コメント
0件
あの日聞いた話を確認すると、最初は一体なんのことだと首を傾げた西条だったが、すぐにハッと気づいた素振りを見せて和臣の問いを力強く否定した。
「それは誤解です! 確かに皆口さんと家の話はしてましたが、あれは医院と自宅を併設させるために気をつけた方がいいこととか、予算とかの相談をしていただけです」
皆口は建築士の父親の影響もあってか、建築関係の知識に富んでいたらしく、西条は素人では分からない部分の助言を求めていたのだという。
「けど、この前『子どもが遊び回れる庭のある家が欲しい』って、お前自身が言ってたじゃないか。あれって自分の子どもの話だろ? そんな夢、オレじゃ……」
当然、叶えてやることはできない。
「それも違います。あれは医院の庭を地域の子どもの遊び場にしたいって意味です。病院の敷地内なら安心して遊べるだろうし、怪我をしてもすぐに対処できる。体調の悪い子だって、いち早く見つけることができるってメリットがあると思って」
「それは確かにそうかもしれないが、そもそもお前子ども好きじゃないか。自分の子どもだって欲しいだろ?」
「もちろん子どもは好きですけど、それ以上に俺は先生が好きですし、一生を共にしたいと思ってるんです! 先日、二人で食事に行った時、先生に家を建てる話をしましたよね? 実はあの時、将来、先生と一緒に開業したいってお願いするつもりで話を切り出したんです」
だけど途中で緊急のコールが入ってしまったため、最後まで伝えることができなかったのだと西条は語る。
「俺、本当に先生のことが好きなんです。信じてください」
西条の強い思いが、肌に圧を感じるほど伝わってくる。
「西条……」
この気持ちは本物だ。それは恋愛の経験値がマイナスを振り切っている和臣ですら分かった。
なのにーーーーどうしてだろう。
叶うはずがないと思っていた想いが成就したにも関わらず、和臣の頭には「どうして? なぜ?」の疑問が溢れた。
もちろん、西条が人を騙すような人間だと疑っているわけではない。だが自分は人を欺いて己の欲を満たしたうえ、お世辞でも西条に優しい態度は取ってこなかった。いくら恩があるとはいえ、そんな人間のどこに惚れるというのだ。
「まだ、俺のこと信じられませんか?」
「だって……オレは……」
「不安に思っていることがあるなら、言ってください」
俺が全部取り除きます、と自信満々に微笑まれ、和臣はならば、と湧き出た疑問を西条にぶつけた
「オレは、お前も知ってのとおり性格も口も悪くて、周りから感情が欠落してるって言われるような男だ。こんな奴、一体誰が好きになるんだよ……」
子どもには怖がられ、患者家族には批難され、上の人間や看護師たちからも協調性がないと溜息を吐かれる。どこを取っても欠点しかない男なんて、自分だってごめんだ。
「先生は感情が欠落してるわけじゃありません。少し分かりにくいかもしれませんが、誰よりも優しい人です」
「違う。お前はオレとなまじ身体の関係なんて持ったせいで、変に勘違いしてるだけだ」
男という生き物は、セックスすると相手に好意がなくても情を抱いてしまうものだ。特に西条の場合、最初に自分のための行為だと騙されていたこともあって、余計に間違った認識が植えつけられてしまったに違いない。
「うーん、なかなかに頑なですね」
和臣の言葉を聞いて、西条が困ったように笑う。
「分かりました。そこまで先生が自分のことを否定するなら、どうして俺が先生を好きになったか、今からありったけ説明します」
「……へ?」
よく聞いてくださいね。前置きをした西条が、長い息を吸い――――。
「最初に先生のことが気になったのは、研修医時代でした。あの頃の先生はめちゃくちゃ厳しかったけど、それは人の命を預かる覚悟を俺に持たせるためだってすぐに分かったし、しっかり育てようとしてくれているんだって伝わってきたので、すごく嬉しかったんです。あと患者が元気になって退院する姿を見て浮かべた先生の笑顔が、すごく可愛くて、ドキっとしました」
「え? は? ちょっ、お前……」
「その次は研修が終わって小児科にきた時です。あの時、先生に『面倒な奴が来た』とか『うちに来なくてもよかったのに』って言われてへこんだんですが、後から看護師長さんに、俺の配属が正式に決まった時、先生が一番嬉しそうだったことや、部長にかけあって指導医を買って出てくれたこと、あと随分前から準備をしてくれてたことを聞いて、俺、泣きそうになりました。というか、そのあと一人になった後、嬉しすぎて本気で泣きました」
「お、おい」
今は泣いたとか泣いてないとかそんなことよりも、当時のことを看護師長に知られていただけではなく、西条本人にまで伝えられていたことに驚きが隠せなかった。
