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図書室へとノートを抱えて向かっていたすちは、足を止めた。
開け放たれた教室のドアから、耳に刺さるような怒声が聞こえてきたのだ。
「人の話を聞いているのか!」
嫌な胸騒ぎとともに視線を向けると、見えたのは無表情で立たされるみことの姿。
腕を乱暴に掴まれたまま、痛みにも反応しない弟のその表情に、すちの胸は強く締めつけられる。
「……っ」
奥歯がぎり、と鳴る。
胸の奥から煮えたぎるような怒りが溢れてきた。
教師に怒鳴られ、無理やり立たされているみこと――
その姿をただ見ているなんて、兄として絶対にできない。
すちは深く息を吸い込み、できるだけ冷静を装いながらも、足を踏み入れた。
「……先生、何をしているんですか」
すちの低い声が、張り詰めた教室の空気を震わせた。
次の瞬間には、みことの前に立ち、教師と弟との間に割り込んでいた。
教師が眉をひそめる。
「なんだお前は……授業中に勝手に――」
「弟に、何をしているんですか」
すちの声音は穏やかに聞こえるが、その目には怒りがはっきりと宿っていた。
普段は柔和な笑みを絶やさない彼の表情が、ここまで冷ややかに歪むのをみことのクラスメイト全員が初めて見た。
教師は苛立った様子で言葉を続ける。
「授業中に勝手に花を持ち込んで、挙句に返事もしない。注意して当然だ!」
(花…?…!これってもしかして…)
すちは無言で机の花瓶を確認し、みことの腕に目を落とす。
赤く跡が残るほど強く掴まれていた。
――耐えろ。ここで怒鳴ったら、逆効果だ。
頭の中で冷静さを保とうとするが、拳が震えている。
「……注意は、言葉でできるでしょう」
すちの声は低く、静かだった。
「無理やり掴む必要なんて、どこにもないはずです」
シン、と静まり返る教室。
誰も息をするのも忘れたように、2人のやりとりを見守っていた。
みことはすちの背中をじっと見つめる。
虚ろな瞳に、ほんのわずかに揺らぎが生まれた。
教師はすちの言葉にも耳を貸さず、逆に苛立ちを募らせた。
「生意気な口を……!」
その手はみことの腕をさらに強く掴み、指先が食い込む。
「……っ」
浅い切り傷だった昨日の痕が裂け、袖口の下からじんわりと赤い血が滲み出す。
すちの目が、すっと細くなる。
瞳の奥には冷え切った光が宿り、握りしめた拳が震えた。
「先生」
穏やかに響くその声は、かえって圧を増していた。
「……弟を、離してください」
言葉の裏に押し殺した怒りが透けて見え、空気が凍り付く。
いつも柔和なすちを知る者なら、この静けさこそが本当の怒りだとすぐに理解できただろう。
袖口を赤く染めながら、みことはぼんやりとすちの背中を見ていた。
自分を庇って教師に向かう兄の姿。
――何も感じないはずの胸の奥が、微かに熱を帯びた。
「……もう我慢できません」
すちの低い声が響いた瞬間、彼の手が教師の手首を掴んだ。
細身に見える腕からは想像できないほどの力で、教師の指はあっさりと開かされる。
「なっ……!」
みことの腕が解放され、バランスを崩しそうになったところをすちが素早く支えた。
血が染みた袖をそっと押さえ、そのまま自分の背後へ庇うように立たせる。
「な、何をしているんだ君は! 生徒が教師に……!」
怒鳴り散らす教師の声は、どこか震えていた。
すちの瞳は冷ややかで、一切瞬きをしない。
「……弟に手をあげる教師なんて、教師じゃない」
淡々と告げられた言葉は、刃物より鋭く、教室の空気を切り裂いた。
「やば……」
「先生、完全に負けてるじゃん……」
「かっこいい……」
「やっぱ高等部の三つ子、只者じゃないんだな……」
ざわめきは一層大きくなる。
教師の顔は赤くなり、反論を探そうと口を開くが、すちの静かな威圧感に言葉を詰まらせた。
庇われながら立つみことは、虚ろな瞳のまま……
けれど、ほんの一瞬。
すちの制服の袖を、弱々しく指先でつまんだ。
すちは気づき、僅かに表情を緩める。
「…大丈夫。俺がいるからね」
そう呟き、教師に背を向ける。
すちは周囲のざわめきを無視し、みことの手をそっと包み込んだ。
「……傷の手当をしよう。一緒に保健室に行っても良いかな?」
虚ろな瞳をこちらに向けたみことは、一瞬迷ったように瞬きをした。
だがすぐに、小さくこくりと頷く。
そして自らの意志で、すちの指先をぎゅっと握り返した。
その感触にすちは驚き、目を見開いた。
次の瞬間、優しく微笑みながらその手を引き、静かに歩き出した。
「…ありがとう」
すちはみことの手を握ったまま、教室の入口で一度だけ振り返った。
張り詰めた空気の中で、彼の口元にゆっくりと笑みが浮かぶ。
「……あぁ、そうだ」
軽やかに言葉を落とす声に、クラス全体が息を呑む。
「弟の机に花瓶を置いた奴。放課後までに俺のとこに名乗り出ないなら……どうなるか、分かってるよね?」
にこやかな笑顔の奥に潜む冷ややかさに、数人の生徒がごくりと唾を飲み込んだ。
教室中のざわめきは一気に凍りつき、誰一人として声を出せなくなる。
すちはその沈黙を確認するように一度だけ目を細め、背を向けた。
そして何事もなかったかのように、みことの手を引いて教室を後にした。
血の滲む袖を庇いながら歩くみことの横顔は、依然として感情の薄いままだ。
だが握られた手は、ほんの少しだけ温かかった。
すちはその温もりを確かめるように、決して離さずに歩を進めた。