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エントランスでひと区切りついたはずなのに、まだ胸の鼓動は落ち着かない。
黒川さんは私の手をそっと離し、少し気まずそうに息をついた。
「急に巻き込んで悪かった。……本当に助かった」
「い、いえ……あんなに困っているとは思わなくて」
そう答えると、彼はほんの僅かに眉を下げ、疲れたような表情を見せた。
普段の冷静さが嘘みたいで、胸の奥がちくりと痛む。
「……お礼と言ってはなんだが、夕飯まだなら作るよ。簡単なものだけど」
「えっ、いえ、そんな」
「遠慮しないでほしい。俺がしたいんだ」
まっすぐに言われ、それ以上断れなくなった。
彼の部屋に入るのは初めてではあるけれど……“恋人役の流れ”で行くのは緊張が段違いだ。
エレベーターでふたりきりになる。
沈黙が落ちると、さっきの元婚約者の鋭い視線を思い出してしまった。
あのとき、黒川さんが私の手を強く握った感触も。
胸が再び熱を持ち始める。
「……怖かったか?」
不意に声をかけられて、肩が跳ねた。
「えっ、その……少しだけ。でも黒川さんが、すぐ隣にいたから……」
そこまで言うと、エレベーターの壁に映った彼の横顔が、ゆるく緩んでいるのが分かった。
「そうか。……ならよかった」
低い声でそう呟く。
エレベーターの狭い空間でその声が響き、鼓動がまた早まる。
相変わらず整っていて、落ち着いた香りがじんわりと広がっている。
“男の人の部屋”という感じがして、足を踏み入れるたびに妙に緊張してしまう。
「そこに座って。すぐ作る」
黒川さんはキッチンに向かい、慣れた手つきで食材を取り出し始めた。
彼が料理をする姿は意外と板についていて、包丁の音が一定で、無駄な動きがない。
「……普段から、料理してるんですね」
「まあな。仕事柄、家にいる時間が少ないから、簡単なものしか作れないが」
仕事柄。
そういえば、彼が何の仕事をしてるのか、ちゃんと聞いたことがなかった。
「あの……黒川さんは、どういうお仕事を?」
すると彼は手を止め、ほんの少しだけフライパンをかき混ぜる手が遅くなる。
「コンサル関係だ。人と関わることが多いが、家では静かにしていたい。……だから、騒がしい人間は苦手だ」
その言葉に、ふと胸がざわつく。
──じゃあ、私は迷惑じゃないのかな。
そう思っていると、黒川さんがこちらを振り返り、目が合った。
鋭いはずのその黒い瞳が、柔らかく笑っていた。
「君は騒がしくない。むしろ……一緒にいて落ち着く」
「……っ」
唐突な言葉に、顔が熱くなる。
心臓の音が、テーブルにまで響きそう。
料理が出来上がり、テーブルに並べられる。
和風の炒め物、サラダ、スープ。
どれもほっとする味で、噛むたびに気持ちが緩む。
「食べられるか?」
「はい! すごくおいしいです……!」
そう言うと、彼は照れたように視線を落とした。
食事が終わるころ、私は思い切って聞いてみた。
「元婚約者さん……すごく、しつこい人なんですか?」
黒川さんはスプーンを置き、わずかに息を吐いた。
「……俺がはっきり断らなかった時期がある。仕事で疲れて、誰でもいいから側にいてほしいと思ったんだ。相手には“期待させる言葉”も言ってしまった」
言葉を失った。
普段の冷静な彼からは想像できない過去。
「それが間違いだった。だから今日、きっぱり終わらせた」
その目は強く、迷いがなかった。
気がつけば、私はひとつ質問を重ねていた。
「じゃあ……今好きな人は?」
言った瞬間、自分でも信じられないほど大胆だった。
けれど、黒川さんは驚いた顔で私を見る。
「……なんでそんなことを聞く?」
「え、えっと……気になって……」
しどろもどろになって視線を逸らしたそのときだった。
椅子が引かれ、ふわりと影が落ちる。
気づけば黒川さんがすぐ真横に移動してきて、腕の距離がゼロに近づいていた。
近い。
息が当たるほど、近い。
「……教える必要があるのか?」
そう囁くように言われ、背中がぞくりと震える。
「き、気になっただけで……」
「君が知りたいなら、教えてもいい。……ただし」
黒川さんが私の手首をそっと掴む。
指先から体温が流れ込んでくる。
「それを聞いたら……君にも覚悟がいる」
「……覚悟?」
「“恋人のふり”なんて曖昧じゃ済まない話になる」
低い声。
耳元で落とされたその響きが、心臓の奥を震わせる。
逃げられない。
でも、逃げたくなかった。
私が固まっていると、黒川さんは小さく笑って、その手を離した。
「……今はまだ言わない。いつか君が聞きたいと思ったら、そのとき話す」
そう言うと、まるで何事もなかったかのようにコーヒーを淹れ始めた。
けれど、腕の内側に残った温度が消えない。
まるで、触れたところだけが秘密みたいに熱いまま。
──これは、ただの“恋人役”じゃ済まなくなる。
直感で、そう思った。