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「……ほんとに、嫌なこと言われてない?」
その問いかけは、不安げに空を舞った。藤澤が病室を後にするタイミングを待っていたかのように、元貴が再び鋭い視線を若井へと向ける。若井は一瞬、手話の動きを止めた。胸の奥がチリリと焼けるような感覚。藤澤の言葉が、まだ鋭いトゲのように胸を刺したままだ。だが、今はそれを表に出すわけにはいかない。
「うん。大丈夫。……それより…」
若井は努めて穏やかな微笑を浮かべ、話題を切り替えた。ん? と小首を傾げた元貴が、パイプ椅子を鳴らして身を乗り出してくる。その無防備な距離感に、喉の奥がキュッと締まった。
「……ごめんな。あのとき」
若井は耐えきれず、視線を膝の上へと落とした。
脳裏をよぎるのは、あの日の光景。激昂した自分に対し、小さく肩を震わせて怯えていた姿。あの姿が、今も網膜に焼き付いて離れない。
もう言ってしまったことや、してしまったことはやり直せない。
でも、だからこそ、今、ちゃんと謝るべきだと思った。
倒れる直前まで、気まずさから逃げて謝罪を後回しにしていた自分を、若井は心の底から呪った。今の穏やかな空気に甘えて、このまま無かったことにするわけにはいかない。
「……俺のために、頑張ってくれたんだよな。買ってきてくれてありがとう。ほんとに、嬉しかった」
言葉にすると、目の奥が熱くなった。視界が熱い膜に覆われていく。ふと顔を上げると、元貴は目を見開いたまま、石像のように固まっていた。予想外の言葉だったのか、それとも怒りが再燃したのか。若井はその反応に一瞬怯えながらも、堰を切ったように言葉を続けた。
「酷いことをしたと思ってる。許してほしいなんて言わない。ただ…このまま元貴がいなくなったらどうしようって、怖くて……。いや、それも言い訳だよな。本当にごめん」
一気に吐き出し、若井は深く頭を下げた。
首筋にじっとりと嫌な汗が伝う。目をぎゅっと瞑り、訪れる断罪を待つ。罵られても、突き放されても、それが当然の報いだと思った。
沈黙が、永遠のように長く感じられる。
不意に、若井の強張った両手の上に、ひんやりとした手のひらが重なった。驚きに目を見開き、恐る恐る顔を上げる。
そこには、俯いたままの元貴がいた。
長く伸びた前髪が影を作り、その表情を巧妙に隠している。若井の心臓は、これまでの人生で一度も経験したことがないほど激しく鼓動を打っていた。固唾を呑んで見守っていると、元貴は憑き物が落ちたかのように、勢いよく顔を上げた。
そこには、悲しみも、怒りもなく、 どこか達観したような表情だった。
彼は小さく首を振ると、若井の瞳を真っ直ぐに見つめ、丁寧に指を動かし始めた。
「……謝らないでよ。約束破ったのは俺のほうだし」
その動きは一見穏やかだった。けれど、当時の心情を思い出したのか、元貴の瞳にふっと深い影が落ちる。床に広がったコーヒーの匂い、震えた指先、感じた恐怖、悲しみ。それが今も元貴の心の奥底で疼いているのが分かった。
若井は、今こそ自分の本当の想いを伝える時だと確信した。ここでまた気まずさに逃げれば、二人の間の溝は永久に埋まらない。
「それでもだよ。怒るんじゃなくて、心配だったって気持ちをそのまま元貴に伝えれば良かった」
そう言い、俯いて眉をひそめた。
元貴がどれほど傷ついたか。懸命に尽くした善意を嘘だと切り捨てられ、背を向けられた絶望。それは一生かかっても拭い去れないほどの裂傷となって、元貴の魂に刻まれてしまったはずだ。
「俺のためにっていう元貴の気持ちまで否定して、本当に最低だと思う。……『嘘だった』なんて、言わせてごめん」
若井は、元貴の膝の上で組まれた白い手と、唇のあたりを何度も往復しながら、魂を削り出すように誠心誠意、謝罪を重ねた。ただ、目の前のこの存在をこれ以上傷つけたくないという、盲目的なまでの願いだけが若井を突き動かしていた。
その時だった。
元貴の手の甲に、ぽたりと、水滴が落ちた。
ハッとして顔を上げた瞬間、若井の心臓は鋭い痛みに貫かれた。
元貴は、泣いていた。
声を殺し、ただ静かに、絶え間なく溢れ出す涙が頬を伝い、膝の上で重なった手の甲を濡らしていく。眉尻を悲しげに下げ、一文字に結んだ唇を微かに震わせながら、肌に落ちた涙の痕を見つめていた。その痛々しいまでの静寂に耐えかね、今度は若井が、元貴の手を包み込むように自分の掌を重ねた。
肌が触れた拍子に、元貴がゆっくりと顔を上げる。
二人の目が真っ向から合った。濡れたまつ毛の奥にある瞳が、一瞬だけ、鋭く若井を射抜いた。それは、信じてもらえなかった悲しみと、消えない怒りが混ざり合っているようだった。
「……っ」
息を呑み、その拒絶を真っ向から受け止める覚悟をする。罵倒されても、手を振り払われてもいい。そう思って指先に力を込めた。
けれど、次の瞬間、元貴の瞳から険しさが霧散した。
張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、端整な顔を子供のように歪め、溢れ出す感情を制御できずに嗚咽を漏らす。睨みつけていた強がりのような表情が、縋り付くような泣き顔に変わっていく。若井の手を握り返すその指先は、小刻みに震えていた。