「それから一緒に働くようになって、先生が誰より優しいってことも知りました。先生、毎年新人の看護師が入ってくる度に『子どもに泣かれたら迷惑だから、一発でルート取れるようにしろ』って点滴の練習台になってますよね? それに冬は必ず白衣のポケットにカイロを入れて、子どもに触る指先が冷たくならないようにしてる」
両腕が針の穴痕と内出血だらけになってもすました顔で差し出し続ける姿に感銘を受け、自分も同じ行動を取るようになったのだと西条は語る。
「いや、それは、別に……」
まさか密かに行ってきた数々の行動を、西条に知られていたとは。
それだけでも気恥ずかしいというのに、それをつらつらと聞かされるなんて。
これはもしかしなくても、罰ゲームなのだろうか。そんな気持ちにまでなってくる。
「西条、もう……もういいから」
これ以上は、と制しようとしたが勢いは止まらず、まるで最初から台本でも用意されていたかのように西条の思い出語りは続けられた。
「俺が酷く落ち込んだ時だって、負担のない科への転科も考えた方がいいっていう上の人たちに頭下げて、俺が小児科に残れるようにしてくれたんですよね?」
これも尾根から聞いたと、西条は言う。
「それは……オレが指導医だからで……」
「尾根部長言ってました。あんなに必死な東堂先生は初めて見た。よほど君に期待してるんだね、って。だから、さっき先生は自分の欲を優先したって言ってましたけど、それを聞いても恨みなんて気持ち少しも出てきませんし、今でも先生と出会えてよかったって心から思えます」
西条の内側に隠されていた真摯な感情が、和臣の不安をどんどん消していく。
「これだけ俺の心を揺さぶっておいて、まだ俺の好きな人のことを悪く言うつもりですか? それなら先生の気が済むまで――――」
「もういい! 西条、本当もういいから!」
居たたまれなくて、これ以上聞いていられない。慌てた和臣は西条の口を塞いでしまおうと、空いている方の手を持ち上げる。が、先を読んだ西条に手首を捕まれてしまい、望みは叶わなかった。
「いいえ、一番大切なことがまだ残ってます」
これだけは言わせてください。いつの間にか両手の自由を奪われ、真っ正面で向き合う形となった状態で願われる。
「西条……」
視線がこれ以上ないほどまでに深く絡み合った途端、強力な磁石に引きつけられるかのように目が離せなくなった。
「先生と始めた関係は、俺にとって小児科医を続ける手段だったことに変わりありません。けど何度も先生の温もりを感じるたびに、ああ、先生のこんな姿を知っているのは世界中で俺だけなんだって、特別感みたいなものを抱くようになって……気づいたら、それが独占欲に変わってたんです」
「独占欲?」
「先生を誰にも渡したくない、自分だけのものにしたい。だけど、その望みを叶えるためには一日でも早く一人前の医者になって、先生に認めて貰わなきゃいけない。だから……瑞紀君のことをきっかけに、一人で乗り越えられるようにしようって決意したんです」
「瑞紀君のこと?」
「瑞紀君が急変した時、本当は俺、先生のこと支えたかったんです。けど先生は俺の手を取ってくれなくて……」
和臣に頼って貰えないのは、すべて自分が力不足のせいだ。そう思い知らされたのだと西条は苦い顏をしながら告げる。
「ねぇ、先生……俺はまだ完全に弱さを克服できていませんし、先生の指導が必要なヒヨッコです。でも、いつか必ず自信を持って先生の隣に立てる医師になります。だから――――」
捕まれていた手が離される。ようやく自由となった和臣だが、逃げなければという意思はとうになく、ただ頬を包む西条の両手の温もりに意識を向けた。
「いつか、俺と一緒に家を建てて貰えませんか?」
先生と暮らすための、大きな庭のある家を。
「っ! さ……ぃ、じょ……」
逞しい腕に包み込まれた瞬間、視界が滲み涙が自然に溢れた。
ギュウギュウで少し苦しかったが、幸せだった。
「ほんと……に、オレで……いいのか?」
「はい、先生じゃなきゃ嫌です」
「オレ、やっかいな……やつだぞ……」
「まだ言いますか? でもそういったのも含めて、全部愛してます」
抱擁を一旦解き、瞼を伏せた西条の顏がゆっくりと近づいてくる。すぐにそれがキスだと分かった和臣はゆっくりと目を閉じ、温もりを待った。
「ん……」
キスなんてセックスの時にもう何十回と交わしたはずなのに、まるで初めての時みたいに新鮮に感じる。
これからは背徳感に苛まれることなく、こんなふうに恋人として色々なことをやっていけるのだ。そう思うと、喜びが連鎖爆発する爆竹みたいに広がった。
「西、条……」
涙声で呼ぶと、こちらが燃えてしまうぐらい熱い瞳が柔らかく微笑んでくれた。
ああ、なんて幸せなのだろうか。
幸せすぎて逆に怖くなってしまうぐらいだ。
まるで西条を独り占めした見返りに、何か大きなものを失うのではないかと不安を覚えるほどに。
――――失う?
