あの惨状の場を後にして、シンセロ侯爵領に辿り着いた私たちは街の中で異様な光景を目にすることとなる。
街の広場で数人の人間が磔にされていたのだ。その中には小さな子供までいる。
街の中は怒号が飛び交い、悲鳴まで聞こえていた。
「キミたち、何やってるんだよ!」
大きな声を上げたのはダンゴだ。
彼女の張り上げた声は広場中に響き渡り、静まり返った広場からあまり特徴のない身形の男が歩いてくる。
「これは救世主様! 見てください、邪族とやらを捕えたのです。我々も自分たちの住む街は自分たちで守れるという所をしかとご覧いただきたい!」
そう言うと人混みの中で動きがあった。
何やら松明らしき物に火を付け、人々が磔にされている広場の中央に向かっていく人が現れたのだ。
「いやぁ! やめてぇ!」
「離せ! その子は違う! 違うんだぞ!」
磔にされている人だけじゃない。人混みの中で拘束されている人たちがいる。
「やめて……」
私はアンヤの服の裾を掴んだ。
次の瞬間、松明を持った人々の体に影が絡みついてその動きを止める。
「これは……!?」
「もう、やめてください……」
私は目の前の男に向かってただそれだけを伝えた。
「あなたか……何故です! 何をするのですか! これはシンセロ侯爵が我々に命じられたことなのですよ!? 赤い瞳に黒髪は邪神の使いである邪族の証! 聖教団の神官様と侯爵様が仰ったことです!」
そんな馬鹿な話があってたまるか。そんなの暴論だ。これでは魔女狩りのようなものじゃないか。
黒髪に赤い瞳を持っているからという理由だけで排斥しようとするなんて。
そんなことを続けていれば、いつしか髪が黒いからだとか瞳が赤いからだとか……そんな理由だけで迫害の対象になっていくかもしれない。
このまま、人々にそんな差別意識を少しでも残したままにするのは危険すぎる。
いつか意識の奥深くに根付いて、それが常識になってしまえばその時に取り除こうとしてももう遅いだろう。
「解放してあげてください」
「……その人たちは普通の人間」
淡い黄色の光を灯した瞳でアンヤはその男を見上げる。
混乱しているこの男に何を言っても意味がないと判断した私は、広場の中央に向かって歩いていく。すると人混みが割け、道を作ってくれた。
磔台に上った私は小さい女の子の前で屈み、その涙に濡れた頬に手を添える。
彼女のルビーのような瞳と視線が交差した。
「綺麗な瞳だね。宝石みたいだ」
「っ……うんっ! パパが私の目はママ譲りだって言ってたから私、大好きなのっ」
やっぱり、間違っている。
「本物の邪族の瞳はもっと澱んだ色をしています。それに黒髪だってこんなに艶やかじゃない。この子もここにいる人たちも絶対に違う」
私は敢えて強い言葉で言い切り、広場に集まっている人々を見渡す。
その間にコウカたちがこちらに来て、磔にされている人たちを解放してくれていた。
「不安から過敏になるのは分かりますけど、もう一度冷静になってよく考えてみてください。今までずっと同じ場所で生活してきた仲間じゃないですか」
そんな相手すら信じられなくなってしまえば、きっと悲しみしか生まれなくなる。
拘束が緩んだのか、人混みを掻き分けながら何人もの人が広場の中央に向かってきた。解放された人々も同様だ。
涙ながらに再会を喜び合う彼らを見る周囲の人々の中には、バツが悪そうに俯いている者も多い。
「敵の中には――」
プリスマ・カーオスは擬態ができる。
きっとこの街の人々に邪族のことを伝えた神官やシンセロ侯爵は偽物だ。