あの時感じた悲しみと、今ようやく得られた安心感が、泥流のように彼の中で渦巻いているのが痛いほど伝わってくる。
元貴がどんな言葉を投げつけてこようが、すべてを飲み込んで、受け止める。
そう自分に言い聞かせ、泣きじゃくる彼の顔をただ黙って見つめ続けた。
すると、元貴は涙で視界を遮られながらも、耐えかねたように、震える手で懸命に言葉を紡ぎ出した。
「……信じて、ほしかった……。俺……嘘なんて、ついてない…っ、若井のこと、助けたいって、思っただけなのに……っ」
嗚咽に混じったその言葉は、あまりに必死で、あまりに脆かった。
「……そうだよな」
若井は、その零れた本音に、鋭いナイフで胸を抉られるような痛みを覚えた。
視線の先では、元貴が視界を歪ませながら、震える指先で懸命に言葉を繋いでいる。千切れそうな糸を必死に手繰り寄せるような、悲痛な叫びだった。
ただ、助けたかった。信じてほしかった。
その純粋すぎる善意を、あの日、自分は無惨に踏みにじったのだ。元貴がどれほどの絶望の中で、自分自身の心を殺してまで「嘘だった」と思い込んだのか。その心境を想像するだけで、若井は息が詰まる思いだった。
だが、その苦しさの裏側には、皮肉にも深く、静かな安堵が広がっていた。
ようやく、元貴の本音に触れることができた。
あの日以来、二人の間にあった壁。それが今、涙とともに決壊し、剥き出しの言葉となって自分に届けられた。その事実が、若井の心を震わせる。
(……やっと、聞けた)
若井は、震える元貴の背中にそっと手を添え、壊れ物に触れるようにゆっくりと撫でた。
掌から伝わってくる体温は驚くほど高く、その呼吸はまだ激しく乱れている。元貴は縋り付くように若井の首元に腕を回し、顔を埋めた。シャツの襟元が、熱い涙と吐息で瞬く間に湿っていく。
元貴の指先が、離れまいと必死に服を掴んでいるのがわかる。そのあまりの脆さに、胸の奥が締め付けられた。
しばらく背中を撫で続けていると、元貴がふと力を抜き、急に顔を上げた。
まだ涙の跡が残る頬を濡らしたまま、しゃくりあげながらも、何か大切なことを思い出したかのような、どこか遠くを見る表情。その唐突な変化に、若井は動かしていた手を止めた。
「どうしたの?」
若井が落ち着いて包み込むように問いかけると、元貴は潤んだ瞳を揺らしながら、ゆっくりと話し始めた。
「……若井が病院に運ばれたときにね、廊下で涼架さんと話してたことなんだけどね」
その名前が出た瞬間、若井の胸の奥で、先ほどまでの甘い安堵が冷たい警戒心へと一変した。
先ほど言い合った様子が脳裏をよぎる。自分の知らぬところで、元貴に余計なことを吹き込んだのではないか。若井は表情に出さないよう努めながら、静かに頷いて先を促した。
元貴は、若井の内心の動揺に気づく様子もなく、言葉を続ける。
「若井から俺の話聞いてるって言うから、嫌なことだったらどうしようって思ったの。そしたら涼架さんが 『ご飯を半分も食べてくれたとか、嬉しいことばっかだよ』って。……嬉しかった。いつもありがと。若井」
最後の手話を終えると、元貴は花が綻ぶような泣き笑いの表情を浮かべた。
若井は、一瞬だけ呼吸を忘れた。
涼ちゃんが、そんなことを。
自分があんなに冷ややかに突き放したはずの彼が、自分たちの橋渡しをしてくれていた。
自分と元貴の間にあった刺々しい空気。それを、自分のいないところでそっと削ぎ落としてくれていたのだ。そう思うと、先ほどまで向けていた尖った感情が嘘のように霧散し、胸の奥には温かな感謝の念がじわりと広がっていった。
(……涼ちゃん)
若井の胸に、複雑な感情が渦巻いた。
「……こちらこそだよ。いつもありがと」
若井は少し照れくさそうに、けれど心底愛おしそうに目を細めて笑った。そう答えるのが精一杯だった。
藤澤に対して抱いていた、あの刺すような敵意が、元貴の言葉によって静かに雪解けしていくのを感じていた。
(……今度、焼肉でも奢らないとだな)
若井は、腕の中に収まる元貴の柔らかな体温を感じながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
抱きしめている腕に、もう一度だけ力を込める。元貴は小さく、幸せそうに鼻を鳴らして若井の肩に顔を埋め直した。
窓の外では、午後の柔らかな光が病室の床に長い影を落とし、風に揺れるカーテンが静かに波打っている。遠くで聞こえる救急車のサイレンも、廊下を歩く看護師の足音も、今の二人には聞こえなかった。
コメント
4件
やっと本音が聞けて良かったですね!そう、人間はやっぱり話し合うのが大事だなと改めて感じたし、藤澤さんどんまい! 最後の2行がすごくいいなと感じました。二人には聞こえいほど二人きりの時間を共有できてるんだって☺️
2人の世界が作られていってる感じがすごい好き。藤澤さんは藤澤さんで若井さんを依存から解放するためにと考えているからここから2人は離れていくのか、それでも二人の世界を守り続けるのか…すごく好き