テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
第324話 名前のない女性
【異世界/王都イルダ・王国警備局】
現実側から送られてきた資料には、名前がなかった。
あるのは
女性。
成人。
胸部重度損傷。
生命反応なし。
意識反応なし。
そして、異世界の文字で残された搬入元の一部。
ノノはその画像を何度も拡大していた。
「これ、やっぱりこっちの文字で間違いない」
アデルが横から見る。
「読めるか」
「全部は無理。途中が消えてる」
残っているのは数文字だけ。
地名でも人名でもない。
医療や研究記録で使われる古い略号に近い。
そこへセラが入ってきた。
「見せて」
ノノが画像を向ける。
セラはしばらく黙っていた。
そして画面の端を指した。
「これ……エリウス先生が使ってた書き方に似てる」
アデルが顔を上げる。
「エリウス?」
「うん」
セラは画像をさらに近くで見る。
「文字そのものじゃなくて、この区切り方」
傷の位置。
意識状態。
処置。
その横に付けられた、小さな記号。
「先生、患者の記録を普通の治療記録と少し違う形で残してたの」
ノノが聞く。
「どう違うの?」
「治療できるかどうかだけじゃなくて、その人が何を望んでるかを書く欄があった」
アデルの表情が変わった。
「本人の意思か」
「うん」
セラは小さく頷く。
「助けられるから助ける、じゃなかった」
少し間。
「先生はいつも聞いてた」
生きたいか。
残りたいか。
どうしたいか。
セラ自身もその問いを受けたことがある。
◆ ◆ ◆
【王都イルダ・旧救護記録庫】
エリウスの研究資料の大半は残っていない。
死後。
研究室は閉鎖され。
一部の資料は没収。
一部は紛失。
さらに後になって、王都側の記録そのものが書き換えられた。
それでも
治療所や救護施設に回された記録まで、すべて消すことはできなかった。
ノノは古い索引を端末へ取り込んでいく。
「条件を絞るね」
女性。
上野文
10,374
#シェイプシフター
柊遊馬
6,247
#白い結婚
夕凪ゆな
413
胸部負傷。
戦時中。
エリウス。
保存処置。
該当記録。
最初は七十四。
そこから
重傷。
意識低下。
通常治療不能。
十一。
さらに記録欠損。
三。
アデルが言う。
「三人か」
「うん」
一件目。
高齢女性。
腹部負傷。
違う。
二件目。
若い女性。
胸部損傷。
ノノの指が止まった。
セラも画面を見る。
記録の大半が消えている。
名前。
空欄。
所属。
一部欠損。
年齢。
推定二十代前半。
負傷原因。
戦闘による胸部損傷。
アデルが低く言った。
「これか」
ノノはまだ答えない。
続きを開く。
《心肺機能・著しく低下》
《意識状態・不安定》
《通常治癒術による完全回復・困難》
そして。
《担当・エリウス》
セラの顔が強張った。
「……先生」
◆ ◆ ◆
さらに下。
別の記録が残っていた。
診療記録ではない。
エリウス個人の補足。
文章の一部は欠けている。
それでも読める。
ノノがゆっくり読み上げる。
「『本人へ確認する』」
アデルが見る。
その下。
「『生命維持処置を行う前に――』」
文字が消えている。
次。
「『本人の希望を優先』」
セラが目を伏せる。
「やっぱり先生」
アデルが聞く。
「この女性に何をしようとしていた」
「たぶん」
セラは少し考える。
「私の時と近い」
致命傷。
通常の治癒では助からない。
だが意識そのものをすぐに消えない状態へ保つ。
身体から完全に切り離すのではなく
本人が選択できる時間を作る。
セラは胸元へ手を置いた。
「先生は私にも聞いた」
消えたくないか。
どうしたいか。
「勝手にはやらなかった」
ノノが記録をさらに送る。
すると一行。
別の筆跡。
《本人意思・未確認》
アデルの目が細くなる。
「未確認?」
セラも画面を見る。
「先生が聞けなかった?」
その下。
《処置中断》
さらに。
《対象移送》
ノノが顔を上げた。
「移送されてる」
「どこへ」
アデルが聞く。
「そこが消されてる」
◆ ◆ ◆
記録は
そこから急に途切れていた。
エリウスによる処置。
本人意思の確認。
その途中
女性は別の場所へ移された。
アデルが腕を組む。
「本人が希望した可能性は?」
「低いと思う」
セラが答えた。
「どうして」
「先生なら、本人が決めたなら書くから」
生きる。
止める。
待つ。
どんな答えでも本人の選択として残す。
だがこの女性には。
《未確認》としかない。
「答える前に連れていかれたんだと思う」
セラの声が少し低くなる。
ノノは別の資料を探した。
「移送日を基準にしてみる」
同じ日。
研究施設への搬入記録。
軍の移動記録。
