるで、みことが最後に残してくれた小さな贈り物のように。
すちはその夜、長い間みことの部屋から出ることができなかった。
手の中には、みことからの手紙。
机の上には、二人を繋ぐように置かれた二つのピアス。
そして。
静かに鳴り続ける、みことが好きだった曲。
その音だけを頼りにするように、すちは泣き続けた。
それから、しばらくの月日が流れた。
すちは戦場へ向かう朝、部屋に飾られたみことの写真の前で足を止めた。
写真の中のみことは、いつものように穏やかに笑っている。
すちはそっと写真立てに触れた。
「……みこと」
耳元には、あの日もらったピアス。
朝の光を受けて、小さくきらりと輝いた。
「行ってきます」
すちは微笑む。
「……帰ってきたら、また話そうね」
みことならきっと笑ってくれる。
そう思いながら、すちは踵を返した。
耳元で、もう一度ピアスが光った。
まるで、みことがそっと背中を押してくれているように。
__𝐹𝑖𝑛.
2026年9月17日
コメント
5件
やばいです、、、号泣です。😭

読みながら涙を流してしまいました。 腕の中で最期の時間を過ごせた事はすごく幸せだったのかなと思いつつも、残された人の気持ちを思うとやっぱり辛くて… 切なくもあったかいお話をありがとうございます☺️