少なくともシンセロ侯爵はそんな軽率な発言をする人ではないと信用している。
領主の声まで正確に覚えている人は少ないだろうから、簡単にだますことができるのだ。
しかし、だからといってそれを馬鹿正直に伝えてしまえば、人々は疑心暗鬼になって隣人にすら疑いの心を持ってしまうだろう。シンセロ侯爵には悪いが少し伝え方を変える必要がある。
「もしかするとその神官は偽物でシンセロ侯爵もその巧妙な手口に騙されてしまったのかもしれません」
今はこう伝える他ないのだ。戦いが全て終わる時まで、できるだけ混乱が起きないようにするしかない。
「こういうご時世だからこそ、情報を鵜吞みにする前に皆さんでよく話し合って、正しいと思える選択をするようにしてください……お願いします」
私の声を真摯に受け止めてくれた人は広場の中央で抱き合う人々に平謝りし、謝罪の声があちらこちらで聞こえ始める。
この街の人はきっともう大丈夫だ。
でもこんなこと、これからは世界中で起こってしまうかもしれない。
私はどこにでも現れる可能性があるのだし、もし私に擬態されればもっと酷いことになるのは目に見えている。
あの風の霊堂での一件以降、そんな話を聞いたことがないのが奇跡だ。敵が何を企んでいるのかは分からないが。
ニュンフェハイムの襲撃から、四邪帝の姿が見えないのも気になる。アンヤ曰く、何やら“準備をする”と言っていたらしいが。
私は言いようのない不安感に今にも押しつぶされそうだった。
◇◇◇
神界において、対邪神の決戦に備えて準備を進めていたミネティーナ達。
彼女たちは度重なる邪魔並びに邪族からの襲撃を受け、疲弊していた。
「ティナ様……敵の襲撃、止みそうにありません」
「ええ。相手も本気だということよ……機会を伺っていたのは私たちだけではなかったのね」
重苦しい雰囲気が女神ミネティーナと水の大精霊レーゲンの間に漂う。
――そんな雰囲気を払拭するようにレーゲンは己の頬を二度叩き、声を張った。
「ブレンたち全員を一度下がらせます! ティナ様は力の具合を見て、アイツらと一緒に地上界への扉を開いてください!」
「待って、レーゲンちゃん! あの子たち全員を下がらせるって……前線はどうするつもりなの?」
「――あたしが抑えます」
その強気な表情にミネティーナは驚愕を表した。
「レーゲンちゃん1人で……!?」
「アイツらにもそろそろ休息が必要でしょう。それに人数がいた方がティナ様に余裕もできます。無理にでもユウヒ様たちを呼び込まなければ、希望すら生まれません」
「だからって無茶よ……魔力が回復しきっていないレーゲンちゃんだけであの数は……」
迷いを見せるミネティーナ。
そんな彼女を、少女の覚悟を決めた瞳が射抜く。
「ナメないでください、ティナ様。あたしは栄えある1代目の生き残り……アイツらとは違います」
精霊の翅を広げ、戦場へと飛び立つレーゲンの背中に向かってミネティーナは手を伸ばそうとする。
だが思い直したかのように手を引っ込めると、代わりに胸の前で祈るように両手を組んだ。
(どうか、あなたはちゃんと戻ってきて……レーゲン)
一方、レーゲンは彼女を除く5人の大精霊が食い止めている戦場へと辿り着いていた。
「あなたたちは後退してティナ様と合流! 態勢を立て直して!」
レーゲンの水魔法により発生した豪雨が辺り一帯に集結していた敵のみを正確に貫いていく。
その様子を見て彼女なら大丈夫だと判断したのか、大精霊たちは思い思いに言葉を言い残して後退を始めた。
(あたしは守るんだ。みんなが遺していった未来を……ティナ様が愛するこの世界を!)