境界術式の使用。
いくつか壊れている。
だが一件だけ
残っていた。
《特殊搬送許可》
承認者。
欠損。
目的地。
欠損。
対象。
《重傷者一名》
そして使用された術式。
ノノが画面を拡大した。
「これ……」
アデルが聞く。
「何だ」
ノノの表情が変わった。
「普通の搬送術じゃない」
境界固定。
空間座標。
短時間の層接続。
アデルも気づく。
「転移か」
「うん」
しかも、術式構造に見覚えがあった。
カシウス側が後に使うことになる
世界間接続系統。
完全なクロスゲートではない。
だが根は同じ。
ノノが小さく言った。
「カシウスが関わってる」
◆ ◆ ◆
セラは長い間何も言わなかった。
アデルが見る。
「何か思い出したか」
「少しだけ」
「何を」
セラは目を閉じた。
昔。
まだ戦争の傷が至るところに残っていた頃。
エリウスの研究室。
人の出入りは多かった。
兵士。
治療師。
研究者。
怪我人。
その中に一人。
若い女性がいた。
「先生のところで働いてた人がいた」
ノノが振り返る。
「助手?」
「たぶん」
セラは眉を寄せる。
はっきりしない。
研究資料を運ぶ。
治療器具を整理する。
エリウスと話す。
そんな姿だけが断片的に残っている。
「顔は?」
アデルが聞く。
「思い出せそうで……思い出せない」
「名前は」
セラは首を振った。
「分からない」
そこで自分でもおかしいと思った。
何度か会っている。
存在は覚えている。
なのに名前だけが
綺麗にない。
「……変」
セラが呟く。
ノノが見る。
「何が?」
「先生の研究室にいたことは覚えてるのに」
セラはこめかみへ手を当てる。
「名前を呼んでる場面が、一つも出てこない」
アデルの表情が変わった。
以前
王都では記録だけではなく
人の記憶にも手が加えられていた。
エリウス。
その死。
研究の消去。
カシウス側。
オルガ。
ヴァルド。
そして王都全体へ広がった改竄。
「名前だけ消された可能性があるのか」
アデルが聞く。
ノノはすぐには答えなかった。
「あると思う」
画面を見る。
「紙からも」
セラを見る。
「人からも」
◆ ◆ ◆
【現実世界/警察関連施設・臨時合同分析室】
異世界側から届いた報告を
城ヶ峰たちは黙って読んでいた。
《女性・推定二十代前半》
《エリウス関係者の可能性》
《戦闘による胸部重傷》
《本人意思確認前に移送》
《カシウス系統の境界術式使用痕跡》
《氏名記録・消失》
木崎が最初に言った。
「じゃあ、あの死体は」
城ヶ峰が答える。
「異世界で負傷した女性」
「それをこっちへ運んだ?」
「その可能性が高い」
日下部が検視記録を見る。
「でも現実側で発見された時には、すでに死亡していた」
「いつ死んだかは?」
「断定できません」
身体の保存状態。
処置。
特殊な環境。
通常の死亡推定が使いにくい。
木崎が画面を見る。
「何でわざわざ死体をこっちへ持ってくる」
日下部は答えない。
城ヶ峰もまだ分からない。
だが
一つだけはっきりしてきた。
この女性は
最初から死体として扱われていたわけではない。
エリウスは
彼女へ選ばせようとしていた。
生きたいか。
どうしたいか。
その答えを。
だが答える前に。
誰かが
身体を奪った。
◆ ◆ ◆
【異世界/旧救護記録庫】
ノノは最後の資料を開いていた。
ほとんど消えている。
そこに残っていたのは
エリウスの短い文章。
《本人への確認を優先》
次の行。
《まだ答えを得ていない》
そして最後。
途中から
別の文字で上書きされている。
元の文章は読めない。
セラがじっと見ていた。
「先生」
小さな声。
アデルが振り返る。
セラは画面から目を離さない。
「この人」
一度。
言葉を止める。
「先生は、まだ助けるとも決めてなかったと思う」
「なぜだ」
「本人が決めてなかったから」
アデルは黙る。
「でも」
セラの表情が強張る。
「カシウスたちは待たなかった」
誰かが
本人の答えより先に
身体を持ち出した。
その後
名前を消し。
記録を消し。
現実世界へ運んだ。
そして。
長い時間が過ぎたあと。
名前のない遺体として。
見つかった。
ノノが画面を閉じる。
そこに名前はない。
今も。
まだ。
ない。
コメント
1件
読了しました……第324話、すごく重くて、静かに胸に刺さりました。 エリウス先生が「生きたいか」をちゃんと聞いていたっていうのは、セラの時もそうだったけど、この“名前のない女性”に対してはその答えを聞く前に連れ去られてしまったっていうのが切なすぎる。記録も記憶も消されて、今もまだ“名前がない”まま——ノノたちがそこに辿り着く過程の描写が丁寧で、余計に心に残りました。橘さんのこういう“消された人の存在”を掘る書き方、本当に好きです🕯️🤍