コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
黒川さんの部屋でコーヒーを飲み、少し落ち着いた頃。
ふと窓の外を見ると、ぽつ、ぽつ、と雨粒が落ち始めていた。
最初は静かな雨だったのに、あっという間にザーッと強まり、窓を叩くほどの音に変わる。
「……え、こんなに急に」
思わず立ち上がると、黒川さんが横に来て窓越しに外を見た。
「予報では降るとは言っていたが……ここまで強くなるとはな」
その横顔は、薄暗い部屋の光に照らされて大人っぽく見える。
近づきすぎないように距離を取ろうとしたけれど、黒川さんは自然と肩を寄せていた。
やめて、と言えない距離。
ほんの数センチの距離が、心臓の音を大きくする。
「傘ある?」
「……家に置いてきました」
「……そうか」
その一言のあと、黒川さんは少し考え、静かに言った。
「危ないから、今日は帰らない方がいい。
……泊まっていけ」
「えっ」
心臓が跳ね、声が裏返りそうになる。
「無理にとは言わない。でも、この雨の中、外に出す方が危ない」
確かに、外はすでに白く霞むほどの豪雨だ。
だけど……泊まる、なんて……。
「寝室は俺が使う。君にはリビングのソファを使ってもらう。鍵もかけられるようにしてある」
淡々とした口調だけど、気遣いが細かい。
誤解させないように線を引いて、でも守ろうとしてくれている。
「……それなら」
小さな声で答えると、黒川さんがわずかに微笑んだ。
「決まりだな。まず、体拭け」
そう言ってバスタオルを渡される。
さっき窓際に行ったときに濡れた髪を気にしてのことらしい。
「髪、拭くの手伝おうか」
「えっ、大丈夫です!」
本当に大丈夫だった。
でも、黒川さんは小さく首を傾げ、少しだけ悪い笑みを浮かべた。
「断られたな。残念だ」
「……からかわないでください」
「からかってはいないよ」
そう言われると、返す言葉がなくなる。
ソファに座ると、ふわりと柔らかい空気が体を包む。
黒川さんはタオルを差し出し、一歩近づく。
「少し、貸して」
タオルを受け取ったその手が、私の髪にそっと触れた。
優しい。
乱暴さなんてどこにもない。
ごく自然に、髪を包み込むように拭いてくれる。
「……黒川さん、自分でやりますから」
「いい。君は人にやられることに慣れていないだろう」
「そんなの、見てわかるんですか?」
「わかるさ」
拭く手が少しだけ強くなった。
だけど痛くない。
むしろ、触れられた場所がじんわり熱を持っていく。
「君の髪、柔らかいな。……いい匂いがする」
「っ……!」
急にそんなことを言わないでほしい。
顔の熱が一気に上がる。
「ま、まだ濡れてますよね。ちゃんと……」
「慌てなくていい。逃げられると、追いたくなる」
「っ……な、なにを……」
「冗談だよ」
冗談と言っているのに、声が低くて、冗談に聞こえない。
拭き終わると、黒川さんはタオルを畳み、ふう、と息をついた。
「……本当に。君を巻き込んでばかりだ」
「そんなこと……でも、どうして私だったんですか?」
聞いた瞬間、黒川さんの目がこちらをまっすぐ見てきた。
逃げたくなるほど綺麗な視線。
「君は、俺に近づこうとしなかった。
興味も、距離も、ちょうどよかった」
「ちょうど……よかった?」
「……安心する距離、という意味だ」
そう言いながら、指先がそっと私の頬に触れた。
軽い、でも確かな触れ方。
呼吸が止まりそうになる。
「君といると、変に気を張らなくていい。……それが、救いだった」
雨の音が強くなり、部屋の静けさを満たす。
その中で、彼の声だけが鮮明に響いた。
「俺は、人を頼るのが苦手だ。
でも……君には頼りたくなる」
「……黒川さん」
呼んだだけなのに、黒川さんが少しだけ近づいてくる。
唇の距離が、嘘みたいに近くなる。
キス、される……?
意識した瞬間、鼓動が跳ねて胸が苦しい。
でも黒川さんは、ぎりぎりのところで止まり、小さく笑った。
「……今日はこれ以上しない。君が困るからな」
そう言って、そっと距離を取る。
離れた腕が熱を残したまま、冷めてくれない。
渡されたブランケットにくるまりながら、天井を見上げる。
雨の音が静かに響き、さっきの距離を思い出すたびに胸が熱くなる。
黒川さんは……私をどう思っているのだろう。
恋人役。
ただの嘘。
でも、さっきの触れ方は……。
考えても答えは出ない。
でもひとつだけ分かった。
──私はもう、彼を意識してしまっている。
その事実だけが、胸を締め付ける。