自分の消耗を顧みず、レーゲンは大規模な魔法を行使して、迫り来る邪神の軍勢を殲滅にかかる。
すると押されかけていた戦場が盛り返す様相を見せた。
――そして彼女の奮闘により、一時的ではあるが明らかに情勢は好転していた。
そんな時だ。敵陣の奥深く、地面から突き出すような形で、無数の氷柱によって作られた死のカーペットが邪魔を巻き込むことも厭わず、無慈悲にもレーゲンの元へと迫る。
それを空へと逃げることで回避した彼女は因縁のある宿敵の姿を確認し、その名を忌々しげに呟いた。
「氷血帝イゾルダ……!」
「随分と大立ち回りしているようねぇ、レーゲン。大好きな女神様から、突撃して死んでこいとでも言われたのかしら?」
煽るイゾルダに対して、レーゲンは複数の魔法を同時行使する形で応える。
「相変わらず制御が上手いこと……」
足元を掬おうとする渦と自身を包囲する無数の水槍に対して、両腕を掲げたイゾルダが手の先から冷気を放つ。
だがレーゲンの魔法はその冷気を物ともせずに、標的を貫かんと迫っていた。
その事実に一瞬、表情を歪めたイゾルダであったが、自身と水槍の間に氷柱を生成して迎撃を図る。
鏡写しのようにそっくりな形をした両者の魔法は相殺され、霧散した。
口の端を吊り上げ、上にいるレーゲンに笑みを向けようとしたイゾルダであったが、ハッと何かに気付いたかのように目を見張ると視線を真下へ向け、体を捩った。
刹那、足元の渦から鋭い水柱が噴き出して彼女の体を掠める。
「チッ……腕は全く衰えていないようね、レーゲン!」
「イゾルダ!」
足元に広がる渦の一部を凍り付かせ、脱出したイゾルダの頭上から、水の両剣を手にしたレーゲンが斬りかかる。
その攻撃はイゾルダが生成した氷の盾で防がれたうえ、直後に氷の盾が勢いよく破裂したために、その衝撃でレーゲンは呻き声と共に上空へ投げ出されてしまう。
すぐに体勢を立て直すが、そんな彼女に破裂した氷の破片が氷柱と姿を変え、襲い掛かった。
「あたしはティナ様の剣! この程度で仕留められるとは思わないことだ!」
持ち手を軸に両剣を回転させ、全ての氷柱を打ち砕いたレーゲンが翅を広げて得物を眼下の敵に向けて突き出した。
その動作にイゾルダは憎悪を募らせる。
「そうよ、その目……憎たらしいったらありゃしない」
「あなたとの因縁をここで断つ! 覚悟を決めてもらう、イゾルダ!」
「因縁……そうね。運命がいったいどちらの味方か、ここで白黒つけようじゃない……レーゲン!」
再接近を図りながら、大量の水魔法で責め立てて逃げ場を奪うレーゲン。
そんな彼女に対抗するようにイゾルダもまた1対の黒い翼を広げ、空の上へ飛び立った。
「あくまで水魔法に拘るってワケ? ……フフッ」
口の端を吊り上げたイゾルダの周囲に6本の氷剣が生成される。
「でも霊器さえ扱えない今のアンタじゃ、魔力勝負は厳しいのではなくって?」
氷剣をレーゲンの元へ向かわせ、さらに無数の氷柱を生み出したイゾルダは水魔法の迎撃を行う。
レーゲンが氷剣を打ち払った時、その眼前には巨大な氷柱が迫っていた。それをすんでのところで避け、お返しにと水の槍を数発放つ。
そして互いに決定打に欠ける戦いを繰り広げ、空を飛び回りながらの魔法による応酬が続いた。
――だがやがて、それも終わりの兆しを見せ始める。
斬りかかってくるレーゲンを躱し、イゾルダは彼女へ語り掛けた。
「ねぇレーゲン。さっきから斬りかかってばかりじゃない。もしかして……魔力切れ寸前なのかしら?」
その問い掛けに表情ひとつ変えないで、レーゲンは逃げるイゾルダへの猛攻を続ける。
そんな彼女の様子にイゾルダはニヤリと嗤った。
「この終幕も運命ってことよね。【アブソリュート・ディスティニー】」
彼女の眼前に迫っていた水の両剣が凍結し、制止する。
だが、それだけではない。周辺を覆うとてつもない冷気により、レーゲンの体に氷が纏わりつきはじめたのだ。
「ククッ……アーハッハッハッハッハ! 遂によ、遂にアンタを氷漬けにしてやったわ!」
レーゲンが必死に体を動かそうとするが、両剣を突き出した状態のまま彼女は首から上以外を動かせなくなる。