その時、ふと和臣は胸騒ぎのような感覚を覚えた。憂心はすでに解消はずなのに、未だ大きな問題に苛まれているような、そんな感覚だ。自分は何かを忘れている。そんな懸念が走った瞬間、脳裏に尾根の顔が浮かび和臣は双眸を大きく見開いて西条の胸を叩いた。
「どうしました?」
名残惜しげに唇を離した西条が、首を傾げながらこちらを覗き込む。
「西条、ダメだ、オレたち……もう一緒にいられないんだった」
「なんです、それ。急にそんな不吉な冗談言わないでくださいよ……」
せっかく両想いになれたというのに、と子どものように唇を尖らせる西条に、じっとりと睨まれる。
「冗談とかじゃない。お前、尾根部長から聞いてないのか? 今度、北海道の病院との交換研修プログラムで、オレかお前かのどちらかが転院しなきゃいけなくなるって」
「え? 俺、そんなこと一言も聞かされてませんよ?」
「小児科から一人出すって話で、オレとお前と横手先生が候補に上がったんだけど、実質的に動けるのはオレたちだけだからって……」
詳細を話すも、西条は寝耳に水という顏で首を振る。
「多分、ここ数日部長が学会でいなかったから伝わってないんだと思います。でも北海道って……嘘だ……」
和臣が初めて聞かされた時と同じように、西条も絶句する。そしてそのまま沈黙してしまった。おそらく、今必死に頭の中で混乱を落ち着かせているのだろう。和臣は邪魔しないよう西条を見つめたまま言葉を止める。
そのまま待つこと五分、なんとか衝撃を沈静させることができたのか、西条は一つ大きく息を吐いて、再び和臣に視線を戻した。
「…………分かりました。その研修、俺が行きます」
「え? は? お前が? いや、お前はこっちに残って開業の準備しないといけないだろ? そう思ってオレが行くつもりだったんだが……」
「確かに準備は必要ですが、独り立ちするための医療知識はもっと必要ですからね。それに……今、北海道にいくのは、将来、先生の隣に自信を持って立てる医者になるいい機会だと思ったんです」
患者の死を受け止め、一人でもしっかり歩けるようになるための修行だと西条は言う。
「だから俺、北海道に行きます。行って、猛勉強して、五年で必ず戻って来ます。そしたら……一緒に病院開いて貰えますか?」
「五年後か」
その頃、和臣は四十二歳だ。医師としても一人の人間としても熟成された時期であるものの、一度踏み出してしまえばもう後戻りできない時期でもある。
ここで頷けば、和臣の未来は完全に決まるだろう。
しかし不思議なことにその選択に迷いどころか、わずかも不安は湧かなかった。それよりも今は、西条がここまで逞しく成長してくれたことが嬉しくて仕方ない。
数十分前まであれほど西条が飛び立つことを怖がっていたというのに、現金なものだ。
「分かった。家でも病院でも何でも、一緒に建ててやる。だからもう辛いことがあっても泣くなよ」
はっきりと答えを答えを返して、今度は和臣から抱きしめた。
背中に腕を回してギュッと抱きしめると、西条は上半身を小さく震わせ、そして鼻をすする。
「ありがとうございます。……でも本音を言えば、もう今の時点で寂しくて、辛くて泣きそうです」
西条の涙声に、和臣の鼻腔もツンと痛む。
「オレだって寂しいに決まってるだろ。でも二人の夢のために頑張るから。一緒に、頑張ろうな」
「はい」
一緒に涙声になりながら、強く、強く抱き合う。
今、目の前にある温もりと離れ離れになってしまうことを考えると苦しくて堪らないが、震えるような恐怖は感じなかった。なぜなら、密着した身体越しに伝わってくる西条の鼓動がまるで二人の未来を鼓舞する応援歌のように聞こえて、寂しさをうんと和らげてくれたからだ。
大丈夫。二人には未来がある。
和臣は幸せを噛み締めながら、愛おしい温もりに浸るのだった。