狩らなければ狩られるだけだ。〈一度は愛し合った夫婦が〉なんて言い回しがあるが、私たちの場合夫は妻である私を一度も愛したことがなかったそうなので、こんなことになってしまったのは当然の帰結だったのだろうか?
シークレット結婚式に隠し子まで。夫のことが心底気持ち悪くなり、寝室を分けて家庭内別居に踏み切ろうと考えたこともあったけど、油断させるために今のまま同じ寝室で寝起きをともにすることにした。
私に黙って生命保険をかけたそうだから、寝首をかかれることだけは気をつけなければいけないけれども。
用心深い幸季はスマホではなく書斎のパソコンで秋山桔梗と連絡を取っていた。何重にも強固なセキュリティが施してあったが、専門業者の力を借りてすべてのパスワードは解析済み。二人が過去にどんなやり取りをしていたか、今どんなやり取りをしているか、すべてが筒抜けになっている。もちろん幸季の在宅中は書斎に立ち入れないという制限はあるが。
メッセージをやり取りしたデータは逐次取り出して私のパソコンに保管している。膨大なデータの中から使えそうなものをいくつか印刷して、私は彼女に会いに行った。
電車で約三十分の距離。平日の夕方、彼女の住むマンションのそばで学校帰りの彼女を待った。
彼女を味方につけることが今日の行動の目的。ここは敵の本陣のまっただ中。でも虎穴に入らずんば虎子を得ず。何もしなければサンドバッグのように殴られ続けて、結局すべてを失い一人ぼっちで途方に暮れる羽目になるだけだ。今日ようやく私の反撃が始まる――
彼女は夕方五時頃に現れた。本人確認するまでもない。本当にうちの菫と同じ顔をしているから。顔だけじゃない。背丈も体型も瓜二つ。腹違いの姉妹だけど双子と言っても通用しそうだ。
違いは髪型と髪の長さが違うくらい。うちの菫はバスケットボール部員らしくスポーティーなショートカット。一方、秋山菫はサラサラストレートのロングヘアー。毛先は胸の辺りまで届く。そこまで詳しく調べてないが、中学校で運動部に所属しているわけではないようだ。
毎月幸季から十万円の送金を受けているとはいえ、母子家庭の秋山家の生活は苦しい。毎日フルタイムで働く桔梗の帰宅時間が夜七時過ぎであることは桔梗と幸季のやり取りから把握済み。桔梗が帰宅するまでの二時間が勝負だ!
「秋山菫さんね。お母さんはいつお帰りになりますか?」
「母なら仕事です。まだしばらく帰ってきません。それよりどうして私の名前を? あなたは誰ですか?」
声を聞いて、うわあとなった。声まで同じ。双子どころでなくクローン人間みたいだ。
「私? 私は――」
なるべく薄幸な女に見えるような服装と化粧でここまで来たが、駄目押しで両目から涙まで流してみせた。
「私は夏川蛍。あなたのお母さんが略奪婚を狙っている男の妻です」
驚いた秋山菫は私をマンションの部屋の中に入れてくれた。リビングではなく子ども部屋。ここが落ち着くらしい。
「夏川さんという方と再婚するつもりというのは母から聞いてました。まさか奥さんのいる人だったなんて。遊ばれてるだけに決まってるのに、お母さんどうしちゃったんだろう」
「ううん。二人とも本気。その感じだと、あなたは自分の父親が誰か知らないんでしょうね」
「略奪婚の話と私の父親の話にどんな関係があるんですか?」
「あなたの父親は私の夫なんです。つまり二人の本気の愛はあなたが生まれる前からということになりますね」
「えっ、つまり私はお母さんが不倫して産まれた子?」
「あなたのお母さんがあなたを身ごもったのは私が夫と婚約する前のことだったから、正確には不倫ではなかったようです」
最近桔梗が幸季に送ったメッセージをプリントアウトしたものを見せてあげると、菫は目を丸くした。
うちの菫はかわいそうな娘。生まれてからずっと父親を知らなかったから。
つらい目に遭わせて本当に申し訳なく思ってる。
やっと本当の父親と暮らせることになるんだね。
お互い子連れ再婚だけど、絶対にうまくいくよ。
幸季さんが奥さんに産ませた娘たちのことも、私は実子のように愛すると誓うよ。
私たちの再婚の障害はあの世間知らずでしょぼくれた奥さんだけ。
そっちの娘たちはもう幸季さんの噓を信じて、奥さんのことを嫌ってるんだよね。
早く奥さんの不倫とDVをでっち上げて身一つで追い出してやってよ。
かわいそうだから、追い出したあとでも月に一度は娘たちに会わせてあげればいいよ。でも娘たちに不倫女とか暴力女とか罵倒されて、すぐに心が折れちゃうと思うけどね。
いよいよ私も幸季さんの奥さんになれるんだね。正直体が震えるよ。この日が来るのを十五年待った。あふれる想いをもう抑えられない!
