テラーノベル
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異様な空気が
地下の闘技場を包み込んでいた。
リングの上には
戦い慣れた若き猛獣と
静かに構える、異端の闘士。
場内はざわついていた。
賭け師達が騒ぎ立て
酒に酔った観客が声を張り上げていた。
「なんだぁ、あの服!?本気かよ!」
「お上品な坊ちゃんの
来る場所じゃねぇよ!」
だが、賭け札は一方的だった。
ほとんどの札が
ソーレンに振られていた。
闘技場の常連であり、負け知らずの暴風。
誰もがその拳と蹴りで
地を揺るがせる姿を知っている。
だが、その中でたった一人――
この〝静かに立つ男〟の力を
知っている者がいた。
ソーレン。
その場で唯一
誰よりも――
この男の強さを、深く知っている者。
「⋯⋯来ないのですか?」
時也の声は
まるで風のように静かだった。
しかしその一言が
張り詰めた糸をピンと震わせる。
「は!煽っても、無駄だぜ⋯⋯っ」
ソーレンは口元を歪めて応じた。
だが
その声の裏に
ほんの僅かな警戒が滲んでいた。
時也は微笑すら浮かべたまま
ただ静かに息を吐いて目を閉じる。
再び、鳶色の双眸が見開かれた
その瞬間ー⋯
空気が変わった。
場内のざわめきが――
ぴたりと止んだ。
何も変わっていないはずなのに
なぜか誰も声を上げなくなった。
目の前に立つ男が放ったのは――
狂気にも似た
凪のような殺気だった。
冷たいが、澄み切っている。
澄んでいるが 、底が見えない。
清冽な⋯⋯殺意。
それは、怒りでも憎しみでもない。
ただ
必要であれば躊躇なく〝殺す〟という
意志の静かな発露。
(⋯⋯そうだった)
ソーレンは、口元だけで笑みを浮かべる。
だが、指先はじんわりと汗ばんでいた。
(コイツは⋯⋯
例え身内だろうが、殺気を向けることを
何とも思わねぇ男だったな)
以前、自分が放った言葉が脳裏に蘇る。
「鍛錬とはいえ
身内にガチで殺気向けるのって
難しいんだよ」
――あれは甘えだったのか。
いや
優しさかもしれないとすら思っていた。
目の前の男は、そんな男だ。
(⋯⋯叱咤ってやつかよ)
甘えれば、潰される。
殺されることはない
なんて思ってかかれば
その瞬間で終わる。
時也の立ち姿は
まるで水面に佇む影のようだった。
どこにも隙はない。
柔らかく、しなやかで
だが鋼の芯を秘めている。
「⋯⋯舐めんなよ?」
ソーレンは
肩の力を抜きつつ、構えを少し低くした。
膝を柔らかく弾ませ、重心を落とす。
その顔には、僅かに笑みが残っている。
だが
その目だけは獣のものだった。
観客は息を呑む。
闘技場の空気は
刃の切っ先のように張り詰めていた。
いつ、どちらが動くか。
誰にも予想がつかない
完璧な静寂と静止の睨み合い。
それは
本物の戦いの始まりを告げる
たった一拍の
永遠のような⋯⋯間だった。
「──始めッ!」
再び
鋭く乾いた声が、場内に響いた。
その瞬間、世界から音が消える。
息を呑む観客
揺れる空気
汗の匂い
全てが時也とソーレンという
二つの存在に吸い込まれる。
リング中央
最初に動いたのはソーレンだった。
前傾姿勢から踏み込み
瞬時に距離を詰める。
左足で床を蹴り
右の拳を低く構えながら
そのまま崩しのタックルに入る構え。
フェイントを入れて
上段の拳が来ると思わせ
身体ごとぶつかるように──
「っ!」
だが、その一瞬。
時也の身体が
まるで水の流れのように斜めに捻じれた。
ソーレンの突進が、空を切る。
(躱された──!?)
だが、回避だけでは終わらない。
そのまま時也の右手が
ソーレンの肩口をそっと
押すように添えられる。
一切の力みがない。
だというのに──
「っ⋯⋯!」
体勢を崩された。
突進の慣性を逆手に取られ
ソーレンの身体が僅かに泳ぐ。
(ち⋯⋯っ!
動きの流れを〝崩す〟──
相変わらず厄介だなっ!)
咄嗟にソーレンは後方に受け身を取り
間合いを取り直す。
膝を擦り
汗を拭う間もなく再び前に出た。
今度は、右ロー。
膝横の腱を狙い、回し蹴りを低く放つ。
弧を描くその一撃は
鋭く、容赦がない。
「ふっ⋯⋯」
時也は
前足を後ろに引き
体重を乗せたまま軽やかに
その一撃を躱す。
だがそれは、ただの〝回避〟ではない。
ソーレンの踏み込みの癖を見抜き
回し蹴りの終わり際に間合いが空く
一瞬を読み
体幹を捻りながら
逆にソーレンの蹴り脚を左手で──
捕らえた。
(──速ぇっ⋯⋯!)
そのまま、倒される──
そう思った。
だが
ソーレンもただでは終わらない。
右脚を捕まれた状態で体を捻りながら
左の肘で時也のこめかみを狙う。
視界が揺れても、攻撃を止めない。
これは野獣の勘──
ソーレンの本能。
だが
その攻撃はまたしても
指先ひとつの操作で弾かれる。
時也は肘の軌道を読むと
肩を落として重心を逃がしつつ
ソーレンの腕を内側から払い
肘と肩の〝関節の遊び〟だけで力を逃がす。
(まるで、紙一重⋯⋯
いや、紙の〝端〟だ)
ソーレンは理解している。
この男は
〝技〟ではなく〝理〟で動いている。
力をぶつけるのではなく
相手の動きに答えを返すように動いてくる。
それが、時也──
受けて流し、崩して制す。
だからこそ。
「なら──止まるな、俺ッ!」
足が動く。
拳が閃く。
肘打ち、膝蹴り
フェイントからの崩し打ち。
流れるように技を繋ぎながら
接近戦の泥沼へと持ち込む。
リングの上で
二人の動きが閃光のように交差する。
一撃一撃が
致命ではなく〝牽制〟と〝崩し〟の応酬。
音を立てる殴打の中で
観客達は気付く。
これは、ただの戦いではない。
技と本能の会話だった。
観客席は、もはや誰も声を上げていない。
無音の中
ひとつの踏み込み
ひとつの捻り
ひとつの呼吸。
それらすべてに意味がある。
二人はまだ、互いを見定めている。
まだ、決着には早い。
それでも、
観る者の誰もが確信していた。
これは、もはや地下闘技ではない。
ー神域の一歩手前の⋯⋯命の交わりー
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静かなる理と、荒ぶる本能が共鳴し 夜の闘技場を破壊と制裁の戦場へ変える。 桜の刃と重力の奔流が絡み合い 誰一人、彼らを止めることはできない──