そんな彼女の頬をイゾルダの鋭い爪が撫でた。
「無様ねぇ、レーゲン?」
「…………」
「強情ね、命乞いくらいしたらどうなの?」
喋らないどころか、怯えすら見せないレーゲンをつまらなそうに見るイゾルダ。
「まあいいわ。……ねぇ、どうしてアタシがアンタを完全に凍りつかせなかったと思う?」
尚も声を出さないレーゲンに、彼女はその答えを自ら打ち明ける。
「アンタの表情をよぉく見たいからよ」
「…………」
「あの時のアンタの面、忘れられなくって。もう一度ここで見せてほしいものねぇ……大切な弟分を目の前で失ったあの時の顔を」
「……ッ!」
「やぁっと表情を変えてくれたわねぇ。わざわざ目の前まで連れていくのは面倒だけど……あなたくらいになるとここからでも感じられるんでしょう? 同族の死に様は」
射殺すような視線を向けるレーゲンであったが、依然として氷に纏われた体は1ミリ足りとも動かすことができない。
「ちゃんと見せて頂戴。その表情のまま永久保存してあげる」
彼女の鋭い感覚が窮地に陥っている同族たちを捉えた。
『どうしたッ、ブレン! キサマはかつてオレをあれほどまでに楽しませてくれたではないか! 最早あの時のような力は一片たりとも残ってはいないのか!? ならばここで潔く斬られるがいい!』
『クソッ、クソッ! こんなところでッ!』
己の非力さを痛感する青年。
『キャハハハハハ! 楽しいお人形劇だよ。お題目はそうだねぇ……『愛し合う兄妹による骨肉相食む一騎打ち』とかどうかなぁ!?』
『ノイ、ノイ! やめろおぉぉ!』
『フォルお兄ちゃん! イヤあぁぁ!』
望まぬ死闘を演じさせられ、愛する者をその手に掛ける兄妹。
『ガーハッハッハッハッハ! 効かんなぁ……やはり吾輩のこの強靭な体こそ至上最硬なりィ!』
『まだだ! お前なんか……お前らなんかにっ!』
強大な力を前にしても不屈の心で抗い続ける少年。
『ヴュステくん……ッ!』
『お前の相手は私たちでしょう、アィズィヒ』
『カーオス……!』
多勢の前では秘めた想いを抱く相手の窮地にすら寄り添えない少女。
レーゲンの唇が震え、視線も定まらない。
絶望感に苛まれた少女を前にして、イゾルダは歓喜した。
「そう、その表情よぉ……さあ凍りなさい。コレクションとしてずっと大切にしてあげる」
次第に狭まっていく視界、遠のいていく意識。
『どうして結界が……! あなたが何故ここに!』
『停滞の内に過ごしていた其方とは違い、此方は進化の時を待っていた』
少女の感覚が微かな声を拾う。
『永き時にわたり、神位を求め続けた此方が持つ力は今の其方を凌駕している。もう封印などという甘い考えは捨てることだ』
『……ッ! 元よりそのつもりです! 例えこの身が潰えようとも……私は刺し違えてでもあなたを消滅させます!』
この世で最も大切な人の声だった。その声が心の奥深くへ染み渡るように広がっていく。
『ほう……地上の人間どもは見捨てると? 其方は女神が消えるという意味を理解しておらぬように見える』
『……そうではありません』
『何?』
『たとえ私が消えようとも、この世から女神は消えません!』
レーゲンの意識が再浮上を果たす。
笑みを浮かべていたはずのイゾルダはその異変に気付き、表情を凍りつかせた。
音を立て、氷塊の内側から外側へ向かって亀裂が走っていく。
「どこからそんな――ガッ!?」
驚愕に目を見開いたイゾルダの左足を、砕けた氷塊の中から飛び出してきた両剣が貫く。
雄叫びを上げながら突進するように剣を突き立てたレーゲンの足が宿敵の鳩尾にめり込み、そのまま地面に向かって蹴り飛ばすと同時に、今度は右手に持った両剣を渾身の力で振り被り、投擲する。
その剣は吸い込まれるようにイゾルダの持つ翼を半分刈り取った後、霧散した。
――遠ざかっていく少女の名を叫ぶ声が木霊する。
「精霊って本当にッ……! こんなものが運命だなんて認めないわよ、アタシはッ!」
叩き落とされた大地から飛び去っていく背中を見送ることしかできない哀れな邪帝は、腸が煮えくり返るほどの憎悪を募らせていた。
◇◇◇
レーゲンが上空を通り抜けたそこはまさに死屍累々の様相だった。