幸季さん、愛してる! 私を構成するすべての細胞があなたを求めてる! また昔みたいにすべてを忘れてあなたに抱かれたい! あなたのためなら私は死ねる! 逆に誰かを傷つけてでもあなたを奪いたい! 十五年前、お金と権力を振りかざしてあなたを奪っていったあの女が憎い! この十五年、私の心があなたを忘れたことなんてただの一度もなかった!
しばらく無言だった秋山菫がなんとも言えない表情で口を開いた。
「このアイコンは母のものだし、話の内容も母が書いたとしか思えない内容。父がどんな人かずっと知りたいと思っていたけど、こんな知り方はしたくなかった」
「見ての通り、あなたのお母さんと私の夫は本気で愛し合っています。邪魔者は私だけ。私が死ねばみんな幸せになれるのかなと思ったこともありました……」
「死なないで下さい! あなたは悪くないです。お金と権力を振りかざして恋人を奪ったと母はあなたを責めてますけど、どうせそれも違うんですよね?」
「私は父の言いなりに見合いしただけで、夫に当時結婚式まで挙げた恋人がいたことなんて知りませんでした」
「結婚式?」
「これ」
シークレット結婚式の動画を見せた。幸季と秋山桔梗が神父の前で永遠の愛を誓い、そしてディープキス。結局この映像を見つけるために、ホテルでの野獣のような二人の行為を記録した映像データのほとんどを吐き気をこらえながら見なければならない羽目になった。
秋山菫にそれを見せてもよかったが、心の準備なしにそれを見せれば正義感の強いこの娘はショックを受けてそれこそ自殺してしまうかもしれない。夫たちに復讐するために鬼にも悪魔にもなると决意したが、加害者でない者たちまで道連れにするつもりはない。
さて、母親のウエディングドレス姿を見て喜ばない娘はいないと思うが、そのとき秋山菫が流した涙は嬉し涙ではなかったようだ。
「結婚できない相手だから一日だけの結婚式を挙げたということ? 本気で愛し合ってるなら結婚をあきらめるべきじゃなかったし、結婚をあきらめたなら相手に長年いっしょに暮らした奥さんも子どももいるのに今さらよりを戻そうとするのはおかしいよ」
秋山菫が倫理観の壊れた子どもでなくてよかった。そのことだけは母親に感謝してもいいかもしれない。
「ところで、あなたはどうして今日母に会いに来たのですか?」
「お願いに参りました。あなたのお母さんが言う通り、私は世間知らずでしょぼくれた女です。夫を奪われるのも当然かもしれません。お金がほしいならいくらでも差し上げます。でも娘たちだけは奪わないで下さいと土下座してお願いしようと思っていました」
「あなたがお母さんにお金を渡す必要はないし、土下座もしなくていいし、ましてや何の罪もないのに自殺する必要もないですよ」
「でもお金なら、夫は私に黙って毎月十万円もあなたのお母さんに振り込み続けているんですよ」
「し、知りませんでした……」
「夫に隠し子がいることとずっとお金を送っていたことは、私もつい最近知りました。でもそれはいいんです。そのお金がないとあなたのお母さんがあなたを育てるのに困るでしょうからね」
本当は全然よくないが、秋山菫を味方につけるためだから仕方ない。
秋山菫が深々と頭を下げた。
「本当にすいませんでした。母は無実のあなたの悪口を言い募るだけでなく、あなたの夫との略奪婚まで企てていて本当に許せません。母に代わって謝ります」
「あなたに謝られても困ります。でも夫だけでなく娘たちにも冷たくされている状態ですから、あなたに優しい言葉をかけられて正直心強かったです」
「気を落とさないで下さい。私があなたの味方になりますから!」
どうやらうまく行ったらしい。私が夫と秋山桔梗に対抗するためには秋山菫はどうしても欠かせないピースだった。
幸季は娘たちを利用して私を家から追い出そうとしている。できれば大人同士の争いに子どもたちを巻き込みたくはないが、悪魔どもを退治するのにきれいごとを言っている場合ではない。
彼女にうちの菫の画像を見せると、あまりに自分と似ているので改めて衝撃を受けたようだった。最後に秋山菫とSNSの友達登録をしてから、私は彼女の住むマンションから退出した。
外はすっかり暗くなっていたが、真っ白な月がざわめく私の心を穏やかに照らしてくれた。
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