「うぉい!ヘタレ店長殿ぉ!!!」
 けたたましい声と共に
ソーレンが
勢いよく扉を開けて入ってきた。
 ドアが勢い余って壁にぶつかり
鈍い音を立てる。
 「⋯⋯どうしたんですか?」
 時也が静かに顔を上げる。
 「どうしたも、こうしたもねぇよ!」
 ソーレンが
乱暴に額の汗を拭いながら
苛立ちを隠そうともせず言い放つ。
 「あんのクソ転生者!
いつの間にか逃げやがった!
お前らが余計な仕事を増やすからだろ!」
 本来なら
捕えた転生者を落ち着かせ
話を聞いて説明をするのは
時也の役目だった。
 青龍がアリアの回復を待ち
ソーレンが床の血溜まりの片付けをする
それが彼らの分担だった。
 だが、その転生者は
いつの間にか消え失せていた。
 「クソがっ!
アイツどんな能力だったんだろな。
貴重なもんだったかもしれねぇのに」
 嫌味とも取れるその悪態にも
時也の表情は一切変わらなかった。
 「青龍の話によると⋯⋯」
 時也はゆっくりとした口調で続ける。
 「〝水が無限に出せる〟能力
だったそうですよ?」
 「はぁ?水ぅ!?」
 「硝子に覆われた
あの席の構造を利用して
アリアさんを溺れさせようとしたんです。
でも、あの席は
掃除をしやすくするために
排水溝がありますからね⋯⋯」
 「⋯⋯それで
自分の歯であそこまで
アリアを食いちぎったってか⋯⋯」
 ソーレンが渋い顔で呟く。
 「じわじわ痛めつけようって
痕跡が凄かったんだよな⋯⋯」
 その言葉に
時也とレイチェルの顔が
さっと青ざめる。
 想像しただけで
吐き気が込み上げてきていた。
 (⋯⋯どれほどの恨みがあれば
歯で人を食いちぎるなんて⋯⋯)
 レイチェルは息を詰めた。
 「⋯⋯あの方は」
 時也の声が、微かに震えていた。
 「不死鳥から
他の魔女への見せしめとして
嘴で身体を⋯⋯
急所を外して
ゆっくりと食い殺されたようですね⋯⋯」
 その声には
苦痛と嫌悪が滲んでいた。
 「殺された本人にも
見ていた魔女にも
絶望がさらに増すように⋯⋯」
 「おっえ〜!」
 ソーレンが顔を顰め
冗談めかした声で吐き気を訴えた。
 過去に
殺しもしてきたソーレンにとって
それはまだ
耐えられる話だったのかもしれない。
 だがレイチェルには
到底耐えられる話ではなかった。
 愛する妻を食いちぎられた
時也もそうなのだろう。
 喉の奥から込み上げる吐き気を
どうにか堪える。
 「⋯⋯ってかよ。待て待て」
 ソーレンが、不意に眉を顰めた。
 「水が無限に出せんなら
水道料金タダじゃねぇか!
うわ⋯⋯
逃がすなんてなおさら勿体ねぇ!」
 「⋯⋯ぷっ」
 思わず吹き出してしまった。
 (水道料金なんて
気にするタイプには見えないのに)
 レイチェルは
内心でそう思いながら
思わず笑ってしまった。
 ソーレンは
そのまま窓辺に向かい外を見下ろす。
 夜の街は、静かに沈んでいた。
 既に何時間も経過している。
 どれだけ必死に追ったとしても
もう追いつくのは難しいだろう。
 「⋯⋯ちっ」
 舌打ちをしながら
ソーレンは煙草を取り出し
火を点けた。
 白い煙が
静かに闇の中へと消えていく。
 すると
ノックの音が静かに響いた。
 レイチェルが振り向くと
其処には青龍が立っていた。
 銀髪がきっちりと纏められ
包帯を巻いた幼子の姿のまま
彼は厳かに頭を下げる。
 「時也様、アリア様が⋯⋯
未だ表面的ではありますが
回復を終えられました。
どうかお戻りを」
 静かで落ち着いた声だったが
その言葉の端には
微かに安堵が滲んでいた。
 「わかりました。
ありがとうございます、青龍」
 時也は
いつもの柔らかな笑みを浮かべ
静かに立ち上がる。
 ベッドの上のシーツが
時也の体温をまだ残しているのが見えた。
 「では皆さん!
明日もまた
お店の営業に転生者探しにと⋯⋯
業務はたくさんです!
しっかり休みましょうね」
 言いながら
時也は両手を叩き解散の合図をした。
 「⋯⋯今まで寝てたヤツが
何言ってんだか」
 ソーレンが呆れたように吐き捨てる。
 苦笑交じりの言葉だったが
何処か心配を隠す為の悪態に思えた。
 時也はそんなソーレンの
嫌味に顔色一つ変えず
穏やかなまま
 「おやすみなさい」と告げて
部屋を出て行こうとする。
 が──
 最後に
レイチェルの前で立ち止まった時也が
ふと振り返った。
 「レイチェルさん⋯⋯」
 「はい?」
 「⋯⋯貴女がいてくださって
本当に助かりました。
心から感謝いたします。
それから⋯⋯
ベッドをお借りしてすみません」
 彼は丁寧に頭を下げる。
 「いえ!
アリアさんと
ゆっくり休んでください!」
 レイチェルは慌てて手を振り
笑顔を向ける。
 時也はもう一度深く頭を下げると
静かに部屋の扉を閉めた。
 ⸻
 扉が閉まった瞬間
部屋の中に静寂が戻る。
 先ほどまでの緊張が一気に解け
どっと全身に疲労が伸し掛った。
 「あぁ⋯⋯もうダメ⋯⋯」
 レイチェルは
重くなった瞼を擦りながら
ベッドに倒れ込んだ。
 シーツに頬を沈めた瞬間
ふわりと優しい香りが鼻先をくすぐる。
 それは
ほんのり甘くて
どこか桜の花を思わせるような
柔らかな香りだった。
 「⋯⋯時也さんの香り、かな」
 レイチェルは
微かに赤くなりながらも
シーツに顔を埋める。
 男性の香りを意識するのは
何処か気恥ずかしかった。
 だが
その香りには
心が安らぐような温かさがあった。
 こんな香りのする人が
アリアを愛して
守り抜いてきたんだ。
 その事実に
胸の奥がじんわりと
温かくなるのを感じた。
 「⋯⋯時也さんが
アリアさんの傍に戻れて良かったぁ⋯⋯」
 独り言のように呟いた声は
すでに眠気に飲み込まれかけていた。
 次第に、意識が遠のいていく。
 桜の香りに包まれながら
レイチェルの瞼は静かに閉じられた。
 今日の疲れは
きっと良い眠りが癒してくれる。
 そう思いながら
レイチェルは深い眠りに落ちていった。
コメント
1件
静かな微笑みの裏に潜む、絶対の力。 この手に守るべきものがある限り── たとえ世界が敵でも、彼は微笑んで立ち向かう。 ──〝彼女〟のために。