地上の様子を見て、激しい憤りを見せる彼女だが決して飛行速度を落とす素振りは見せない。
そして地上から青い髪を靡かせて飛んでいく少女を見た爆剣帝ロドルフォがつまらなそうであった顔を歓喜に染める。
「骨のありそうな奴が残っているじゃないか……!」
だがそんな彼の肩を掴み、制止する者がいた。
邪神の参謀役プリスマ・カーオスである。
「待ちなさい、ロドルフォ。メフィストフェレス様より授かった御命令に従いなさい。あの御方の戦場を穢すことは許しません」
彼だけではなく数多ものカーオスたちが往く手を阻むように立ちふさがったため、ロドルフォはつまらなそうに自身の腕を掴む手を振り払った。
傀儡帝ヴィヴェカが先ほどのカーオスの発言に対して、戸惑いを見せる。
「えぇ……でも何故通したのだーって怒られないかなぁ」
「イゾルダの担当であろう? あやつの失態なら吾輩たちには関係あるまい」
鋼剛帝バルドリックの豪快に笑う声が辺り一帯に響き渡った。
彼ら邪神の眷属たちがそのような会話を交わしているなどつゆ知らず、レーゲンは己の目指す場所へと無我夢中に駆け抜ける。
――そして遂にレーゲンの目が傷付いた状態で地に膝を突いた女性と、彼女と相対するように向き合う黒い靄のような存在を捉えた。
「メフィストフェレスーッ!」
「レーゲンちゃん!?」
水の両剣を構えたレーゲンがミネティーナと黒い靄の間に躍り出る。
愛する者を庇うように立つ少女に人の形を取る不定形の靄が男、女のどちらとも取れるような声で呼び掛けてくる。
「随分と冷たいな、レーゲン。やはり其方も此方を拒むか」
「そうさせたのはあなたです! あなたがティナ様への復讐だなんて言い出さなければ、あたしはっ!」
感情を爆発させた少女が叫ぶ。
「あたしたちはあなたを拒んでなんていなかったというのに!」
「……其方らがどう思っていようが同じこと。此方が為すことに変わりはない」
感情を凍りつかせたような起伏に乏しい声が淡々とした言葉を少女へと告げた。
「そのつもりならッ!」
叫び、踏み出したまま両剣を靄――もとい邪神メフィストフェレス目掛けて振るうレーゲン。
「ダメっ!」
だが彼女が飛び出した直後にそれを止める鋭い声がレーゲンの鼓膜を震わせ、咄嗟の判断で両剣を手放した。
刹那、邪神がその背部から巨大な腕のような物を生やし、振るったかと思えば水の両剣が黒ずんで、霧散するように消えていく。
「破壊の神力……!」
「違うな。これは此方が得た蝕……其方らの持つ全てを虚無に帰す力だ」
「出任せを……! たったその程度の力でッ!」
レーゲンが背中の翅を広げ、再度出現させた両剣を手に突撃する。
それを迎撃するように邪神が背部の腕を伸ばすが、それは彼女の飛行技術により軽やかに回避されてしまう。
危うく掠るのではないかというほど、ギリギリのところで回避したまま肉薄する少女の刃が黒い靄の中心を捉えようとした――その時だ。不意に邪神の背部から現れた更なる腕が少女へと迫る。
それを方向を急転換することで避けようとしたレーゲンであったが、避けきることはできず、その足先を掠めてしまう。
「ッ!? ……くっ!」
足先から崩壊していく己の右脚を見下ろした彼女は、咄嗟の判断で膝の上あたりに自分の得物を突き立て、そのまま右脚を引き裂いた。
激しい痛みと出血に意識が遠くなりかけるが、彼女はそれを気力で堪え凌ぐ。
「あたしはまだっ! ……ぁ」
右脚を失ってなお、突撃を敢行しようとしたレーゲンは邪神を視界に捉え直し――愕然とする。
自身に迫る黒い8本の腕が視界を埋めていく時間が、彼女には非常にゆっくりとしたものに感じられた。
「レーゲン!」
そんな時だ。何かが黒い腕と自身の間に飛び込んでくる。
その何か――女神ミネティーナの体が黒い腕によって背中から貫かれていた。
「ティナ……様……?」
「生きて……レーゲン。たとえ一瞬でも……永く……」
彼女は茫然とする少女の肩に触れ、その背後に生み出した時空の穴に押し出す。
直後に穴は消え、その場には邪神と女神だけが残された。
「――なぜだ、ミネティーナ。レーゲンを庇ったところで何の意味がある。何故人の世の為と此方を拒んだ其方が、そのような私情で動くような真似を……!」
「そう……やっぱり、私のせいだったのね。あなたにも、寂しい思いを……させて……」
「黙れ……!」
自分の体に突き刺さっている腕から無理矢理にも逃れ、ミネティーナは邪神と向き合う。
「きっと……最初に抱きしめるべきだったのね……せっかくこうして触れ合えるようになったのだから」
邪神に向かって歩き始めたミネティーナは浸食されることすら厭わず、愛おしそうに己の身を貫いていた腕に手を添える。
「やめろと言っているっ。今さら其方が何をしようとも結末は変わらない。此方は其方の愛した世界を破壊し尽くし、新たな世界を創造するだけだ……!」
「……きっとそうはなりません。あの子達があなたを止めてくれるわ」
「其方が呼び寄せた魂か。いくら次元を超えた存在とはいえ、人は背伸びをしても神には届かぬ」
「いいえ。人の想いは……愛は偉大よ、メフィスト」
邪神の本体を目前にして彼女は歩みを止める。
否、彼女の体は背後から貫く異形の腕により、急速にその力を失っていったのだ。
霧散して光となったミネティーナ。
その光が邪神メフィストフェレスに吸収されるように集まり、1人の女性の姿を形作っていく。
浅黒い肌に黒い髪、血のように赤い瞳。だがその容貌は女神ミネティーナのものに酷似していた。
彼女は自らの腕を見下ろして呟く。
「死してなお此方を拒むか、ミネティーナ。愛などと宣っておきながら……やはり其方は此方を愛してなどいないではないか」
「メフィストフェレス様」
佇む彼女の背後に跪く存在があった。
彼女は振り返ることなく、その声の主を見極める。
「カーオスか」
「あなた様の忠臣、プリスマ・カーオスでございます。そのお姿……ついに我らの悲願が成就する時が訪れるのですね……!」
カーオスは純粋な喜びを表すが、その主が歓喜するような気配は微塵もない。
「いいや、完全に手中に収めたわけではない。未だ此方の力も完全ではない故にな」
「ならば我らがあなた様を煩わせる忌まわしき封印を解くため、地上へと参ります」
ミネティーナたちの遺した置き土産を処理するため、その場を後にしようとするカーオスと背中を突き合わせるような形で立っている邪神が彼へと語り掛ける。
「……ミネティーナ曰く、かの人間が此方の邪魔をしようとしているようだ」
「まさか、この神界に……?」
「其方たちには此方に力が馴染むまでの足止めを命じる。封印が解かれずとも、力の融合を果たしさえすれば同じこと。其方たちが地上界に向かう必要はない」
「ハッ!」
傅いたカーオスには目もくれず、メフィストフェレスは視界の先にある神殿を見据えていた。
――女神ミネティーナとその眷属たちの死。そして邪神メフィストフェレスの復活。
世界の命運を握る天秤は今、大きく傾き始めていた。
◇◇◇
世界ではその日、天変地異が巻き起こった。
「お父様! モン・ブランシュネージュのお話、本当のことなんですの!?」
「ああ……信じられないことに火口に動きがあったようだ」
「そんな……」
ラモード王国では永き時にかけて完全に活動を停止していたはずの火山が噴火の兆しを見せる。
「イルフラヴィア様! ここは危険です、中にお戻りください!」
「ああ。放送で民に嵐が過ぎ去るまでの間、家屋の外へ出ないように伝えろ」
突如、都市を吞み込まんとするほどの巨大な砂嵐が観測され、帝国のうら若き皇帝は国民と遥か彼方にいる友を案じる。
「海が荒れてるの……お前たち、しっかりと爪を研いで準備しておくの。招かれざる客なの」
沖合の孤島では手負いの龍が荒れ狂う白波立つ海を見下ろし、その底で蠢く巨怪を睨みつけている。
つい先日まで鬱然と生い茂っていた広大な森の木々が急速に枯れ始める地方。
突然、真冬の寒さに包まれる地方とそれとは反対に急激に上昇した気温により、灼熱地獄を迎えた地方。
そして分厚い雲が空を覆い尽くし、闇に閉ざされた地方もあった。
世界の破滅への序曲が今、奏でられはじめたのだ。
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